復讐と崖下

生まれたときから世界はこうだった。

老人が嘆き悲しんでいるのをたまに見かけるが、その理由がわからない。


こうでなかった状況など、彼からすれば神話の彼方だ。

人類とは四つに分類されるものであり、そこには明確な差があり、それに沿って生きるしかない。


基本的人権など戯言だ。

法の下の平等など絵に書いた餅だ。

政治は強者たちのワガママの調整機構でしかない。


そんな当然を、嘆かわしいとする方が理解できない。


積み上げた科学技術も、銃も、毒ガスも、核兵器ですらも、ドラゴンの羽ばたきを止めることができなかった。

その事実を、受け止めるべきだ。


人類の科学技術の粋を尽くしても、ファンタジーを超えられなかったのだ。


そして、ノービスはもちろんオーガであっても、強者には敵わず、ただ頭を下げるより他にない現実も、受け入れるべきなのだ。


――クソが……


だが、だからこそ、あの冒険者の行いは許せないものだった。


真っ当な勝負ではなく毒を盛っての殺戮を行った。


一から百まで気に食わない。

真っ当な戦いすべてを否定した。


己の積み上げたすべてを奪われた。

財も、力も、プライドですらも。


「――」


声が聞こえた。

押し殺したような、荒い呼吸音が響いていた。


オーガがいたのは、崖下だった。


そこから突き落とされて、トドメとされた。

はるか上方では、荒い呼吸音が絶え間なく続いている。

墜落死できるほどの距離まで届いている。


この姿を見下ろしながら、マスでもかいてるのとオーガは思う。

そうであったとしても不思議ではない。


頭蓋骨は半ば砕け、左腕はなく、視界は失われ、その上で高低差による打撲だった。

いま生存していることすら、不思議なくらいだ。


「鬼。お前、まだ生きてるか……?」


怖々と近寄った声が言う。

ロスダンだった。

壁に沿うようにしながら、おずおずと接近してた。


オーガはもう両目をくり抜かれて見えはしないが、気配と音で察知した。


「つんつん」


なにか木の棒のようなものでつつかれた。


「さすがにそれ、駄目じゃないですかねぇ」

「まだ、わかんないよ?」

「いや、わかりましょうよ、どう考えても無理ですって」


どうやら、ロスダン以外に別のニンゲンもいるらしい。

明らかに違う声がしていた。


「けど、鬼は動くこともできないのか……」

「匂いからしてこれはオーガ専用の毒がキメられてますね、これでまともに動ける方がおかしいってもんですよ、とっとと放って逃げましょう」

「ここで見捨ててもボクらは野垂れ死に、そんな予感しかしない」

「お得意の直感ですか? 街中ですら迷子になるというのに、いまだ自信満々なのが不思議不可思議いとおかし」

「ケイユ、うるさい」

「ケイユから騒音を奪ったら何が残りますか? そんなの美貌と才能と金銭と世界中の著名人からの大絶賛しかないでしょう! やっば! ケイユ様すっご!」

「もぉ……」

「うるせえ……」


思わず言った。

口の端から血が溢れていくのを自覚する。


「おちおち素直に死んでもいられねえだろうが……」

「あ、生きてた」

「そりゃ、誰だって、くたばるまでは生きてるよ」

「――」

「もう一人、そこにいるのか? 誰かは知らねえけどよォ……」


体を起こす。

もう視界は機能していない。

だが、相手のいる方向に向けて、オーガは言った。


「なあ」

「なに」

「まだ有効か?」

「なんのこと?」

「俺を、お前の配下(サバディネイト)にするって話だよ」


体の内には炎が灯る。

気に入らないやつの、気に入らない笑いが耳の奥から離れない。


今も崖上から音がしていた。

どこか騒がしい、驚きを表す声だった。


「俺に奴への復讐をさせろ」


そのためなら、なにを失っても構わない。



 + + +



その様子は、崖上からでも見えていた。

迷宮内の、薄暗い洞窟の上から高光度ハンディライトで照らしていた。


血溜まりからオーガが体を起こし、誰かに向けて話しかけている姿もまた見えた。

よろりと立ち上がり、崖上からでは見えない暗がりへと動く。


まじまじと、限界まで見開いた視線の先で、オーガは不意に姿を消した。


「ふ――」


それは、その行動は、冒険者を激昂させた。


「ふざけるな、あなたの死は私のものだ! なにを語りかける! なぜ移動している! どうしてそこから恨みと怒りと絶望を私に向けない! 最期のひとときだぞ! どのような蜜月も敵わない、この世でもっとも貴重な時間だぞ! 他へと目を向けるわがままが許されるわけないだろうがッ!!!!」


ノービス側の味方だと思えた冒険者のその変質に、周囲の人々が怯えた。

その顔は赤を通り越してドス黒く、顔中には血管が太く浮き出る。


「来い!」

「え」


手近にいた女と男が、その手につかまれた。

逃げる隙もなく三人で崖を飛び降りた。


冒険者の膂力は、場合によっては怪物をも超える。

ノービスではどのようにしても逃げ出すことができず、ただ手足をバタつかせ、叫ぶしかなかった。


「ふんっ!」


そうして着地の直前、二人は冒険者の足下に放り込まれた。

生きたクッションとしてその着地の勢いを殺したが、クッションとなった側は風船を叩きつけたかのように弾けた。


それだけの重量が、すでに冒険者には宿っていた。


昇格(レベルアップ)だ。

勝利により、怪物の力を得た。


だが、まだ頑強さまでは得ていない。

だからこそ、飛び降りるにはひと工夫が必要だった。


そうして降りた周囲は、どれだけ見ても、血の痕跡しか――

オーガがいた場所に満ちる血溜まりしかありはしなかった。


当然あるべきはずの死骸すらなかった。


「何をした……」


ボコリボコリと、冒険者の体が膨らむ。

筋力がそれだけついて行く。


不自然なパワーアップ。

ファンタジーでしかない力の上がり方。

怪物を倒した証だ。


だが、足りない。

こんなものではない。

一番重要なものが、手に入っていない。


「最期まで行かず逃げ出すのか、他の奴にお前を与えるつもりか、なんということだ、私以外の奴にか? その巨体を、その死に様を、その苦しみを、その痴態を見せつけるのか……」


着地の血まみれなど気にもとめず、その痕跡だけを睨みつける。

どこにもない、消えている。

丁寧に処理して剥製にしてやるつもりだったオーガの行方は煙のように失せた。


「教えてやる」


唸るその口は、鬼のような牙が生えていた。

その地面の血の匂いを嗅ぎ、唸る。


「あなたを最後まで果てさせることができるのは、私だけだ」


そうして、地面の血をゆっくりと舐めた。

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