第22話 『き』
『き』
『聞いて極楽見て地獄』
「話と違うじゃねえかよ! こーのウスラボケ」と言う所を、穏やか且つ知的に表現するとこうなる。
夜の歓楽街を歩いていて「社長さん、可愛い子がいっぱいいるよ。若い娘が待ってるよ」などと言われ、前後不覚に酩酊したまま路地裏の狭いクラブに引っ張り込まれた経験は、老若男女問わず誰でも一度や二度や三度はあるだろう。
呼び込みの言葉を鵜呑みにして行った先で、可愛い子や若い娘が居たためしはない。
少なくとも、私は何時もハズレくじばかりを引いている。
人生の縮図、此の世の絵巻物とも言える歓楽街での事、ついていない私には分相応と諦める所は諦めるとしても、ビール一本に柿の種一皿で5万円は無いだろ。
ある所では【炭酸+白ワイン】に赤の水彩絵の具をチョイと混ぜて【ロマコンのピンドン割り ※1】と称していた。
一杯2万円はまだ良心的な値段だったのだろうか。
【※1 高級赤ワイン《ロマネ・コンティ(略称・ロマコン)》を高級シャンパン《ドン・ペリニヨンのロゼ(俗称・ピンドン)》で割った超バブリーな飲み物で、バブル期でも極一部の成金しか飲まなかった。極め付けの悪趣味ワインカクテル】
またある所では、若い娘とは私の母親より若いと言う意味としか取れない若い娘ばかりだったので、座る前に帰ろうとしてボコられたりもした。
呼び込みの話を聞くだけなら極楽気分でいられたのに、ついつい助平が顔を出してしまったばかりに、怖いもの見たさの好奇心が先走ったばかりに……。
「アーここもやっぱりどしゃぶりさ」(たどりついたらいつも雨ふり より抜粋 作詞 吉田拓郎)
地獄を見るのは何時でも善良で平凡な上に清く正しく貧しい一般庶民。今も昔も変わっていないのである。
『義理とふんどしかかねばならぬ』
「かかねばならぬ」とされると「欠かねばならぬ」とも読めてしまうので可笑しな話になってくる。
本当に言いたいのは「掛けねばならぬ」「心掛けなければならない」で【心】が抜けている上にひらがな文としても間違っている。
これは心がけるではなく「かかされぬ」となっているものもある事からすると「かかされぬ」+「心がける」=「かかされぬのを心がけねば」≒「かかねば」となったらしい。
簡単に言えば【間違っても義理とふんどしは欠いてはならんぞ】
当時下着はふんどしオンリーであった。
欠いて生活していたのでは、着物がヒラッとなる度に社会通念上ややこしい事になりかねない。
しかし、このふんどしは大変に高価な物で、自前のふんどしを持っている人は少なかったと聞いている。
現に、ふんどしのリース業が商いとして成立していた時代である。
誰が使ったふんどしか分からないと嫌がるむきもありましょうが、当時はそれが当たり前で、使いまわしと言っても貸し出す前には綺麗に洗われていた。当然といえば当然だ。
また、義理を欠いたのではヤクザな世界では生きて行けない。
堅気衆が義理を欠いても生き易いのは今も昔も変わらないものの、義理人情は大切な心の一部として位置づけられていた江戸時代の事。
ふんどし同様に欠いては生活に支障をきたすと教えていた。
近年、合理化の波に義理人情は地に落ちてしまっている。
終身雇用は過去の伝説となり、必至で会社を育てて来たお父さん達はロートルの無駄飯食い、窓際などと煙たがられている。
派遣社員の方が使い易く切り易いからと、古株は早期退職をそれとなくハッキリ迫られる。
会社に居辛くなったお父さんは、男の踏ん切りとばかり思い切って退社したとたん、家庭内で無用の長物に成り下がってしまうのである。
毎日家でゴロゴロしている姿は、決して美しいとは言えないお父さん。
お父さんの足が臭いだの、お父さんの服と私の服は一緒に洗わないでだの、お父さんの加齢臭がキモイだのと、世の中の厳しさ辛さを知らずにデレデレと頭だけ育った馬鹿な子に罵られてもジッと我慢のお父さん。
特に排泄した物がこびり付いているといった過激な状態でもない、ちょっとだけチビッて前の辺りが黄ばんだだけなのに、汚いから自分で洗ってねと言われたまま、いつしか洗濯籠からこぼれ落ちたパンツはカペカぺになって埃塗れの雑巾状態。
まるで自分を見ているようだと、つい救いの手を差し伸べて洗ってしまったが最後、一家の洗濯係りはお父さんに決定。
ついでに石鹸がこびり付いていた洗濯機周りを掃除している姿をうっかり見られてしまおうものなら、一家のお掃除当番もお父さん。
当番といってもたった一人の当番は、替わってくれる人がいないのである。
会社につくし家族につくし、ふと我にかえって人生を振り返ってみれば、何であの時に俺はあんなに酔ってしまったんだろう。あの夜さえなかったら………俺は今頃別の女と……。いくら悔やんでももう遅い。
社長の御手付き秘書と知りながら、義理を欠き酔った勢いでパンツを脱いだアンタが悪い。
今風にアレンジするならば「義理欠くな、パンツを脱ぐな、手を出すな」御粗末。なお父さんの何。
『鬼神に横道なし』
鬼神とは鬼の事で、鬼に神を付けて神格化したのか、元々鬼は神の族だったのか。
鬼については別の機会として、とりあえず鬼を神と置き換えて考えればいい。
神は曲がった事・邪な事はしないという意味なのだが、基本的に神は邪な事を平気でやりますから、そのままの意味としては受け入れ難い。
理想は理想として置いておくべきことわざである。
いろはかるたの中には、現代ではあまり使われていないことわざが幾つかある。
その殆どは過去・現代において共に民衆の支持を得られなかった言葉である。
本来、未来永劫此の世に残し継がれていかなければならないであろう創作物は、誰もが認める物でなければならないのだが、総ての人が認める芸術など有りはしない。
いかに技術・技巧が優れて居ようが素晴らしかろうが美しかろうが、民衆の支持なくして生き残れる物は極僅かでしかない。
残される物も国家的な保存活動が有ったればこそ残るのであって、残される芸術とは創作物の万分の一・十万分の一程度でしかない。
いろはかるたの中に混じっていたから残ったとも言えるこの言葉、鬼を神としないで鬼として考えると納得がいく。
地獄のガードマン、警備員として脇目もふらず【この道一筋】に幾万年も定年無しで働き続けているのが鬼さん達である。
たいした給料でもないのに愚痴一つ言わず閻魔に従い、年中無休の勤労を余儀なくされている。代わりが居ないのだから仕方ない。
そんな世の中にあって、お上に仕えているならば土曜は半日で仕事が終わっていた半ドンは、半日でドンと太鼓を鳴らして仕事の終わりを告げたところからきている。
厳格な上下関係を重んじた時代。
なんだかんだ言っても、お上は良い人なんだぞと言いたかったのだろう。きっとそうだ。お上推奨のことわざに違いない。
カルタは教育の一環として普及させたとの歴史的背景を見れば、お上を風刺したばかりの『いろはかるた』の中に、いささか方向性の違った言葉が有っても不思議では無い。
教科書検定を通したいばかりに、心にもない歴史を書き、書かなければならない歴史を書かずに済ませるのと一緒である。
しかしながら、現代の教科書に比べるとカルタの方がはるかに現実を教えている。
事実を包み隠さずに教えるのは難しい。
子供に世の無情を教えるのは困難の極みである。
仮に上手く現実を教えられたとしたらどうだろう。
今の大人が社会に抱いている不平・不満・不安諸々を、これからという純な子供達が抱き続けて育つのを想像するに、何とも恐ろしい光景が頭の中に渦巻くのは、私の社会に抱く不信感が過大だからだけだろうか。
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