追憶のその先に

 仄暗ほのぐらい通路に、石灰岩のタイル床を削る重低音が規則的に響いていた。

 先導する若い軽騎兵は、時たま不愉快そうにして振り返っては舌打ちをするのだが、雄牛の脚ほどある巨大な鉄槌を引きずって歩くハルの耳にまで届くことはなかった。


 突然現れた王国騎士たちに捕まってしまったアシュリンとハルは、バルカイン神殿のどこかへと連行されていた。油断していたとはいえ、ああも見事に気配を消せるとすれば、妖精族か獲物を狙う猛禽類、あるいは、暗殺技術の修得者くらいだろう。


「おい、もっと早く歩け!」


 背後からの苛立った声に、「すみません」とだけ小さく答えたハルが、額に汗玉を浮かばせたまま歩き続ける。


 捕らわれた際、〝この武器は呪われていて手離すことができない〟と嘘をついてみたものの、果たしてその判断が吉と出るのか凶と出るのか──。

 攻撃力が未知数の鉄槌を見下ろしてため息をついたハルは、彼らの挙動や些細な仕種から正体を探りつつ、八メートル先を常に進むアシュリンのうしろ姿を見つめた。



 ハルがクラウザー家に侍女としてつかえ始めたのは、今は亡きアシュレイ王妃が懐妊して間もない頃だった。つまり彼女は、母と子、二代に渡って十六年ほど世話係を勤めている。

 アシュリンの年相応の標準的な体格と白銀の光沢を放つ美しい髪は、母親から譲り受けた遺伝子がホビット族を祖とする父王の血統に大勝利したあかしでもあった。

 五歳を過ぎたあたりからアシュリンの背丈はマグヌス王を超え、十歳にもなると、同い歳の子供のなかでも身長は高いほうにまで育っていた。病弱な王女の順調な成長振りに、マグヌス王や家臣たちも涙を流して喜んだ。


「わしに似なくて、本当によかったぞよ」


 私室の壁に飾られた先代王たちの肖像画を一緒に眺めながら、ハルも〝ですよね〟と思ったことを、今でもきのうのように覚えている。

 それでもアシュリンは、生まれながらにして謎の奇病におかされていた。それゆえ、騎士団を結成するまでは、城の外へ一歩も出ることすら許されなかった。亡き妻の大切な忘れ形見を、マグヌス王は可能な限り守りたかったのであろう。


 だが、ハルは知っている。


 アシュレイ王妃に深く信頼され、主従を超える友人関係を築いていたハルは、王妃からの強い要望で出産に立ち会っていた。


 だからこそ、知っている。


 その病がなんなのか──。


 いや──。


 それが病ではないと、ハルは知っていた。




 アシュレイ王妃が産気づいたのは、臨月を迎えたばかりの昼下がりであった。

 その日、三人の若い侍女たちを従えて見頃となった薔薇園を散策していた王妃は、腹部に強い衝撃を感じた直後に破水してしまう。侍女たちの誰もが出産経験は無く、初めて目の当たりにする事態に若い娘たちは混乱した。


「す、す、すぐに寝室へお連れしないと! だっ、誰か、ひ、ひ、人を呼んでまいりますっ!」


 あわてふためいた侍女のひとりが、ミモレ丈の裾を膝下まで摘まみ上げて城へと駆け出していった。いつもおとなしくて無口な彼女がそのようなことをするとは、意外だった。


「それでは、わたしはお医者さまを──うくっ!?」


 不意にハルの手首に痛みが走る。

 アシュレイ王妃が掴んだのだ。


「まっ……待って……ハル……どうかあなたは、行かないで……ちょうだい」


 王妃の力は、手首が今にもちぎれそうなほどの強いものだった。陣痛にたえる苦悶の表情で見つめられたハルも、手首の痛みを堪えていたのだが、握り震える王妃の白い指をやさしく包み込み、穏やかに笑ってみせた。


「わたしはここにおりますので、どうかご安心くださいませ」

「あの……それでは、わたくしが代わりに宮廷医師を呼びに行ってまいりますわ!」


 さらにひとり、侍女がその場から立ち去る。

 ほどなくしてふたりきりとなった薔薇園に、王妃の絶叫が響く。

 倒れそうなのをなんとか堪えたアシュレイ王妃は、膝立ちのまま悪魔のようなうめき声を発していた。美しい面持ちも、滝のような脂汗で化粧が崩れて台無しであった。


「アシュレイ様、どうかお気をたしかに!」


 同じように膝立ちとなったハルも、掴まれた手首の激痛にたえながら、母親になろうとしているアシュレイ王妃を励まし続けた。

 もうすぐ新しい生命いのちが生まれる。

 王家の第一子。性別はどちらでもよいようにと、名前も許嫁もそれぞれがすでに決められていた。

 だが、ハルにとって性別など関係ない。最も重要なのは、無事に生まれてくれること。ただそれだけだ。

 そのために侍女として、自分は──。


「ああぁああああぁぁぁああああああッッッ!!」


 それは、大きな苦しみの咆哮だった。

 アシュレイ王妃はそのまま赤子を産み落とすと、糸の切れた操り人形のように卒倒した。そして、それが彼女の断末魔の叫びとなった。


(──赤ん坊は!?)


 すぐさま四つん這いになったハルは、赤紫に変色して感覚が麻痺した右手でマタニティワンピースの裾を払いのけると、鮮血で染まった芝生の上にへそで繋がれて転がる肉の塊を見つける。その形をあえて例えるならば、肉片が幾重にも覆い被さった大きな蕾だろうか。



 間違いない。


 この中に、いる。



 素手で肉の花弁を引き剥がしていく。

 一枚一枚剥がすたび、返り血を浴びてハルの顔や衣服にドス黒い紋様が施される。

 やがて中から、透明なゼリー状の体液と血にまみれた女の子の赤ん坊がひとり、地上に現れた。


「これは……人間なの? 嘘でしょ……そんな……なんで人間なのよ……」


 軽い眩暈めまいを覚えたハルは、胃が痛むのも感じつつ、途方にくれていた。

 ふと、ある占い師の老婆がよこした言葉が脳裏を過る。


『生まれ変わっても、完全じゃあない。けどね、やがては目覚める。確実に、目覚めるのさ』


 冷たい眼差しで見下ろしていたハルが、ゆっくりと赤ん坊を抱きあげる。

 そして瞳を閉じると、目のまだ開かない姫君に頬を寄せて静かに笑顔をみせた。




 あれから十四年。


 シャーロット・アシュリン・クラウザーは病弱ながらも、利発に美しく育った。

 けれども王女からは、なんの兆候も見えない。

 いっそのこと、強引にことを済ませてしまおうか──。

 何度もハルは、その想いを殺してこれまでつかえてきた。

 しかし、それも無駄になろうとしている。このまま謎の輩たちにアシュリンを引き渡すわけにはいかない。いかないのだ。

 長年の……これまでの努力と苦しみが……それは自分だけでなく、異世界へとみ込まれてしまった、愛する──。


「あっ」


 ハルの前を歩いていたアシュリンが、急に声を上げて立ち止まる。


「なんだ? 勝手に止まるな! さっさと……」


 ぶちゅん!


 先導していた軽騎兵が振り向くと、彼の頭は天井から垂れるように伸びてきた黒い粘液に取り込まれ、一瞬のうちにそのまま上へと引きちぎられた。

 切り離された胴体が噴水のように鮮血が迸らせて倒れるのをよそに、背中に剣を突きつけていたハルと最後尾の軽騎兵も驚きの表情で天井を見上げる。

 そこには、巨大な黒いスライムがこちらの様子をうかがうようにしてへばりつきながら、体内に取り込んだ頭部を消化していた。

 下水道にいたあのスライムの亜種なのだろうか──ハルは攻撃にそなえて、鉄槌の柄を強く握り締める。


「な……クソッ、こんな魔物がいるなんて聞いてないぞ!」


 恐怖に怯える顔を上げたまま、腰ベルトから短筒を取り出した軽騎兵が先端部分にある紐を勢いよく引く。


 シュルルルル……!


 またたく間に白煙が漏れ出し、そいつを黒スライムへと投げつけた。


「これでも喰らえ!」

「──!? 姫さま、伏せて!」


 瞬時にそれを爆薬だと判断したハルは、すぐさま鉄槌を手放してアシュリンの薄い背中に飛びかかる。

 と、周囲は一気に閃光と轟音の世界に変わり、瓦礫の雨と炎に包まれた粘液がふたりの身体に容赦なく降りそそぐ。

 それは、ごくわずかの時間の出来事であったのだが、ハルとアシュリンは随分と長いあいだ動くことはなかった。

 ようやく意識を取り戻したハルは、急いでアシュリンを抱き起こす。


「姫さま! 姫さま!」


 そのまま頬を指先で何度もはたく。咳をしたので、死んではいないようだ。

 安堵のため息をついたハルが、今度は鋭い目つきに変わって背後を見る。

 黒スライムは粉々に砕け散り、その残骸も焦げ臭い以外は害を及ぼす心配はなさそうだ。あの軽騎兵も瓦礫の下敷きになったようで、潰されずに残った2本の足だけがはみ出して見えていた。


「こほっ、こほっ……ハル……ありがとう」


 目覚めたアシュリンが、うっすらと細めた潤む瞳に命の恩人を映す。

 お互いに笑っていた。

 ハルと笑い合うのは、これで何回目だろう。アシュリンにとって、彼女は主従関係を超越した存在だった。

 どんなときでも自分を守り──時には厳しくなって叱られもするけれど──優しい笑顔とぬくもりで包み込んでくれるハル。母というものを知らずに育ったアシュリンだが、きっとそれは、ハルのような女性なんだと、幼少の頃より思っていた。


 ずっと一緒に、これからもそばで仕えてほしい。


 そう願いながら伸ばされたアシュリンの手を、ハルは遮るようにしてゆっくりと掴み、聖母を想わせる穏やかな微笑ほほえみで胸のなかの王女を見つめていた。


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