第20話 『ゑ』
『ゑ』
『得手に帆を揚ぐ』
「得手」得手不得手の得て。エテ公のエテではない。
得手とは得意な事を指していう。
帆の字が出て来るので追い風に帆といった意味に捕えてしまうかもしれないが、ちっぃーとばかり違う。
追い風が起こったからと無暗に帆を上げても、得意とする物が無ければ意味も無く無駄に前に進んで行くだけである。
とんでもなく遠くに運ばれ、はて私は何の為にここまで来たのと考え込んでしまうようなら、帆を上げずにジッと昼寝でもしていた方がいい。
得意とする分野があって追い風が吹いたらば、その時こそ帆を上げて一心不乱に突き進めば、きっといい結果が出るのではなかろうかと解釈すれば、現代でも通用する言葉になる。
かつてバブル崩壊のおり、公的資金が銀行に流れた。
千載一遇のチャンスとばかりに号令をかけ、中小零細企業、町工場から小規模小売店にいたるまでの弱者から融資資金を引き揚げ、自殺者の山を築き上げた銀行のように、公的資金投入という追い風と同時に、人の不幸を踏み台にしてでも平気でいられる図太い神経という得意技の併用によって、生き残り且つ成長出来るのが人間・企業というものである。
こうして帆を上げた後に残された者の苦しみと、その結果として起こっている現象を【上げ苦の果て】という。
別の字を使う場合もあるが、色々と試した結果ではなく、他人の迷惑顧みず己の利益の為だけに突っ走った結果として、周りの者の状態を表現するのであればこれでよいと思う。
良い現象として表現する時の言葉ではない。
『閻魔の色事』
恐ろしい閻魔大王がエッチをする事から、似合ってないとか【ありえな~い】などと同じ様に使われていた。
今、この言葉を使う人は地球上に存在していないだろう。きっと、たぶん。
漫画やアニメによって、閻魔大王のイメージは地獄のそのまた底辺まで落ちている。
怖い者でなくなってしまった閻魔大王。現代社会では善良な小市民でしかない。
「閻魔だってエッチしていいじゃん」で話が終ってしまう世の中になっている。
差別の無い世界は良い事だが、怖さの象徴として創られたのだ。閻魔や地獄の鬼は差別してやってほしい。
現代社会では、閻魔より恐ろしい奴が五万と登場し暗躍している。
最上級に恐ろしい存在であるべき筈の者が一般人となってしまい、悪党の恐れる者がいないのが実情である。
科学によって地獄など無い、悪魔も閻魔も幽霊も亡霊もゾンビもキョンシーも神も仏も七福神もツチノコも居ないと証明してもいいが、悪党には信じていてほしかった。
神を信じられないから悪党になったのか、悪党だから神を信じないのか、そんな事はどうでもいい。
悪党にはもっと上の悪党がいて、小悪党など一捻りで滅する事が出来る大悪党が居ると信じていてもらわなければ、世の中誰でも天下人気分でやりたい放題の世界危機である。
何とかならないものだろうか。
『縁の下の力持ち』
仕方なく成ってしまっている人と、成りたくて成った者とでは受け取り方がまったく違ってくる言葉である。気を付けて使わなければならない。
現在でも多用されているので詳しく説明する必要は無いだろうが、人の感情というのは表を観察しただけでは裏で何を考えているか分からない。
特に私の様に暇を持て余している人間は、一つの事を分解してああでもないこうでもないと考えているうちに、自分自身を見失うのが日常茶飯事である。
自分でも分からない事を他人が分かる筈も無く、こうして書いている事柄の真意や本意なんて物は、後に成ったら書いた本人でさえまったくもって理解に苦しむ事ばかり。
物事何であれ、人知れずそれを支えている人たちがいてこそ成り立っている。
これを縁の下の力持ちと言うべきか、蔭の支配者と言うべきか。主観によって異なって来るところである。
感謝するべきかへつらうべきか。
どちらも私の基本的感情としての基礎データーが不足している現時点で、縁の下の力持ちに対して何等かの感情表現をしろと言われても出来ないし、蔭の支配者に対して何等かのメッセージをと言われても書き様がない。
さて、この頃ここら辺りの【縁の下の力持ち】どの様な方々なので御座いましょう。
『て』
『亭主の好きな赤烏帽子』
烏帽子とは成人した男性のかぶり物のことで、無駄にとんがった鶏のトサカのようなやつ。時代劇で貴族がかぶっている。
今では神社の神主くらいしか使わない代物で、イメージ出来ない人もいるだろう。
烏帽子の色は黒が普通だが、亭主と表現した一家の主人が言ったらば、赤い烏帽子が当たり前の色だとしなければならない。
どんなにおかしなことでも、一家の主人の好みに家族は従わなければならないということから、組長に「御前が殺ったんだよ。自首しなよ」とチャカを渡されたら「はい、自分が殺りました。自首します」と最寄りの警察署にやっても居ない殺人で出頭しなければならない。絶対的上下関係にあるフザケタ社会の悲哀を謳っている。
現代では【黒い物でも白】との言い回しに変わっている言葉である。
力任せの団体に限らず、総ての組織や人間関係の中にシバシバ現れて来る現象であり、主に強者が弱者を犠牲にして更に強くなったり長生きしたりと、理不尽としか言い様の無い上下関係を表現している。
パワハラだな。
江戸の時代と言葉は違っても、令和の時代に腐りきった精神はしっかり受け継がれている。
偉いと言われている人達にとって、特に既得権を死守したい者にとっては超有難い御言葉である。
何時の時代も、弱者は強者の食い物である事に変わりはない。
釘になるよりは金槌に成った方がいいなどと言いうが、叩かれて打ち込まれる釘が無かったら、大きな箱ほど簡単に壊せますわなー。
釘がなかったら金槌はいりませんわなー。
『天道人を殺さず』
意味を簡単に書くと「正直者は馬鹿を見ない」となる。
天地を形成する道理は、真面目で素直な人間を捨ててまで無慈悲な事はしないというのだが、江戸の時代にあっても明らかに世情を皮肉った言葉である。
天の道が神であれ真理であれエネルギーであっても。何だろうがこの道と言う奴は、決して正直者の味方ではない。
「おてんとう様が何時でも見ている」などと言う。見ているだけである。
救いの手を差し伸べるのは極希で、天の事情を知らない平民にはただの気まぐれとしか思えない。
正直に世の中を生きて来た者が何等かの災難に遭遇した時、不思議な力で逆境から抜け出せたりすると人は奇跡が起きたと言う。
神が・天が・何者かが奇跡を起して助けてくれたと喜んで言いふらすのだ。
奇跡は奇跡だから奇跡なのである。正直に生きてきた総ての人を救うものではない。
天道は生きる総ての者に順位をつけ差別し、食う者と食われる者に分けている。
最期は総ての生が何者かに食われ、消滅してしまう事に限って言えば完璧な平等である。
してみるに、きっと天道とは総ての生を喰らい尽くす者なのである。
『寺から里へ』
一般的に馴染みのない表現である。
「寺から里へ」とは「檀家から寺に金品を進呈するのは当たり前だが、寺から檀家へ物を贈る事は間違っている」
わがままな一方通行である。
寺にとっては都合が良過ぎる意味でしかない。
江戸時代だから、宗教法人の教義・教えについて科学的にどうだのこうだのと言う者もいなかった。
この言葉はそのままの意味であったにも関わらず、民衆に受け入れられていた。
今時こんな事を寺の住職が口走った日には、檀家総出の大騒ぎに成る。
人心を操るには信仰が最も容易い方法であるのは、賢明なる方々ならば御存知でありましょう。
上下関係を構築した後にその組織構成を揺るぎないものにする為、仏教は実に都合が良かった。
仏教を否定する気は無いが、江戸の時代には政治統治・思想コントロールに宗教が利用されていた事実は消せない。
過去に限らず、今も宗教の違いが原因としか思えない争いが絶えないのは、民衆支配の必須アイテムだからである。
宗教に限らず、本来人を救うべき物やシステムを利用して、困った人々を救う為と理想をぶち上げてはいるものの、その実態は人心コントロールだったなどというアイテムが現代社会には溢れかえっている。
操られているつもりは無くとも、いつの間にか全身を底なし沼に引き込まれ、気付いた時には身動き取れない状態に成っているものだ。
ところが、この民衆を引き込み操っていると思っている者もまた誰かに操られ、堂々巡って皆して操りあって居る事を人形遣いは気付いているのだろうか。
はてさて、世の中という空間。何が発端で始まっているかなんてえのは、誰にも解らないんじゃないでしょうかねえー。
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