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第1話 「いじめ」から逃げるなへの応援コメント
コメント返信率100%企画から参りました。
社会規範や倫理について考えるとき、ふつうの人々は、日常的な人付き合いをこなすのに充分なところまで考えて、とりあえずの持論を得たら、そこで考えるのをやめてしまうものですが、このエッセイは、ふつうの人よりも一歩踏み込んでいる野心的な内容ですね。知識が豊富で論理的なものの考え方が出来る人でないと、なかなかここまでは考察できません。
しかしながら、疑問点が3つあります。
まず、人類は有史以前から大小さまざまな規模の争いを繰り返しており、いじめも殺人事件も戦争も、一向に無くなる気配がありません。「実際にやってみて自省する」という方法は、現実において上手く作用していないのではないでしょうか?
次に、「実際にやってみろ」との方針のもと、いじめられる子は、いじめっ子を自省させるための生け贄となるしかないのでしょうか?(もし、いじめられた子が自殺してしまっても、いじめっ子が改心したなら、必要な犠牲だったということになるのでしょうか?)被害者を出さないために、いじめが起こる前から「他人をいじめてはいけない」と教える必要があるのではないでしょうか?
そして最後に、「実際にやらせてみて自省させる」方法は、いじめに快感を覚えているような子、他人を傷つけて血を見るのが楽しくてたまらない子、他人の泣き叫ぶ声や怯えた顔が大好きな子、いじめて萎縮させれば他人を支配できると知ってしまったような子を制止できるでしょうか?
他の方のコメントへの返信では「堀り下げて掘り下げて、自分の奥の深いところに進んでいく」とおっしゃっていますが、心の底に嗜虐心と支配欲しかなかったらどうするのでしょうか?問い詰めて掘り下げることが果たして本当に有効かどうか?となると考察があいまいで、子供の良心に根拠のない期待を寄せすぎな気がしました。
冒頭でも述べたとおり、ふつうの人がなかなか踏み込めない領域に挑んでおられる素晴らしいエッセイだと思いますので、さらなる考察の一助になれば幸いです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
褒めて頂いて嬉しいです。
それでは、ユウグレムシ様の疑問について、回答していきましょう。
1、確かに、有史以前から大小さまざまな規模の争いを繰り返していますが、「いじめ、殺人、戦争」について、してはいけない理由をきちんと説明できますでしょうか。
多くの人は「ドクマ(お題目)」を唱えてるだけではないでしょうか。理由を説明できないドクマは簡単に捨て去られてしまいますよ。その理由を説明できるようにするのが、私が説く自省です。
2、これは本当に良い指摘です。いじめられる子は本当に可哀想だと私も思います。実際に、いじめなんてのは、ないほうが良いですからね。しかし、被害者を出さないために、いじめが起こる前から「他人をいじめてはいけない」と教える必要がある。この実戦を伴わない教えというのは、得てして断定的な思想の押し付けになってしまいます。それでは、子供は真理に近づきにくいですよね。
また、教育の一環として、「無視するなり、ライン外し、陰口」当たりなら、良いというわけではないですが、体験さてもいいのかなと思っています。
そして、どうしてもそれに抵抗があるというのなら、人に比べて共感度は下がりますが、犬や猫、トカゲやバッタで学んでも良いと思います。
3、問い続けた結果、そのような考えに行きついたのなら、それでも良いんです。多用な考えは活発な議論を生み、また間違った意見も必要なのです。なぜなら、議論なき意見は偏見だからである。これはミルの『自由論』でも語られていますよね。
故に、その「人をいじめても良い」という煮詰まった意見をもって、私やユウグレムシ様のような「人をいじめてはいけない」と考えている人と徹底的に議論をし、その思想を調整していけば良い。そうすれば、私達も「人をいじめても良い」と考えている人も、より良い真理に行きつきますよね。
ただし、掘り下げ議論し、思想を調整することは非常に難しいです。オルテガの「貴族」やニーチェの「超人の駱駝」でないと、まず無理です。
最後に、「いじめをなくす」ということだけに焦点を当てるなら、ミシェル・フコー『監獄の誕生』でも述べられていた、パノプティコンを利用するばいいのです。つまり、子供達に目を植え付けるということです。
しかし、私はそんな監視社会よりも、子供そして人間の善性を信じ、確固たる基準を持ち個人が自分の力、「いじめは良くない」と考え、止めることを自ら選択する社会の方が良いと考えます。ご意見、ありがとうございました。
第1話 「いじめ」から逃げるなへの応援コメント
この度は企画ご参加いただきありがとうございます。
作品に対する意見ではなく、単なる感想を申し上げます。
初めてメモを取りながら、拝読しました。ですが、メモを取ったことでこの下で書かせていただくものが皆様の考察に足るものになるかは自信がありません。
感情論で話すべき内容ではないと考えます。
お友達が痛いからダメでしょう。いじわるされたら悲しくなるでしょう。
このような自分がされたら嫌だ、だから止めましょうはそういう感情的なことを考えることは出来る人間がいじめる。いや、いじわるをするのを止めることが出来るでしょう。
ですが、中には感情が分からない人々が存在することを忘れてはならないと思います。精神疾患の話をしているわけではなく、性格的に感情が分からない人も存在する。
そんな人間がいるなんて信じられない。そんな人は精神疾患だ。
この考え方自体がまた一つのいじめ生むのでしょう。
私に子供が出来てその子が学校でいじめをしていることが分かった。最初は怒らずに話を聞きます。「あなたがなぜこういう行動をしたのか教えて」と優しく問い、例えば「気に入らないから叩いた」と言われたら、鬼のような形相をして叩くと思います。
おそらく子供は叩かれたことで自分がしてはならないことをした。だから折檻を受けた。そう印象つけることによって、作者様の最後に書かれている。自分の力で考えさせることが重要でないかと考えます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
>感情論で話すべき内容ではないと考えます。
べきか、べきでないか論は置いておいて、本作は感情論で話しているわけではないです。もしかすると、ハナビシトモエ様と私では認識の齟齬があるのかもしれませんね。
「お友達が痛いからダメ!」
そこで終わってはいけません。そんなところで止まってしまえば、抽象的すぎて真理には程遠いです。
「いじわるされたら悲しいから」
「悲しいことの何が嫌なの?」
「誰だって悲しいことの嫌で、幸福になりたいだろ」
「なぜ、幸福になりたいの? 幸福って何?」
このように、導き出した答えに対しても、さらにさらに問いを投げかけて、自分の奥の深いところに進み、真理に近づいていくのです。つまり、「なぜ、悪いのか?」の答えに近づくということです。
相手の感情が分からない人々ても大いに結構です。自己を通した相手について考えること、つまり自分自身と対話することが重要なのです。そこに、相手の存在はそれほど関係ありません。
あと、個人の教育論について口出しするのは良くないと思いますが言わせてください。
>例えば「気に入らないから叩いた」と言われたら、鬼のような形相をして叩くと思います。
そのやり方は異質な者と対話を試み、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如しているように思えます。昔から人は暴力に訴えることもあるが、それは自分が信じている正義や信念を守るための最後の手段でした。
つまり、暴力とは最後の理性ということです。
その順番を逆にし、暴力を最初の理性、いや唯一の理性とするのは、いかがなものかと。
ハナビシトモエ様のコメントは私の思想と大きく異なる部分も多く、より自身の思想と向き合うことができました。ありがとうございます。
第1話 「いじめ」から逃げるなへの応援コメント
「現代社会のいじめ」の本質に踏み込んだ優れた問題提起だと思います。
オルテガの言葉は味わい深いですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「現代社会のいじめ」の本質を見ずに、軽薄な断定的思想を語る人や、暴力的制裁を加えようとする人達に嫌気がさしたので、問題提起をさせていただきました。
今の社会を見ていると、オルテガの言葉には本当に考えさせられます。
第1話 「いじめ」から逃げるなへの応援コメント
私、正直あまり頭が良くないので、
お話を理解出来ていなかったら大変申し訳ないのですが
いじめを無くすためにはいじめを実際にやってみる事が良い事だと書かれている様に見受けられました。
※間違えていましたら、大変申し訳ございません。
私の観測範囲の話になってしまいますが、大人であれ、子供であれ
いじめは楽しいもの(少なくとも不快ではないもの)と認識していると思います。
特に酷いなと私が感じているのはSNSですが、
弱者(悪者)を見つけた際に、正義の名の下に、集団で悪者を叩くではありませんか。
その結果、被害者(悪者)が自殺しようと、精神を病もうと集団は止まりません。
初めてSNSでの自殺者が報道されてから大分経ちますが、未だにSNSではいじめが横行していると思っております。
ここから考えると、人はいじめをしたとしても悪い事だと感じないのではないかなと
私は考えておりました。
稚拙な意見ではありますが、ここに書き記させて頂きます。
また、子供にいじめを止めさせる方法としては、もうシンプルに犯罪だからと言うのが良いのかなと
個人的には思っております。
子供だって何も分からない訳ではありませんし。
リスクがあると理解知れば、いじめを行わない可能性もあります(あくまで可能性ですが)
一応、上記意見について私の観測範囲の話で一例を出させて頂きますと。
私の学生時代に、違法な薬の売買が流行っておりまして
それを何とかしようと考えた先生方が、違法な薬を使用した際のリスクをビデオで何度か生徒たちに見せました。
その結果だ。と自信満々に言うには、少々サンプルが少ない様に思えますが、その学校の関係者で薬物を使用する人間は減ったそうです。
ご参考までに書き記させて頂きます。
以上、長々とはなりましたが、一つ意見を書かせていただきました。
失礼いたします。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
>いじめを無くすためにはいじめを実際にやってみる事が良い事だと書かれている様に見受けられました。
その通りです、私はそのように主張しました。
>人はいじめをしたとしても悪い事だと感じないのではないかなと。
稚拙な意見ではありません。私もその通りだと思いますよ。いじめを実際にやってみて、それについて何も考えず、ただ「楽しい!」で終わったのなら、いじめはなくなりません。
そこで終わるのではなくて、「今相手はどんな気持ち?」とか「なぜ楽しいの?」と問いを投げかけて、その子その人自体に考えさせなくてはなりません。そして、その導き出した答えに対しても、さらにさらに問いを投げかけて、自分の奥の深いところに進み、真理に近づいていくのです。つまり、「なぜ、悪いのか?」の答えに近づくということです。
>もうシンプルに犯罪だからと言うのが良いのかなと。
ジェレミ・ベンサムの量的功利主義に近いのかな。間違ってたら、ごめんなさい。
「あの釈迦もバラモンの法を破り僧侶になったけど。イエスも暴力の力で商店を破壊したけど。犯罪行為の何がいけないの? 法を犯すことが悪いことなの?」
その教えだとこういう疑問が出てきますよね。
それで教えを終えるのは、断定的な思想の押し付けであり、ある種の制裁を加えるという強迫でもあるのです。
それでは確固たる個人、つまるところ自分の基準を持つことができる、倫理ある子供は生まれませんよね。
もちろん、いじめを止めさせるということのみに焦点を当てるのであれば、その考えは間違っていないと思います。
まぁ薬物については、自分自身で体感しろというのは少し、いや、かなり困難ですよね。
とーふ(代理)カナタ様のコメントは物事の核心をついてる部分も多く考えさせられました。ありがとうございます。
第1話 「いじめ」から逃げるなへの応援コメント
はじめまして。
『興味関心のまま、人をいじめなさい』という言葉にいささか驚きましたが、読み進める上で納得する部分もありました。
私にも息子がおり、幼き日に同様の質問を受けた事があります。
その時は、ありきたりですが「意地悪された事ある? その時はどんな気持ちだった?
意地悪すると相手は、そんな気持ちになるんだよ」と、説明しました。
でもそれは、イジメられたりイジメたりしないと理解出来ないという内容に納得です。
仰る通り、『駄目なものは駄目』という教え方は愚策の極みですね。そもそも考える事を放棄し、都合を押し付けているだけで解決には至らない。
私がこれまでの人生で思った事ですが、一番の悪は『無関心』なのではないかと思っています。
自分の発言に自信を持たずに間違いに気付くことも出来ず、正しさを学ばない姿勢こそ倫理の崩壊に他ならないからです。
今の時代、やれジェンダーや、やれセンシティブやら何か声を出せば叩かれる。
しかし、本質を理解しない者が権利を主張してもそれはただの我が儘のように聞こえます。
勿論、昔みたく男尊女卑などの思想ではない事ご理解くださいね。
何やら纏まらないコメントを残してしまい、申し訳ございません。ただ、言いにくい事を敢えて言ったその勇気と、物事の本質に対するお考えを読ませて頂き感謝します。
お陰で、私も今一度考える事が出来ました。ありがとうございます。
作者からの返信
初めまして
コメントありがとうございます。
イジメられたりイジメたりしなければ、「いじめられた自分」「いじめた自分」というものを考えるのは難しいですよね。そして、付け加えるなら、それをさらに問いかけて深めてほしいです。
「意地悪された事ある? その時はどんな気持ちだった?
意地悪すると相手は、そんな気持ちになるんだよ」
「苦しい気持ちになったけど、それの何がいけないの?」
「人は苦しいことの反対、幸せを目指しているからだよ」
「なぜ、幸せになりたいの? 幸せって何?」
こんな風に、堀り下げて掘り下げて、自分の奥の深いところに進んでいく。非常に困難な行為ですが、これが真理の探究なのです。
その『無関心』によって生み出されたのが、ナチスドイツですよね。まぁ、人間でそれほど強くないので、『無関心』になってしまう人の気持ちも分からなくもないですが。
そうですね。
物事の本質を理解するのって非常に難しいので、それが分らなくとも権利を主張するのは構わないと思います。しかし反対者に対して、やれ差別主義者、それ馬鹿だから話が通じないと言って、レッテル貼りをし、議論を拒否し、話し合いに応じないのは良くないですよね。
いえいえ、申し訳ないことないです。
なかと様のコメントによって、私もさらに考えることができました。本当にありがとうございます。
第1話 「いじめ」から逃げるなへの応援コメント
いじめることが必要なら、いじめられることも必要ですね。いじめる快楽といじめられる苦痛の両極を知って初めて、いじめをしてもいいのか悪いのか考え始めることができる。あとその人が、いじめが善か悪か分かったとしても周囲の環境や条件などの外部要因によって、いじめが悪いと分かりながらいじめをやる/いじめられて然るべきなのにいじめられない(人を100万人殺したやつはいじめられるべきなのに、その人がもしスターリンのような恐ろしい人間ならば誰にもいじめられないだろう)という、一個人の問題ではなくなるパターンもあると思います。こういうとき、人間とは何なのかについて考える機会が生まれると思います。私なら、例えばある人間と別の人間が支配/被支配の関係になっても良いのか、もし良いとするなら人間が畜生やガレキまたは神や物理法則と代替されても構わないのではないか、等の考えを巡らせます。しかしそんなことを考えている間も人間集団の営みは一定の常識を基盤として進み続けるので、なんだか諦めや悲しみの感情がわきます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
いじめられることが必ずしも求められるわけではないと思いますよ。人間って基本的に共感っていう能力があるので、実際に苦痛を体感しなくとも、理解できるのではないでしょうか。
また倫理ある個人がいなければ、倫理ある集団も作れず、倫理なき集団に倫理ある社会は作れないので、一個人の問題ではなくなるパターンもあるが、それを無くすためにも一個人が倫理を持つべきだと私は思う。
最後に、諦めや悲しみの感情を抱くことは共感できます。私も似たような思考になるときがありますから。でも人間って本来は優しい生き物なので、そう悲観することはないのかなと思ったりしています。