夜の訪問者
冒険の旅が突然の延期になってから、きょうで一週間が過ぎた。
このまま中止になればいいのにと、自分の膝枕の上で気を失ったまま横たわる先輩侍女の血で汚れた口もとを見つめながら、ドロシーは思っていた。
「ねー、ドロッチ。そろそろ姫さまがお風呂に入る時間だから、ハルさんをひっぱたいて起こしてよ」
少しだけ傾くちゃぶ台の天板に片肘をつき、読書をしてくつろいでいるレベッカが事務的に話しかける。物語は、仮面の騎士が元恋人を悪漢から助け出そうとしている大切な場面なので目が離せないようだ。
「ちょっと、レベッカさん! 泥と土まみれみたいな汚れきったそのアダ名、やめてくれませんか!」
ハルの口もとをハンカチで丁寧に
「えー? 寝ないで考えたのにぃー(嘘)。じゃあさー、ドロロン?」
「いつの間にか死んでオバケになってるし! わたしまだ、あと百年はガッツリ生きますからねッ!」
──コンコンコン。
待機部屋で言い争うふたりを止めたのは、ドアを小さくノックする音だった。
「わたくしよ、入っていいかしら?」
シャーロット王女だ。
その刹那、レベッカが読みかけの本を壁際へ投げ捨てるのと同時に、覚醒したハルが勢いよく飛び起きて前屈みになっていたドロシーの顎にぶち当たる。
「ブルボッ!?」
卒倒した新人侍女をいっさい気遣うこともなく、ハルは何事もなかったかのように、満面の笑顔をつくりながらドアを開けた。
「あっ、ハル……休憩中なのに、ごめんなさい」
「いいえ、そんな姫さま! ところで、どうかなされましたか?」
「うん。冒険の旅なんだけど──」
冒険の旅。
そのパワーワードに、四畳半の室内が凍りつく。
「明朝、出発しようかなって。それでね、これをみんなに……」
言いながらシャーロット王女は、人数分の手さげの付いた紙袋をハルに渡す。白地の袋には王家の刻印が押されていて、垣間見えた形状と重さから察したかぎり、中身は衣類のようである。
「これを着て、あしたの夜明け前には裏門に集合してほしいの。あと、今夜はひとりで入浴するから、みんなはこのまま休んでいいわ。ハル、レベッカ、ドロシー、おやすみなさい」
一方的に要件を済ませた姫君は、まぶしいくらいの笑顔を侍女たちに向けたまま、ドアをゆっくりと閉めた。
足音と気配が遠ざかっていき、待機部屋には沈黙と手さげ付き紙袋だけが残される。
「──ですって」
人数分の紙袋を手に、ハルが相変わらずの優しい笑顔で振り返ってみせる。唇から顎へと赤い筋が一本垂れているのは、もはやドロシーにとって見なれた光景であった。
「ええっ……
痛む顎を右手で押さえながら、涙目でドロシーはハルに訊いた。
「チッ、そんな早い時間に出るって……それじゃあまるで、夜逃げじゃねえかよ!」
そうぼやいてレベッカは立ち上がると、のしのし歩いてハルから紙袋を強引に受け取り、すぐにまた座布団まで戻って両膝を開きながら足を組んですわった。
「げっ! なんだよ、このヒラヒラは!?」
紙袋の中に入っていたのは、王女が騎士団結成の宣言時に身につけていた衣装と同じ物だった。レベッカは丈の短いプリーツスカートを両手の人差し指と親指で摘まみながら、嫌悪の表情を浮かべてみせる。
「やっぱり、わたしたちが団員なんですね」
ドロシーもちゃぶ台の上に置かれた紙袋から中身を取り出してみる。なぜか、肌着の類いまで入っていた。
「えっ?
「まあまあ、ふたりとも落ち着いて。スカートや下着があるだけでもいいじゃないの。そう……あるだけ……いいじゃない…………」
笑ってはいるけれど、ハルはなにやら遠い
いったいハルの過去にはなにが。そして、自分たちはこれからどうなってしまうのか──ドロシーとレベッカの表情からも、生気が徐々に失われていった。
「あー、とりあえずアレだ。ドロッチ、穿け」
レベッカが、冷たい視線を卓上に広げられた木綿のパンツに向けて顎を動かせば、
「ちょ……フツーはこっちを穿かせますよね!? 穿きませんけど!」
続けざまに顔を赤くしたドロシーが、プリーツスカートを片手に猛抗議する。
「おまえ、後輩だよな? あたしがバブバブ言ってた時に、まだ生まれてもいないよな? だったら穿けよ」
「〝だったら〟の意味がわからないんですけれど!? それに、バブバブはさかのぼり過ぎでしょ!? せめて、中学校とか小学校くらいでとどめてくださいよ!」
「まあまあ、ふたりとも。わたしが穿いてみせるから、それで穏便に……」
「そんな、ハルさんが穿くことなんて……って、そっち!? ヒラヒラのスカートじゃなくてパンツのほうですか!? 速ッ! 着替えるの速ッ!」
待機部屋の夜は、こうして騒がしく更けていった──。
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