黒衣の男

 緑豊かなリディアスの北西側の国境沿いには、太古の時代から連なる険しい岩山がある。

 街道から大きく逸れたその場所に近づく物好きは、誰もいない。ただでさえ悪路なのに加え、荒天が番犬のように侵入者をかくして旅人たちを遠ざけているからだ。

 だが、そんな場所でもすさぶ冷たい雨風に耐えながら、その山々をいくつか越えれば、王都とほぼ同じ面積の不毛の土地が存在する。

 そのほとんどが砂漠で、草木は決して生えない。

 邪悪な神に呪われているからだと、リディアスはもとより、近隣諸国の昔話としても語り継がれていた。


 そんな死の大地に四つん這いの姿で怪しくうごめくのは、漆黒のローブを身につけたひとりの小柄な男。フードで深く覆われているために男の顔まではわからないが、必死になにかを探している様子で、不自然に窪んだ地面をしきりに両手できむしって掘り進んでいた。


「ここだ、ここだ、ここだ、ここだ! ここに間違いないッ! はあはあはあ……この場所に必ず……はあはあはあ……必ずあるのだッ! クソッ!」


 男が譫言うわごとのように言葉を繰り返すと、それに応えるように、曇天の空から雷鳴がときおり長くとどろいてはまた消えていく。

 いったいどれだけの時間そうしていただろう。

 やがて、黒衣の男の執念が実ったのか、なにか硬い物体の一部が掻きむしる指先に当たった。


「うぬっ……? おおッ!? こっ、これは……これこそは! わたくしには、わかりますぞ! ああっ、この聖なる力の波動……感じる……感じますとも……強く……ああっ……あなた様・・・・は、この下に──あったッッッ!!」


 歓声を上げて直立した男の天に向かって伸ばされた右手には、小さな短刀ナイフにも似た、奇妙でまがまがしい容姿の黒い石像が握られていた。

 それはかつて、この地で暮らしていた〈ぎょうたみ〉と呼ばれる者たちが自分たちの神を讃えるために造った像で、生贄を捧げる儀式にも使われた代物でもあると、黒衣の男は国立図書館に秘蔵されていた古文書から知識を得ていた。

 関係者はおろか、王族ですら読むことも触れることも許されはしない禁断の古文書。どうしてこの男が紐解けたのか……ローブに染みついた返り血が、すべてを物語っている。この男はどうやら、目的のためには手段を選ばないようだ。


「ああ……やっと……やっと、こうしてえました! 長年の夢が、ついにこうして叶ったのです! わたくしはあなた様・・・・の手足でございます! 御告げに従い、こうして迎えに参りました!……ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」


 雨が──。


 激しい雨が──。


 雷鳴とともに、乾いた荒れ地へと降りそそぐ。


 恵のはずの雨は、漆黒のローブに次々と吸い込まれ、裾から真っ赤なしずくとなって地上へと吐き出されていった。

 黒衣の男は、右手をゆっくりと下ろして石像をじっと見つめる。

 この神器さえあれば、すべてを変えられる。

 長きに渡り蔑まされ続ける一族の境遇も。不公平で間違った世界のことわりも。この聖なる神器が、きれいサッパリと丸ごとすべて変えてくれるはずだ。


「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ! バルカイン様、どうかその偉大なるお力で、邪悪なリディアスの愚民どもに聖なる鉄槌を下してやってくださいませ!」


 男は、血走ったまなこで、さらに雨雲へ向けて叫ぶ。


「我々こそが……我々こそがまことの神の選抜民! クラウザー王よ! 砂上の城に住まう哀れな王とその王女よ! おまえたち父娘おやこの血肉を、あすにでもバルカイン様の贄にしてくれようぞ! ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」


 よりいっそう大きな雷が鳴り響くと、男は笑い声を押し殺して口角を上げたまま、その場から静かに前へ歩きだす。

 脳裏に浮かぶのは、今まで受けてきたリディアス国民からの恥辱の数々。

 だが、それもきょうまでの話。止まっていた時が、ようやく動き始めるのだから。

 この手で、この神器で、新時代を創造する。

 黒衣の男は目を閉じて顔を上げ、数多の雨粒を浴びた。

 なんと心地よいのだろう。雨の凍える冷たささえ、祝福の美酒にも思える。そんな最高の気分だった。

 今度は、鼻唄まじりで歩きだす。

 おそらくは人生で初めての──最上級に晴れやかな気分で、陽気なステップを泥土に踏みつけながら、男は歩き続ける。

 向かう先は、ただひとつ。

 リディアス国だ。

 計画は順調に進むだろう。

 なぜなら、正義はこちらにある。いつの世も、最後に正義が勝利するではないか。長かった不遇の時間も、きょうで終わり。輝ける未来がこの神器によって約束された。

 そう、約束されたのだ。

 大勝利が約束された。


「今度は、おまえたちが負けるのだ……ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 泥水にまみれて、絶命するそのときまで、もがき苦しむがいい! ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」


 稲光を背にして、黒衣の男は、笑いながら両手のこぶしを天へと高く突き上げる。

 まるで、男の独白に喝采を送るように、一撃の雷鳴が不毛地帯に響きわたった。


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