エンカウンター

 倉庫の裏側は、密に隣接する建造物が日光を遮り、まだ陽が高いというのに薄暗く、水のすえた悪臭までが漂う劣悪な環境だった。

 我らが騎士団長は膝が隠れるロングブーツを履いているのだが、レベッカはショートブーツを選んで履いていた。歩くたびにふくらはぎまで飛び跳ねてくる汚水の飛沫しぶきが、物理的にも精神的にも不快な攻撃を仕掛けてくる。


(ああっ、もう! こんなところに来るんなら、あたしもロングブーツにすればよかったぜ!)


 これ以上ド派手な物は身につけたくないと、頑なに断った装備品をレベッカは悔やんだ。

 足もとに気をとられつつ、少しばかり時間をかけてゴミ置き場らしき一角へとたどり着く。そこから裏口の扉まで気配を消して近づき、静かにドアノブを回してみるが、内側から施錠をされているようで開かなかった。


「……ひょっとして、これか?」


 不意に思い出したのは、今朝がたの男が持っていたボロい鍵。着丈の短い上着の内ポケットからそれを取り出して半信半疑で使ってはみたものの、奥まで差さらずに途中で止まった。


(クソッ、蹴り破るしかないか)


 片足を上げ、肉づきのよい引き締められた太股がさらに姿を現した頃、内側から施錠を外す音が聞こえた。レベッカは瞬時に反応し、背中の鞘からブロードソードを抜きつつ、扉の死角へすばやく移動する。

 やがて、扉から鈍くきしむ金属音が辺りに鳴り響く。

 漆黒のローブをまとったひとりの人物が、扉を抜けながら目深に被っていたフードに手をかける。扉の陰に隠れていたレベッカは、その人物の正体を見届けることもなく、剣を斜めに振り上げて勢いよく斬りつけた!

 が、重たい手応えの先には、丸まって絡みつくローブだけが、ぶら下がってわずかに揺れ動いている。会心の不意討ちがかわされたのだ。


「──そんな!? ウソだろ!?」

「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」


 下卑た笑い声の主は、生活の困窮がうかがえる服装の、痩せこけた小男だった。男は短刀を片手に握り締め、近くの水溜まりの上で不気味に立っている。

 よく見ればその男の目玉は異様に大きく、鼻の高さは無いに等しい。肌の質感も陶器のようにツルツルとしているのが、三メートル離れたこの距離からでも容易にわかる。レベッカは、この男が普通の人間とはとても思えなかった。


「畜生め。あたしの攻撃をかわすなんて、てめぇーはいったい何者なにもんだ?」

「おまえこそ誰だ? あの軍人の仲間か?」

「軍人?」

「フッ……まあ、気にするな。威勢のいい〝生贄いけにえ〟は歓迎するよ」


 そう言って異形の男は、手にしている短刀を顔の間近まで引き寄せ、長い舌で刃身に付着している血を美味うまそうに舐めた。それが自分の血液であるとレベッカが気がついたのは、太股から垂れてきた鮮血の温もりによってである。


(コイツ、いつの間に──?!)


 右太股の細い斬り傷を見下ろす。浅いとはいえ、なぜかまったく痛みがない。いや、むしろ、心地よい痺れが傷口を中心に広がっていく。


ドブネズミですら・・・・・・・・ああなった・・・・・。人間はどう変わる・・・・・のかな……ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」


 突然、レベッカの息が荒くなる。

 つま先に力が入らない。

 頬も火照り、眩暈めまいまでおきる。

 ブロードソードを握る手は小刻みに震え、ついにレベッカはそのつるぎを支えに、片膝を着いた。


「ワシに見せてくれ……おまえが進化するさまを!」


 男は、ただでさえ大きな目をさらに見開き、ゆっくりと近づく。

 足もとで苦しむレベッカをしばらく見下ろすと、今度は異形の短刀を薄明かりの天にかざし、いびつな剣先を仰ぎ見る。


「〝へんの神像〟よ、伝えるのだ! 異界の狭間に閉じ込められた偉大なる神バルカインに知らせてくれ! あなたさまの忠実なるしもべ、ソンドレがこれより新たな生贄を捧げますと!」

「ハァ、ハァ、おまえは……ハァ、ハァ……さっきからなにを……言ってやがる……」


 身体が熱い。全身の汗が止まらない。

 自分が燃えているのではないかと錯覚する。

 幼少の頃、流行病が原因で一週間以上寝込んだことはあったが、今はそれと比べものにならないくらい苦しかった。

 ほどなくして、レベッカは嘔吐する。

 倒れそうになるのをこらえるため、ブロードソードを手放して両手を汚れた水のなかにつける。その姿勢はまるで、ソンドレに平伏しているようにも見えた。


「さあ、ショータイムの始まりだ!」


 魔像の鋭利な先端部分がレベッカの背中に向けられた、まさにそのとき──。


「兵長、裏口が開いています!」


 そんな大声が、開け放たれた扉から聞こえてきた。

 ソンドレのぎょろつく目玉が扉のほうをにらむ。ちょうど憲兵のひとりが、顔を出して周囲を確認するところだった。


「クソッ、儀式を邪魔しやがって」

「ややっ!? 貴様、そこでなにをしている!」

「……名も知らぬ女騎士よ、また会おう」


 次の瞬間、ソンドレの姿は煙のように消えていた。


「ピィィィィィィィッ! 裏口はこっちかぁぁぁぁッ!?」


 呼子笛をけたたましく吹き鳴らしながら、太っちょの兵長が憲兵に小走りで近づく。


「こちらです兵長!……あっ!? アイツ、どこへ行った!? 待てぇぇぇ!」


 さらに駆けつけた大勢の憲兵たちが、狭い裏口から続々とあふす。やがて、とっくに逃げ失せたソンドレを追いかけて、水溜りの上を全速力で過ぎていった。


「あ……の……野郎……め…………」


 激しい雨のような足音を聞きながら、レベッカはとうとう気を失ってしまい、汚水の中へと倒れた。


「大丈夫か、騎士殿!?……いかん、ひどい熱じゃないかっ! おい、誰か彼女を早く医者へ連れて行け!」


 兵長は、その場に残っていた数名の部下たちにそう命じた。


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