十三



 自分がいつイったのか、またタカハシがぼくの中でいつ射精したのか、興奮しきっていたぼくには分からなかった。

 力をなくしたタカハシがぼくから出ていくとき、のけぞり、なだれを打つようにベッドに頽おれたきり、ぼくは自分ではなに一つ体を動かせぬまま、うつろにタカハシを見あげた。タカハシもまた呆然と、暗闇で幽霊でも見つけたような目をしてぼくを見おろしていた。ぼくには痙攣がおき、ときおりピクピクと手足が勝手に動いた。

 このセックスはなんだったのだろう。

 愛じゃない、もちろん。

 ――勝負。

 始め、そう感じた気がする。でも終わってみれば、ぼくの八つ当たりにすぎなかったのかもしれない。ぼくはタカハシを使った――。でも、それも想定内だといえなくもない。つまり二人にとってどうってことじゃない。ぼくは狂人だ。

 しばらくしてタカハシがぼくと彼の腹にぶちまかれたぼくのザーメンと、ぼくの無様なアヌスからとろとろと流れ始めた彼のザーメンとを拭った。

 ぼくは疲れ、目を閉じると涙が溢れた。急激な眠気が襲い、もはや心も体もどこがどう痛いのかよく分からなくなって、眠りによる麻酔が欲しかった。

 まもなく柔らかい、タカハシの匂いがする掛け布団が優しくぼくを被う。心地よさに眩暈がする…今は何時ごろなのだろう。考えるまもなく気が遠くなり、無我の、無意識の宿る幸せな闇の境地へとぼくは堕ちた。

 きれぎれに意識が戻っても、すぐにまた眠りに堕ちてしまう。

 そして何度目かに、カチッと高い音がして、かなりゆっくりと目覚めた。目を開いても、一瞬ここがどこだか分からなかった。天井の蛍光灯は消えていて、卓上ライトだけが頼りなく部屋を照らしていた。

 視線を上げると、もう元通りに服を着たタカハシが椅子に腰掛けて紫煙を燻らせている。

 そうしているのを見るとなんだかほんとにオッサンくさい。というかまあ、二十二歳くらいに見える。社会人直前という感じ。ぼくの視線に感づいてこっちを見、相変わらず飄々とした表情で口を開く。

「まだ早いから、もっと寝ていろ」

 なぜさっき、ぼくはこの表情にあんなに苛立ったのだろう。

「いま何時?」

「二時半」

 そんな時間か。十一時がとっくに過ぎていることに気付いて息が詰まった。胃のあたりがずんと重くなった。

 悟さんは昨夜のぼくの不在をどのように怒っただろう。いや……今もまんじりともせず起きていて、その怒りを募らせ続けているとしたら?

 考えただけでいますぐどこかのビルから飛び降りたい気分になった。

 喉が渇いていた。

 もらった緑茶のコップがベッドの下に置きっぱなしだったのを思い出す。

「あんたは、寝ないの?」

 そう、タカハシに訊きながら布団から出ようとしたときだった。ものすごく大事なものが間違っている感じがして、一気に頭が混乱した。すぐにその理由が分かって、全身から血の気が引く。冗談ではなく本当にゾクッとした。

 ぼくはシャツを着ていなかった。

「あれ…? なんで――――?」

 ベッドにしゃがみこみ、ぼくは唖然としてタカハシを見た。

「どうして…? なんで、脱がしたの――?」

 あまりのショックで声に力が入らない。

 灰皿でタバコを揉み消したタカハシが、険しくぼくを見た。

「その背中、誰にやられた?」

 なにもかもが信じがたくて、ぼくは問いを繰り返した。

「ねえ、なんで…? なんでだよ。あんなに、お願いしたろ…?」

 血の気が引いて、頭がくらくらする。喉に塊りが詰まったみたいに、息苦しくなった。

「あんなに頼んだのに…!」

 タカハシはぼくの願いをきいてくれなかった。ひどいよ、ひどい。

 新しい絶望がぼくの上に降りかかってくる。背中を見られてはならない、その破戒による絶望が。

 タカハシがぼくの前にきて膝をつき、顔を近づける。

「ステディにやられたのか?」

 ぼくは反動的に首を振った。質問にまともに返答をする気など、とうからなかった。

「ねえ、どうして? なんでだよ――? あんなに見ないでって、頼んだじゃないか。なんで、こんなこと。あ…シャツを返して。どこ? ぼく制服、どこ?」

 見回すと、タカハシが座っていた椅子の背もたれにそれらしいのが掛かっている。取ろうとベッドから立ち上がろうとすると、腕をとられた。

「答えろ。ステディがやったのか」

 ぼくは呆然と彼に視線をあわせた。

 ――ステディ? …そうだよ。でもぼくは、自分から悟さんのことをそう呼んだことはない。タカハシがそう呼ぶのを否定はしなかったけれど。

「シャツを返して。ぼく、帰る」

「佳樹、おまえがされていることを世間じゃなんて呼ぶか知っているか? デートDVっていうんだぜ」

 腕を握る手に力を加えて、ぼくに言いきかせる。

 デートDV。

 もちろん聞いたことはあるし、それがなんだかも知っている。ぼくは吐き気を覚えた。なんだかこいつはしょうもなく腹が立つ、そんな怒りがわいてくる。

「あんたはなんにも分かっていないくせに、余計なことをするなよ」

「朝になったら病院へ連れていく。その背中の腫れ方は尋常じゃない。医者に見せるべきだ」

 ぼくは絶句した。

 とんでもない。それだけは。それだけは。

 それだけは絶対にできない。ぼくは死ぬんだ。死ななくちゃならないのだから、医者になんか行っている暇はない。

「あんたには関係ない。タカハシ。関係なさすぎるんだよ」

 命を清算しようと思っているのだから、余計なことをしないでほしい。

 タカハシが眉根を寄せる。

「関係ない? そんな言い分、通らないだろ。俺にはおまえを抱いた責任がある」

 ぼくはまたも言葉を失った。

 …責任。

 ――責任?

 責任だなんて、そんなもの。

 ぼくは臓腑が痺れるような憤怒がわき立ってくるのを抑えられなかった。

「そんなの、いらねえよ」

 耐えきれずに呻いた。

「責任、なんて。そんなもの、どこにあるってのよ。だって、ぼくがゆうべここに来なかったら、タカハシ、あんたはなにをしていた? 昨日の相手を抱いてたろ? ぼくのことなんか忘れて、頭に過ぎりもしないでさ。あいつと仲良くセックスしてたろ。あいつだけじゃない。あんたはとっかえひっかえいろんなやつを可愛いと思っちゃ、抱いているんだろ? なのに、なにが、責任だよ。笑わせんなよ。ぽっと来たぼくのことなんかほっといて、それこそ忘れろよ。もうこれきりだって言ったろ? それで、いいじゃないかよ」

 勢いに任せて一気に言った。

 ほんとに、なにもかもがしょっぱい。世知辛え。所詮この世は生き地獄――――だ。

(だから嫌だったんだ)

 だから背中の傷を知られるのが嫌だった。

 心身ともに疲れ果てているのに、こういうとんでもなく的外れな言い合いをしなくちゃならない。

 本当はその腕に抱いて欲しいだけなのに、余計なことで時間を無駄にして、大事にしたかったことを諦めなくちゃならない。

 ぼくのこれほどの罵言にもタカハシは表情一つ変えなかった。しばらく黙りこくったあと、

「俺のことなんてどう解釈してもらってもかまわない。でも明日、おまえは俺が病院に連れて行く。力づくでもそうする」

 そのきっぱりとした明瞭な響きに、ぼくは息が止まりそうになった。おかしなもので、こんなに切羽詰ったときだというのに、生徒会長だったときのタカハシはもしかしたらこんなしゃべり方をしていたのかもしれない、などとふと思った。

 なんだかでも、このタカハシの視線は危険だった。

 それを感じてぼくの心臓は不穏に暴れていた。

 なぜならぼくの中の、もう少しだけ生きたい、いっそ誰かに助け出してもらいたい、などというすでに脳裏の奥深くに抑えつけ、または捨てきったと思っていた願望を、この瞳が突き動かしてしまいそうで怖かった。

 そこに、死のう、死なねばならない、とのぼくの文字通り命をかけた一大決心を覆してしまうだけの力が秘められているのを感じて――そして、それがぼくにとってあまりにも魅惑的で、甘くて、力強いから。

 体が、心が、ふたたび溶けてしまいそうなほどに、彼を欲してしまいそうで、それが怖かった。

 だからぼくはこの瞳から逃げたかった。逃げ去りたい、その一心だった。彼の目の前から、一刻も早く消えたいと切実に願った。

「あんたには関係ない、タカハシ。これは、ぼくの家の問題なんだから」

 あまりにここから逃げ出したくて、彼の前からいなくなりたくて、思わず口を滑らせてから、しまったと気付く。なんて軽率な発言をしたものだろう…!

 案の定、タカハシの目の色が変わった。

「――うち? 家族にやられているのか?」

 語気を強める。

 ぼくは、痙攣がおきたように首を横に振った。ダメだ…ダメ…。絶対に、知られちゃダメなんだ…。だからもう、ほっといて――!

 強く肩を掴まれた。

「親か。親にやられているのか?」

 顔を歪ませながら首を振り、否み続けた。

 親は、いない。ぼくに親はいない。

 一人は死んだ。もう一人に殺されて。

 そしてそのもう一人はいま刑務所にいる。面会になど来るなと言い残して、ぼくの前から消えてしまった。

 ぼくは孤独に、ぼくを憎むだけの悟さんに預けられ、強姦され、鞭打たれて。でも悟さんだけが悪いんじゃない。悟さんだって、心に深く傷を受けた被害者なのだから。

 悪いのはお母さんで、そしてその母のすべてを継いで生を受けてしまったぼくという存在で。だからぼくはいなくならなくちゃならない。なにより自分自身が、いなくなりたいと願っている。

 どうしてこんなに、なんでこんなに、うまくいかないことばかりなのだろう。なんの歯車が、どこでどう壊れてしまって、それでも回り続けているのだろう…?

 心臓がドクドクと暴れ出した。なぜかハアハアと走った後みたいに息がきれる。息をするたびに唇が乾いた。

「そんなこと…知られたくはなかったんだよ…あんたに――」

 それ以外に、どんな言葉がぼくに残されていただろう?

 涙が盛りあがり、頬へと伝った。急に、胸が焼かれたみたいに強く痛んだ。

(あ――?)

 どうして。

 息が、できない。

(苦しい…)

 突然興った体の変化に、思考が追いつかなかった。ぼくは虚空の一点を凝視し、空気を求めて喘いだ。

 息苦しい。いったいなにが興ったのだろう?

「…あ」

「佳樹?」

 タカハシが顔色を変える。

「佳樹? どうしたっ、大丈夫かっ?」

 やめて――そんな悲痛な目をしないで。

 そんなに心配しないでほしい。どんなことをされたって、あんたがどんな人だって、ぼくは、あんたが大好きなんだから。

 懸命に口で息を吸い込もうとする。何度も何度も。でも入らない。入ってこない。

 視界が暗くなる。意識が遠のく。

 苦しい――、苦しい…!

 そうか。

 肺に骨が刺さったんだ。

 ならばぼくは死ぬ。

 本当にここで死んでしまう。

 ごめん、タカハシ。すごい迷惑をかけて――――!

 そしてそのままぼくは、睡眠より深い眠りへと堕ちていった。意識を失う直前のほんのつかのま、タカハシが倒れるぼくを抱きかかえてくれたことだけは、かろうじて分かった。




 朧な意識の果てで、男の低い声が静かに流れてくる。

「とにかく――――処置できてよかった――――間に合って――――」

 壊れた体温計みたいな機械音が一定に時を刻んで、ぼくの耳に不快に纏わりつく。

「もう少し――――ひびが深かったら――――脊椎神経を傷めて――――半身不随どころか寝たきりに――――それに肋骨も――――本当によく連れてきてくれたと――――」

「はい」

 ――――あれ?

 ぼくの全部の指がくるんと丸くなった。

 これ、タカハシの声だ。

「それより心配なのは――――栄養失調による極度の――――特に、メンタル的な深いダメージが――――」

「ええ、そうですね」

 ぼくは彼が大好きだから、こんなに朦朧としていたって彼のちょっとした声でも聞き逃すまいとする。

 だからいまも、ぼくを再び引き込もうとする猛烈な睡魔を追い払おうと必死になった。ほんのわずかだけ、瞼を開けられそうな気がした。

 でも眠い。すぐに眠気に負けそうになる。なんで体も瞼も、鉛のように重いのだろう。

「とにかく、まだ本当のところは――――ね、だから――――たとえ学校の先生にも言わないように――――分かるね?」

「はい」

 タカハシがいるということは、ここは天国じゃない。

 あれほど苦しんだのにぼくは死んでいない。なぜだ。

「彼はまだ十七歳だし――――児童相談所に――――それまでは、さっきも言ったとおり誰にも知らせずに――――」

 …児童相談所。

「それまで俺は、ここにいてもいいですか?」

「もちろん――――なにしろきみは――――張本人だから」

 ここでぼくは、はさみで切ったみたいに意識がなくなった。

 次に意識が戻ったときも、まず感じたのはさっきと同じ、ピッ、ピッ、と鳴り続ける機械音だった。

 そしてシューシューという大袈裟に篭る息遣い。

 今度は瞼を開けることができた。うっすらと見あげた視線の先にあるのは、クリーム色の狭い天井に、無機質な蛍光灯。左の空間にごちゃごちゃとした背の高い点滴だのの医療器械。さすがに病院にいるのだなと見当がついた。

 感覚だけが覚め、意識は茫漠としていた。それでもここはぼくの絶対に来たくなかった場所なのだということを思い出す。

 そう。来たくなかった。なぜなのか…。

 それを突き詰めて考え始めれば、猛烈に疲れそうでいまは考えたくない。でもこうやって実際に病室のベッドに横たわり、布団へと深く身の沈んでいる状態になってみれば、あまりにすべてが安穏としていて平安だった。なにをぼくはそんなに怖れていたのだろう。

 ここは居心地がいい。安心できる。ぼくを鞭打つ人もなく、少なくともいまは、ぼくのことを人殺しの子だと白い目で見てくる人もいない。休んでいていい、存在を許す、と言われている感じがしてありがたい。さっきまでは不快だった、ピッ、ピッ、とぼくの隣りで生真面目そうに音を繰り出す機械も、いまはぼくの安息を守る毘沙門天みたいに思われなくもない。まったく現金なものだ。

 ぼんやりと天井を見あげてしみじみと思った。ここはなんていままでのぼくからかけ離れた平穏な場所なのだろう。

「佳樹」

 ごちゃごちゃとした器械のない方、つまりベッドの右側から名前を呼ばれた。声でタカハシだとすぐに分かった。

 首をひねって彼を見る。ひねるときに物質的な抵抗があって、自分が酸素マスクをしていることに気付いた。シューシューと呼吸が煩かったのはそのためだ。

 タカハシは制服を着ていた。椅子に座っているのか、ごく近くに顔がある。手が伸びてきて、ぼくの前髪の生え際を彼が何度かかきあげた。慈母のような柔らかな手つきだった。

「汗をかいているな」

「…そう?」

 シュー。シュー。シュー。

 ほんとに煩い。声も篭ってしまうから言いづらい。まるで海中でボンベをかついでいるみたい。

「少し熱があるんだよ。どこか痛いところはないか」

 優しく温かなまなざし。穏やかな声。ぼくの産毛まで柔らかく捕らえる指先。

 ぼくがいま独り占めしているそれらが心地よすぎて、ぼくは軽く首を振ったあとで、ふうっと目を閉じてしまう。また一気に眠りへと落ちそうになって、慌てて目を開けた。もっとタカハシを感じていたい。

 タカハシの指先は時を忘れたようにぼくの前髪をかきあげ続ける。ぼくの汗で手がベタベタしちまわないかしら。ちょっぴり心配になった。

 ぼくたちはしばらくそうやって見つめ合っていた。静かな、穏やかな時間が過ぎる。タカハシは相変わらずなにを考えているのか読み取れない表情をしている。でもぼくはだんだんと、これがタカハシの素の表情なのだと分かり始めていた。

 別に気取ったり意地悪をしてポーカーフェイスをまとっているわけではなくて、彼はぼくなんかと比べたら落ち着いた人間だし、たぶん気質だって激しやすいぼくと違って穏やかなのだろうから、だからこんなふうに飄々と見える顔をしているのだろう。

 でもなにがどうあれ、ぼくはこの顔が大好きなのだった。

 大好きで、大好きで、頭の裏っかわの底の方からその気持ちが込みあげてきて胸を押しつぶし、気が遠のくくらいに好きでたまらないのだった。

 それはもちろん初対面のときにも感じたようにパーツが整っていて良い、というのもあるかもしれないけれど、そういうことよりかむしろ彼を知るにつれてますます感じられる全体的な男っぽくて大人びている、頼りがいのある落ち着いた感じとか、一方でどこか野性的でスレた雰囲気とかが、どうにもこうにもぼくを惹きつけて離さない引力になっているのだ。そういう強烈な魅力にぼくはどうしたって抗えなくて、いまも襲いかかってくる眠気に対抗するように、彼を見つめてしまう。

「ごめん」

 その静かな表情がいっとき崩れた。ぼくは、ん?という顔をしたのだと思う。

「ひどい抱き方をして、ごめん」

 それがとても悲しげでつらそうなので、ぼくは懸命に首を振った。

「ぼくが、頼んだことだよ」

 むしろあれはぼくが勝手に荒々しくしただけのことだった。まるで半狂乱みたいになって、タカハシの気持ちもろくろく考えずに。

「そうじゃなくて…。いや、実際、あんなに乱暴にしたのもすごく後悔しているけど…。もっと、気持ちの問題でさ」

 言いにくそうに言葉を切る。

「ぼくのこと、嘘つきの淫乱だと思った?」

 さすがに淫乱はいきすぎた言葉だったのか、タカハシが驚いたように目を開く。ぼくはかまわず続けた。

「気にしないでいいよ。その通りだから」

 タカハシの瞳に、さっと影が落ちる。

「違うだろ」

 強くいさめると、いったん止めた手を再び動かしてぼくの額を撫でる。

「俺たち、もっと話さないといけないことがたくさんあるな。でもいまはゆっくり休め。俺、ずっとここにいるから」

 ここにいる。

 タカハシが、ここにいてくれる。それが、なんて安らかで、安心なことなんだろうと気付いて、いまさらながらにぼくは驚く。こんなことを言ったら動揺させちまうだけかな。ためらいがちに声をかけた。

「タカハシ」

「うん?」

「ぼくを抱いてくれて、本当にありがとう」

 ぼくの言葉に、やっぱりタカハシは困ったように瞳を揺らした。泣き虫佳樹君はそんな自分の陳腐な台詞に感動しちゃって鼻がつうんとする。恥ずかしいよな、勝手に盛りあがっちゃってさ。でもほんとのことなんだもの。眠る前に言っておきたかった。

「もっと、あんたと話してたい。でもぼく、すごく眠いんだよ、いま」

「ああ…だろうな。麻酔が効いているんだ。さっき看護婦が点滴に足してた。背中を少し手術したんだよ、おまえ」

 そうなのか。

 いったいどんな手術だったのだろう。

「起きるまでここにいるから、ゆっくり寝ろ。な?」

「うん」

 ぼくはおとなしく目を閉じた。

 タカハシがおでこをさする。さすり続ける。指先がそっと、瞼もさすった。

「タカハシ、…好き」

 ぼくは呟いた。涙がこぼれた。

 光の先から歌が聞こえる。

 こんどこそ、安堵の涙だった。



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