いろはたとえ
葱と落花生
第1話 【いろはの『い』】
【いろはたとえ】
『い』 江戸
『犬も歩けば棒にあたる』
犬畜生でもあちこちフラフラ歩いていれば何時か棒くらいには当たるだろうに、十年買い続けても当たらない宝くじを買っている貴方は箸にも棒にもかからない。
世界中の不幸を一人で背負っているのではなかろうかと思える程で、非常に運が無いようである。
宝くじなんか買うのを止めて私に投資しなさい。
思い切りの悪い貴方に代わって、私が競馬で一発大穴狙いしてあげましょう。
ひょっとしたら、倍返しできるかもしれない。
ダメだったら諦めてもらうしかない。
どうせ何かで無くなってしまった金だと思えばいい。それも又人の運命。
素直に受け入れ我慢して生きて行くんですよと言う、ある宗教家の賢明なる教え。
『一を聞いて十を知る』 大阪
小説などに登場する名探偵の様に、恐ろしく頭脳明晰な人の学習能力を指してこの様に言う。俗っぽいいい方をすれば天才。
シャーロックホームズ・金田一耕助・コナンなどが代表的であるとされている。
一を聞いて十を知る事など一般的には不可能である。それほどに優れている奴は正義の味方にはいない。
解いてみれば簡単なトリックを、名探偵は一時間もかけなければ解決できない。
ワイド版だと二時間近くかかる場合もあるが、犯人は番組が始まる前に仕込みを終わっている。
話が早い三十分物などの場合は、いきなり死体が出てきたりする。
不自然この上ない設定も許されるのが、作り話の世界である。
単なる例えとして覚えた方が無難だ。
『一寸先は闇』 京都
サブプライムローン問題から世界中に波及し、ギリシャの破綻、中国バブルの崩壊とドミノ倒しのように連動していく不安定な世界同時株安を指してこの様に表現する。
サブプライムローンはアメリカが全世界に向けて仕掛けた国家プロジェクト。大がかりな詐欺であったと気付いて居る人は少ないだろう。
過去においても世界同時株安はあった。代表的なものに世界恐慌がある。
株は博打であり、信託は他人の博打に資金を提供する行為である事に気付いていない人が多い。
右肩上がりの時はいいが、いざ株価の下落暴落となると、悪魔の取引と称されいる空売りを容赦なくやらなければ利益は確保できない。
それこそ隣で首を吊っている投資家を眺めながら、美味い飯が食えるほどに図太い神経の持ち主でなければ、株屋なんかやってられない。
利益第一。人の命は二の次三の次。
巻き添えを食って破産した善良なる投資家には、思い切ってもらうしかない。
お金に命まで捧げる事は無い。すったらそれはそれ、どうせお遊びですから。
全財産を信託会社に預けるなんて馬鹿な事考えている人、まさかいませんよね。
『ろ』
『論より証拠』
麻雀でアタリ牌を出してしまい「ロン」と言われてアタリ牌を飲み込んだ人がいる。
生きていたか死んだかは、記録が無いので何とも言えない。
「ロンと言うからには、それにりの証拠を出せと」と開き直れば当たらなくて済むという、中国の古事に習ったありがたい御言葉であるが、中国の麻雀牌は日本に比べかなり大きい。飲み込むのは命がけだった。
それでも飲込むからには、賭けていた物が命に関わる物だったのである。
移植用に自分の腎臓とか肝臓とか、それまで負けがこんでとられてしまったら最後に差し出すのは心臓しかない。
良識ある博徒なら、賭ける物は角膜くらいまでにしておくべきだ。
『六十の三つ子』
「三つ子の魂百までも」の対義語。
六十になってから若返って三歳になっても、それまで経験してきた事は忘れるものではないと言う意味。
できるならそうあってほしいものだが、現実はというと六十に成った頃からさっき食った飯が何だったかも忘れている。
六十は三つの子供とたいして頭の具合が変わらない。
別の解釈では、六十に成っても三つ子位は産めるという高齢出産者への励まし。
現代人には一番分かり易い解釈かも知れない。
また別の解釈によると、いくら三つ子で産まれた時はそっくりでも、六十になってみればそれまでの人生が別々なのだから、まったく違う三つ子に成っているという意味ともされている。
苦労は歳を増す程顔に出る。
妙にいい男は苦労知らずで、他人を表面でしか思いやれない役立たずのヒョットコ野郎が多い。
そんな奴とは付き合わない方がいい。苦労させられるだけだ。
『論語読みの論語知らず』
私の事である。
カクカクシカジカと嘘八百並べ立てて怪しい記事を常日頃より掲載しているが、辞典をいっくら読んでも内容が理解出来ない。
したがって皆様にお伝えしている記事の内容は、若干ほんのチピーットだけ現実と異なる部分が有る。
ひょっとしたら本当の事の方が少ない。
かすかにでも記載内容に疑問を感じたならば、速やかに確認作業をするべきだ。
ここで知った事を他所で話すのは自殺行為、決して他言してはならない。
以上の事を御理解して頂いた上で、面白おかしく読んで頂ければ幸いです。
『は』
『箸にも棒にも掛からない』
逃走中の犯人を取り逃がした時の警察隠語。
取り逃がしてしまった自分の不甲斐無さを指して言う場合には『箸にも棒にも掛からない』何々として使う。
我が村においては犯罪が無いので、この様な事は起こらない。
何事が起こっても、正義の基準が曖昧なので犯罪が成立しないのである。
仮の解釈では、石の地蔵が犯罪を犯しても警察が言う処の箸にも棒にも掛からない状態にはならない。
石地蔵は自分自身の重さの為に動きが非常に鈍いので、簡単に捕まってしまう。
これらの事から現在では、石の地蔵は重すぎる為に箸でも棒でも動かせないとし、石地蔵その物を指して言う場合もある。
『花より男子』
花をめでるよりも団子を食う方が、生きるにあたっては優先事項である事に間違いはない。
当たり前と言えば当たり前すぎる話だが、京都でこの『花より男子』は『花より団子』ではない。『団子よりも花』とする。
そこが京都らしさなのか、如何なる時も優雅であるべきを忘れない。
確かにその昔、京都の道端に大飢饉で餓死者が転がっていた時でさえ、雅な御方達は優雅に過ごされておじゃたそうな。
江戸においても武士階級では「武士は食わねど高楊枝」だった。
お偉いさんも昔は大変だった。今時のお偉いさんときた日にゃ。
『針の穴から天上を覗く』
ダンボール箱に針の先程の穴を開けて作るカメラをご存知だろうか? ピンホールカメラと言うやつ。
時間はかかるが、実際に簡単な仕組みで写真が撮れる。
そこの君、ピンホールカメラにICチップを入れるんじゃない。フィルムというやつを入れて撮るんだよ。
青写真用の紙でもやれるぞ。
紙に穴を開けて目から離して向うを覗くと、景色が逆さになって見えるのは理科の実験で習っている筈だ。知らないとは言わせない。
この様な現象から、針の穴から天上を覗くと実際は逆さになって見えているのだが、上も下も右左も分からない。
これが例えで、狭い視野で物事を見ていると実際の物は見えなくなってしまうよ。といった意味がこの言葉にはある。
差別的で表現が悪いが童話にこんなのが有った。
盲目の三人に像を触らせる。像とはどんな生き物かと後になって訊ねると、一人は……この先は忘れた。
広く大きく総てに関して物事を観察し思考しなければ、私にような嘘つきにダマされる。
ここまでの記事は、どこまでが本当でどこからが嘘か分かったかな?
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