春郊、水辺、君色想い

野村絽麻子

君に恋する物語

 父の運転する車は長いこと右往左往してから蕎麦屋の駐車場に停車した。その時点で昼飯が蕎麦になることが決定したわけで、大地はややうんざりとしてしまう。沿道の並木がざあっと音を立てた。風はそのまま前髪をかき上げて、姉に抱かれた赤ん坊の白い涎かけをめくって揺らす。赤ん坊はただただ眠たげに唇を突き出している。

「大地、お姉ちゃんの鞄持ってあげて」

「あぁ……うん」

 マザーズバッグと呼ばれる大振りのトートバッグはウサギやクマのイラストがついたファンシーなもので、いかにもそれっぽい桃色のタータンチェックが踊っている。

 蕎麦屋の案内係の人に先にお宮参りを済ませる旨を告げて、母と姉、姉の旦那さんの吉井さんがその後に続く。蕎麦屋の人と話し込んでいた父が追い付いて、「なんだ、まだ山門にも着かないのか」とごく小さな声で文句を言う。それもそのはずで、母も姉もキョロキョロと辺りを見回しては、やれ草団子が旨そうだの、お参りが済んだら蕎麦を買って帰ろうかだのと、まるで物見遊山の態だ。

 吉井さんは吉井さんで何がそんなに嬉しいのか、姉からエルゴごと貰い受けた赤ん坊を覗き込んでは、ただ頬を緩ませるだけで、これも老人の散歩もかくやというスピードで母と姉の背後をゆらゆら着いていく。これでいて実はその場の空気を読んでのポーズなのだとしたら大したものだと思う。父ですら文句は小声で言うほどだ。かく言う大地も、空気が蕎麦湯の匂いだ、と感じても黙っているくらいには弁えている。干支ひと回り上の姉と、元教師の母になんて、何を持ってしても敵う訳がないのだった。

 軒を連ねる蕎麦屋と、調布に縁があるらしいキャラクターのカフェ、土産物屋と小川を横目に再びの蕎麦屋を通り過ぎると階段が見えてくる。

 やっとの事で本堂に到着すると、あらかじめ予約していたらしく、すぐに参拝が始まった。厄除けの祈祷をしている間、赤ん坊は不思議そうにキョロキョロと辺りを見回している。高校生の大地でもあまりよく分かっていないのだから、変な場所に来てしまった、くらいしか認識していないだろう。お前の為の集まりだよと言いかけてやめる。鼻先を通り過ぎる風はやっぱり蕎麦湯の匂いがして、大地は静かに目を閉じる。


 参拝を終えると荷物が増えた。破魔矢を貰うのは正月だけではないとそこで初めて知る。

「さぁ、お蕎麦食べて帰りましょ」

「気温が高いから冷たい蕎麦がいいなぁ」

 来る時はあれほど気にしていた草団子も土産物の蕎麦も軽々と通り過ぎて行く。母も姉も腹が減っているのだろうか。

 蕎麦屋はちょうど混み始めるところで、大地達が席に通された後から後から客がやって来て、その度に「いらっしゃいませー!」と店員の小気味良い声が飛ぶ。テーブルの端に置かれたメニューを順番に覗き込みながらそれを聞く。窓の外は滴るような緑があふれ、観光客が行き交い、売り子の声が囀る。視界いっぱいの緑は、ほんの二週間ほど前まで桜が咲いていたことなどすっかりと忘れた様相だ。


 怠いような眠いような気持ちから浮上したのは、ようやっと決まった注文を伝えようと店員を呼んだ時だった。

「あれぇ? 中嶋くん?」

「……あ。小坂、さん」

 赤茶色のエプロンを着けて三角巾を被った店員はどの人もおばちゃんに見えていたけれど、そうではなかった。いま、卓の横で驚いた顔をしている小坂花音は大地のクラスメイトで、普段は斜め前の座席に座っている。一瞬、ここが小坂花音の実家なのかと思ってみて、すぐに屋号が違うことに気付く。

「えへへ、バイトしてるんだ」

「そっか」

 自ら種明かしをした花音に、母と姉が「あらあら、お友達?」と割って入る。花音は「はい、同じクラスの小坂です」と受け答えをして「わぁ、かわいい!」と赤ん坊の顔を覗き込み、それから店員さん然としたよそ行きの表情に戻る。

「ご注文はお決まりでしょうか」

「天もりを四つと卵とじそばをひとつ」

「承知しました。少しお待ちください」

 蕎麦湯のポットの場所などをひと通り案内すると、大地にむけて軽く微笑んで見せた。普段、教室で誰かと喋っている姿を思い出そうとするけれど、どうにも頭が回りそうにない。

「うちのお蕎麦美味しいから。どうぞごゆっくり」


 蕎麦の良し悪しなどこれまで考えた事もなかった癖に、この蕎麦は美味しい蕎麦だな、などと思ってしまう。ざるに乗っている蕎麦の、蕎麦自体に直接わさびを付けるやり方を初めて覚えた。つゆにわさびをじゃぶじゃぶ溶かすのは粋なやり方ではない、とは教えてくれた吉井さんの談だ。

 蕎麦は大人の食べ物だと思っていた。例えばハンバーグやナポリタンなんかに比べたら味気なくて食べた気がしないものだと。

 教わったやり方で蕎麦を啜り、初めて口にした大葉の天ぷらの美味さに驚き、それだけで自分が何だか少しだけ大人になったような気になった。顔をあげると、遠くで食事の済んだ皿を片しながら客の呼びかけに「はぁい、ただいま」と応じる花音が目に入る。花音はにこやかで堂々としていて清潔感があった。バイト先の蕎麦のことを「うちのお蕎麦」と呼んで大切そうに運んでいる姿は、とても大人びている。そう感じる。

 窓の外を強い風が吹いて樹木の葉を裏返していく。その白っぽい面を目にしながら、気が付けば自然と言葉がこぼれていた。

「……俺も、アルバイトしようかな」


 その言葉は数日の後に現実のものとなる。

 そう都合よく花音の勤め先と同じ店とは行かなかったものの、すぐ隣の蕎麦屋で調理補助のアルバイトが見つかり、一も二もなく飛びついた。勢い込んで訪れた洗い場では、達磨のようなギョロリとした目付きの親方曰く「まずは挨拶から」で、「おはようございます」と「お疲れ様でした」が身体に染み込む頃には皿洗いもこなれてくる。

 店を閉める前にはゴミ出しに行く。偶にタイミングが合うと隣の店から花音が顔を覗かせることがあって、いつかのと同じ赤茶色のエプロンと三角巾に身を包んだ花音からは、やっぱり蕎麦湯の匂いがする。

「中嶋くん、お疲れ様」

「おつかれ」

 店のつっかけを鳴らして歩く花音の足元を気にしながら、でも、良い夜風だと思う。胸いっぱいに吸い込むと瑞々しい空気が身体中に満ちて、何処まででも走って行けそうな気持ちになる。

 学校での二人はこんなに親しげに会話を交わすことはなくて、顔を合わせれば軽く挨拶くらいはする程度。知らない仲ではないという風情でいる。けれど、学校の制服から店のエプロンに着替えると途端に「深大寺で軒を連ねる蕎麦屋で働いている」あたりの仲間意識が芽生えるというか。クラスメイトの知らない花音の一面を自分だけが見せて貰えているような特別感がある。それは大地の胸を躍らせ力を漲らせる感覚だった。しかし同時に、いつ他のクラスメイトが以前の自分のように偶然ここを訪れて花音の姿を目にしてしまったらと思うと、ざわざわと掻き乱される感覚でもある。

「ねぇ、あれ、知ってる?」

 不意に花音が言う。

「何、あれって」

「境内にある枝垂れカツラ。秋になって落葉すると砂糖醤油みたいな匂いがするんだよ?」

 ははぁ、これは担ごうとしているな。そんなふうに思う。いつだったか、同じような場面で「あの店の前に置いてある信楽焼の狸ね、夜中に歩くんだよ」と吹き込まれて、馬鹿馬鹿しい話に対してあまりに真剣な表情だったもので、まんまと担がれてしまったのだ。あの後、店に戻ってから聞いてみた時の女将さんの顔と言ったら今でも頭を抱えるほどのものだった。

「あ、嘘じゃないってぇ」

「俺は信じないぞ」

「今度は本当なんだってば」

 くすくす笑う花音の気配が夜気に溶けて、自分の口角が自然と上がってしまうのを抑えられずにいる。辺りでリーリーと虫が鳴いている。

「秋になったら嗅ぎに行く?」

「落ち葉の匂いを?」

「そうだよ。本当に美味しそうな匂いがするんだから」

 秋になったら。花音はそう言った。ほんの少しだけ先の季節の話が出来ることをこんなに嬉しいと感じるなんて、それってみんなに起きる事なんだろうか。店の勝手口で手を振って、身体を滑り込ませるのを見送りながら、不思議な幸福感に身を委ねる。


 アルバイトを終えてから少し遠回りをして帰路に着く。アスファルトで舗装された小道の脇を並行して水路が流れていて、これは国分寺崖線からきている湧水なのだと聞いた。

 ちろちろと水が流れる音を耳にしながらゆっくりと歩き、深沙大王堂の前で足が止まる。秘仏とされこのお堂に祀られている深沙大王はその憤怒の表情とは裏腹に恋物語を由来を待つ縁結びの神様なのだという。

「……本当かな」

 また担がれたのではないか。そんな考えが頭を掠めるけれど、気にしないようにして両手を合わせ、首を垂れる。秋になっても、と大地は願う。こうして花音の他愛のない嘘に笑ったり、連休の連続出勤を励まし合ったり、お店の窓越しに花音が立ち働いている様子をそっと目にしたりできますように。

 その頃には温かな蕎麦つゆの湯気が店々の窓から漂っているのだろう。今は深緑に囲まれたこの場所も、きっと鮮やかな紅葉で彩られる。

 見たいな、それを。花音と一緒に。

 もう一度深く首を垂れてから大地はお堂をあとにする。店じまい後の夜風は蕎麦湯ではなく正しく水辺の匂いがして、まるで頭を撫でるかのようにやわらかく、前髪を揺らして吹き抜けた。

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