03 剣と求婚
居心地の悪さにため息を吐いているうちに、聖堂の鐘音が鳴り響いた。そろそろ帰らなくてはならない。背後にいる令嬢たちに気を遣いながら椅子を引いて立ち上がると、ドロシアに「申し訳ありませんがお暇します」と声をかけた。
一瞬、誰だかわからなかったのか――ドロシアは「はあ」と間の抜けた反応を返したがわたしが手にしたハンカチの包みを目ざとく見つけて気づいたらしかった。
「お気をつけて、リーリエ嬢」
「ありがとうございます」
形式通りの挨拶を終えると「馬車までお送りします」とサイラス様が予想外に声を掛けてきた。いえ、あの、とわたしがまごついているうちにドロシアがふふっと笑った。
「お構いなく、サイラス様。リーリエ嬢は歩いてお帰りになられるのですわ」
「歩いて……」
サイラス様は信じられないものを見る、というような目をわたしに向けた。
それも当然かもしれない。この茶会に招かれた令嬢たちのほとんどがそれぞれ家の馬車をダーレン家の敷地内に待たせている。だが我がヴェルファ家において馬は早々に売り払われていたし、御者を雇う余裕もない。
王宮主催の大規模なパーティーに呼ばれたときなどは王都に住む裕福な叔母夫婦から馬車を借りることは出来るのだけれど、たかだか娘のわたしが茶会に参加する程度では貸してはもらえない。
要するに、リーリエの家であるヴェルファ男爵家は貧乏なのだった。
前男爵である祖父がかなりの浪費家であちこちに借金を作り、それを返すのがやっとであるため貴族とは思えないようなつつましい生活を送っている。
でも母は常に子供たちに教えてきた。いついかなるときも男爵令嬢である誇りを忘れるなかれ、と。
「健康にも良いですから散歩も良いものですわ。それでは皆様、ごきげんよう」
影で何と言われているかは知っている。
それでも優雅に淑女の礼をしてからわたしはその場を後にした。
流行おくれのドレスを身に纏い、見栄っ張りな言い訳で逃げて馬車を使わず、中流階級以下の暮らしを送るわたしなど嘲笑の対象に他ならない。
「『ニセモノ令嬢』ね……そう言われても仕方がないか」
独り言ちながら、ダーレン家の門へ向かって歩いているときだった。
「お待ちください、リーリエ嬢」
駆け寄ってきたのは、茶会の主役の座をドロシアから一瞬で掻っ攫ってしまった男性、サイラス・エルドラン卿だった。
「よろしければご自宅までお送りしましょう」
「え、あっ」
半ば強引に掴まれそうになった手を慌ててひっこめる。
「大丈夫です、うちまではほんの近くなんですよ」
ダーレン伯爵家があるのもヴェルファ男爵家があるのもおなじ地区だ。この地区に出入りできるものは平民では使用人やお抱えの職人ぐらいだから、物騒なことも滅多に起きない。だから大丈夫だ、と主張したのにサイラス様はすっと表情を曇らせた。
もしかするとお断りする方が失礼だっただろうか、などと考えているうちにサイラス様は腰に下げていた剣を鞘からすらりと抜き放った。
「……え?」
夕陽を浴びて赤く染まる剣がわたしに向けられている――あまりに予想外すぎて頭の中が真っ白に染まった。
後退った足はそのまま小石に躓いて、みっともなくわたしは座り込んでしまった。
すかさず、サイラス様はわたしの喉元に剣を向けた。
ほんのわずかに身じろぎでもすれば、皮膚を切り裂く。それほど近くに冷ややかな刃物の気配を感じてわたしは青ざめた。
「な、何の冗談ですか……」
たった一言、口にするだけでもかなりの恐怖を感じた。それも当然だろう、いま何か彼の機嫌を損ねでもすればわたしの首は胴体とお別れすることになる。ひりつくような感覚に思わず顔をしかめた。
「リーリエ・ヴェルファ嬢」
あらたまった口調でサイラス様はわたしの名前を呼んだ。
どくん、とひときわ心臓が大きく鼓動する。
「俺と結婚していただけますか」
「……は?」
もしかしてわたしはいま、求婚されているのだろうか。何故、という言葉が浮かんでいる。どうしてこの状況で、こんなことに?
「返事は『はい』か、『イエス』でお願いします」
「ひっ」
ちゃき、と刃の冷たい感覚が肌に触れたような気がした。もう何も考えられなかった。
「ひゃ……い」
頷けば刃にあたって血が噴き出そうなので、ひとまず精一杯の震え声で応えると安堵の息とともに無表情だったサイラス様の顔に笑みが浮かんだ。
「よかった……」
「はは」
思わず乾いた笑みがこぼれた。し、死ぬかと思った。鞘に戻された剣を見ながらわたしはほっと安堵の息を吐いた。なんだったんだ、いまのは。心臓がずっとばくばくとうるさく鳴っている。
悪い夢だと言ってほしい、誰か。お願いだから。
ぎらりと輝く切っ先が引っ込められ、遠ざかったことでわたしはようやく大きく息を吸い込むことが出来た。すうはあすうはあ、数回繰り返しているうちに落ち着いては来たがまだ現実は受け容れきれていない。
サイラス様は恭しくわたしの手を取ってへたり込んだところから優しく引っ張り上げる。そして、恭しく手の甲にキスを落とした。なにこれ怖い。
と思ったときだった。
「わわわわっ!」
「ではこのまま我が家へとお連れしましょう、どうぞご安心を。皆、リーリエを歓迎すると思います」
何故。心の中で叫びながら、わたしはよく知らない異性の家に連れ込まれるような事態に陥ってしまったのだった。
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