第7話 『を』
『を』
『老いては子に従う』
このとうりにしたら、政治家の半数以上は消えてしまう。
世代交代の出来る所は良いとしても、上がつかえていてはそれもなかなか進まないもので、世の中そうそう容易く変わってはくれない。
「老兵は死なず、単に消え去るのみ」(兵隊歌『Old Soldiers Never Die』のスタンザ(Old soldiers never die, they simply fade away)を短縮したもの)ダグラス・マッカーサーが退任演説の際に引用したこの言葉、何処か似通ったような気がする。
何時までも権力の座にしがみ付いているのに、世直し民衆ためになる事となると興味を示さない。
潔く消え去れないのなら、いっそ思い切って死んでしまえと言ってやりたい人も大勢いますです。
一般ピーポーにおいても家庭内で「子に従って」とお願いしたくなる様な超頑固なお方を見かける。
ここの所の老舗の不祥事の数々を見聞きするに、このコトワザが必ずしも現代社会に沿った物かどうかは? しっかりした子なら従いもするだろうが、浪費壁の塊のようなダァーホには従いたくないもの。
世の中、本当になかなか上手くいかないものである。
『鬼の女房に鬼神』
この場合の鬼神とは旦那の事。
鬼嫁の旦那はやはり鬼という意味なのだが。一般的観点ではこれは間違っている。
最近の鬼嫁の旦那は嫁に頭の上がらない人ばかりだから「鬼嫁」と言われているのである。
「ドメスティクバイオレンス」は江戸時代より遥か昔からあった。
そんな鬼の様な旦那の嫁さんが鬼ならば、こんなことわざは出来なかった。
この場合は極限られた閉鎖的少数派社会。判りやすく言うと「極道の世界」の事である。
子分衆から見れば優しい親分の女将さんは優しい。(この世界では「姉さん」などと呼ばれている)
逆に、鬼の様な親分の姉さんはやはり鬼の様に恐ろしい。
姉さんは親分に一番近い存在。組の方針に一番影響力を持っているのは、実は親分よりも姉さんだったりする。
その辺の所は一般家庭でも同じ現象が起きているようで、家庭の行事決定権はお母さんが握っている。そんな御家、多いのではなかろうか。
このことわざ、現代社会にはあまりソグワナイと思っていただいていいようである。
『鬼も十八』
「鬼も十八、番茶も出花」などと言う。
鬼嫁候補も十八の頃は可愛いもので、それを番茶に掛けて、丁度良い頃なんでないのと言った意味である。
江戸時代は平均寿命が五十歳。したがって現代のように晩婚などと言ってられない。
二十歳過ぎたらもう晩婚。三十過ぎたらもうおばさん。四十過ぎたらおばあちゃん。おー、なんと恐ろしい時代だった事か。
その為に婚期が早く十五、十六当たり前。前田芳春院なんか十二歳で結婚十四で出産。今ならしっかり犯罪だ。てな時代背景があってのことわざ。
現代には当てはまらない。
使えないコトワザは結構とあるものだ。
「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
これも、今では一寸感覚違うようである。
『わ』
『割れ鍋にとじ蓋』
割れた鍋にフタは要らない。使えない鍋なんだからと言う事で、フザケタ使えない省庁には予算は要らないの意味となる。
また割れ鍋のような物にでも相応しい蓋があるから、困った議員にはそれなりの秘書や弁護士が付いているの意。
このように、どんな人にでも相応しい相棒が居る。
あるいは、分相応なアテガイをしておけば良いといったところ。
鍋、釜は江戸時代には貴重品であった。金属が貴重だったからね。
そんな事情もあって鍋は割れたら捨てるではなく、修理して使うのが一般的であった。
もちろん修復不能な物もあるから、その様な物はスクラップになって溶かしてまた鍋になるという具合にリサイクルしていた。
このように、省庁のオフザケ役人や腐れ議員と取りまき連中もスクラップに出来るといいのだが、どう考えてもスクラップにさえ出来ない程に腐ってしまっては使い物にならないものなー。
『若い時は二度ない』
子共用なんでなかったのか。
どうも江戸時代の子共は早熟だったようである。
作った大人がヌケ作だったのか。子共に何て説明していたの? という札が多いのが「いろはカルタ」の特徴である。
第一に、ことわざにも何にもなってない。
若い時は二度ないって、そのまんまだ。誰だって知ってるし。今更カルタ如きに言われたくない。
美容整形で見かけの若さを買っている人がいる。
自分に自信を付ける為にやっているのであれば、ウツになってドンヨリの日々を過ごすよりいい。
ただ、見栄やハッタリでというのはあまりいただけない。自意識過剰ですよ、誰も貴方をそんなに見ていませんから。
この言葉にはアイマイな部分がある。
「若い時」の定義が成されていないのである。
若いってどんな時を指して言うのか。百歳の人から見れば九十歳でもまだ若い。
とにかく年の事なんか気にしないで面白おかしく、つまらない事は気にしない。若さを保つ秘訣だなどとよく言われている。
今日も明日も楽しく行きましょう。
『笑う門には福来る』
笑う門とは笑いの絶えない家庭を言うのだが、幸せを実感しているから笑っていられるのであって、不幸のどん底ではなかなか笑ってなんかいられるものではない。
逃れようの無いどん底生活でも笑っていられる家庭が仮に有ったとしたら、周辺の住民からは奇異の目で見られるに違いない。
どんなに辛くても落ち込まないで、適当に不幸を受け流すのがよろしいと言いたいのだ。
真正面で不幸を受け止めるのはよした方がいい。
受け流しようが無く、もろに不幸を食らって再起不能になる場合があるからだ。
借金取りが来たら、玄関まで出て行って出迎えるなどといった愚行に走ってはいけない。
さっさと裏口から逃げ出すか、裏も張られていたらトンネルでも掘って隣の他人に匿ってもらえ。
借金取に高利を支払うより、隣の他人に御礼と言って肉まんの一つも買う方が安く上がる。
何事もどっちが得か考えて行動すべきである。
不幸と預金と借金を溜め込まない家庭作りを心がけていれば、気分的には幸せでいられるといった気休めのことわざと受け止めて差し支えない。
誰から見ても不幸な人でも、本人が不幸だと感じなければその人は不幸ではない。
充実した幸せをエンジョイしているかと聞かれると疑問だが。
ラテン語の格言で「リースノー・ イストッツクエット・ アット・コクバーン・モ・カネカシーガ・ミナ・モッテッターアイテム」簡単に訳すと「笑いは幸福への入口」というのがある。
世界中に同じ様な格言が残されている。
不幸も幸福もその人の思い込みによって成り立っているというのが、万国共通の考え方である。
要は「笑ってゴマカセ」と言う事なのだ。
ほら笑って見ろ。きっと明るい未来が見えて来る。
とか書いていて『んなわけねえだろ馬鹿野郎』と心の中に自分の声が反響しているのは何故だろう、これが良心というものなのだろうか。
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