第33話

 時計の針は進む。

 交代を予告されて、ベンチサイドでアップすること約5分。

 ぼちぼち体があったまってきたな、というタイミングで永瀬コーチに肩を組まれて再び告げられた。


「そろそろ出番だぞ、兎和。いいか、お前の仕事は点を取ってくること。ただそれだけを考えて、ひたすらゴールを目指せ」


 指示を聞きながら、僕は思った……む、む、ムリムリムリムリムリムリッ!

 心の中で絶叫を上げ、ほぼ白目を剥いていた。たしかにスタメン落ちして酷く嘆いていたけれど、いざ試合に出場するとなると話はまったく別だった。


「短時間なら全力でプレーできるかもしれないんだろ? 美月からそう聞いている。ムリに出場させる必要はないと考えていたが、せっかくの機会だ。リハビリの一環だと思って頑張ってこい」


 永瀬コーチの口から信じられない情報がもたらされた……美月の見立てによれば、トラウマ克服トレーニングの一段階目は仕上げに差し掛かっている。ゆえに、短時間ならば僕は全力を発揮できる可能性が高いそうだ。


 ……本当に? デマでは?

 緊張が限界突してゲロ吐く寸前で、コンディションは最悪。もちろんトラウマもすでに発動しており、体はガチガチを通り越してガクガク震えている。


 え、こんなひどい状態にもかかわらず全力でプレーを?

 で、でき……るわけがない。普通に考えて無理だ。このままピッチに立ったら、その瞬間に天へ召される可能性まである。


 美月の思惑が理解できず、僕は混乱状態に陥っていた……が、流されるままに準備を整え、気づけば選手交代ゾーンに立っていた。


 肝心の交代手続きは、ベンチ入りしているもう一人のコーチが行ってくれたらしい。

 混乱した頭では現状への理解が追いつかず、半分呆けながら指示に従っていた。

 もはや後戻りなど不可能で、僕は体を震わせながら出番を待つ。


「兎和、ロングボールが入ったら動き出してね。俺が絶対に繋ぐから」


 僕の横では、大型FWの大桑くんがやる気をみなぎらせていた。栄成が切った交代カードは、左SHとFWの同タイミング二枚替えだ。


 そして、ついにその時が訪れる――後半、30分過ぎ。

 実堂ディフェンダーのクリアにより、ボールがタッチラインを割る。プレーが途切れた段階で『第4の審判員』がアナログの交代ボードを頭上へ掲げ、主審が交代の指示をだす。


 パラパラと拍手が送られる中、颯太くんと松村くんが一番近いラインからピッチ外にでた。現行ルールに沿った対応である。

 逆に大桑くんが、続いてこの僕――白石兎和が、ハーフウェーライン際からピッチに足を踏み入れる。


「兎和、待っていたぞ!」


 僕は震える足を叱咤しながら、左SHの担当するポジションエリアへ向かう。途中、サムズアップする汗だく玲音が声をかけてくれた。おかげで気持ちが少し……も落ち着かない。

 それほど多くない観客からの声援でさえ、まるで夢の国立競技場に響き渡る大声援のごとく感じられた。おかげで目眩までしてきた。


 ゲームの方は栄成のスローインでリスタート。サッカーを通じて身につけた習性が、こわばる体をどうにか動かしてくれた。

 考えるまでもなく、今の僕はほとんど役立たず……幸いにもオフェンスは右サイドを主体としているので、チームのバランスをとることに専念する。


「はっ、はぁ……はぁ、はっ、はぁ……」


 ろくにプレーもしていないのに息があがる。唇が、口の中が、喉の奥が、やけに乾いてヒリヒリする。心臓も、バックン、バックン、と破裂しそうなほど大きく鼓動している。

 正直、ふらふらとクラゲのようにピッチを漂うので精一杯。おそらく、このまま何もできずにタイムアップを迎えるのだろう。

 

 こんなザマでスタメンを望んでいたなんて……今にして思えば、僕は考えなしの大馬鹿者だ。並びに、永瀬コーチの判断の正しさが証明された。

 公式戦のプレッシャーは、部内の紅白戦とは比較にならぬほど強烈だった。チームメイトの視線も、観客の視線も、自分を取り巻く何もかもが怖くて仕方がない。


 それに、いつの間にかトラウマの症状は相当悪化していたようだ。中学1年生を最後に公式戦へ出場していなかったので、ここまで酷いとは自分も知らなかった……いや、当時も試合中にゲロ吐いて交代したんだった。黒歴史だから、無意識に記憶を封じ込めていたのかもしれない。


 ぐるり、不可視の鎖が体をがんじがらめに縛りあげる。

 お前なんかが試合に出るな、どうせ何もできないくせに、もうサッカーなんてやめちまえ――かつてどこかで聞いた糾弾の声が、朦朧とする意識の中で延々とループする。


 視界が明滅し、すっと周囲の音が遠のいていく……耳に響くのは、喘鳴すら伴う荒い呼吸音、それと太鼓をデタラメに打ち鳴らしたような激しい心音だけ。

 僕は足を止めた。否、動けなくなった。もう無理だと悟った。永瀬コーチに状態を申告してすぐベンチへ戻してもらえ、と心が切実に助けを求めていた。


 けれども、その直後。

 栄成CBがロングキックでボールを前線へ送る。続けて敵陣左サイドの深い位置で、大桑くんが相手ディフェンダーと競り合う。弾かれたボールが再び空中に弧を描く。


 この一連の攻防を、僕はぼんやりと眺めていた――何故ぼんやりかというと、視線のピントが真に合っていたのは、さらに向こうの観戦エリアだったから。

 陽光に触れ、長い黒髪が蒼く燃ゆる。理知的な輝きを青い瞳に宿す神園美月が、そこに凛と佇んでいた。


「あ……」

 

 僕は、呆然とつぶやく。

 美月は、胸の前で両手を構えていたのだ。

 以降の光景は、まるでスローモーションのごとく緩慢に推移した。

 

 大桑くんの竸ったセカンドボールが弾み、転がる。落下地点は10メートルほど先。

 即座にスプリントすればキープできそうな距離だ。しかし心に堆積する無力感が重荷となり、一歩が踏み出せない。すでに相手DMFが行動を開始していたのも、躊躇いを強める言い訳になった。


 一方、視界に映り続ける超絶美少女はニッコリと微笑む。

 稲妻のような直感が走る――まさか、トラウマ克服トレーニングのときのように手を叩くつもりか!?


 頼む、待ってくれ……今それをやられると、自分がどんな反応を示すか予想もつかない。それがたまらなく恐ろしいし、そんなパル◯ンテみたいなマネはやめてほしい。


 しかして、距離的には届くはずがない。けれども僕は、確かに「ぱん」と美月の手のひらが打ち鳴らされる音を聞いたのだ――次の瞬間、反射的にピッチを蹴ってスプリントを開始していた。


 ***

 

 巣穴から引きずり出された子ウサギのような表情の兎和くんと、視線がぶつかる。

 トラウマ克服トレーニングの成果を示すいい機会だと考え、あらかじめ『プレーに迷ったら私を見て』と伝えておいて本当によかった――自身の判断に満足しながら私、神園美月は、いつものように両手を打ち鳴らして見せた。


 その瞬間、兎和くんはまるで撃ち放たれた弾丸のようにピッチを駆けだした。

 彼の生まれ持つ、爆発的なアジリティが顕現する。例の独特なスプリントフォームで滑るように疾走し、先行していた実堂のDMFを追い抜いてルーズボールに触れてしまう。


 しかもその直後、アフター気味に体をぶつけてきた相手を逆に弾き飛ばす。スピードのみならず、パワーでも圧倒したのだ――当然の結果よ!


 兎和くんは、幼い頃からお父様が考案した自主トレーニングを継続してきた。内容を聞くと体幹筋に関係するメニューも多く、日課とするには少し過酷に思えた。けれどその甲斐あって、柔軟かつ頑丈なインナーマッスルの獲得へ至っている。

 

 要するに、そんじょそこらの選手とは積み上げが違うのよ、積み上げが!

 しかもそこに天性のアジリティが加わるのだから、本来の実力さえ発揮できれば無敵だわ!


 私の興奮メーターの針がレッドゾーンに達する。欧州有数のスタジアムで、メガクラブの試合を生観戦したとき以来の出来事だ。

 そして両手をぐっと握り込んで見守る先には、さらなる熱狂が待つ。

 

 続けざまに兎和くんは、軽やかなタッチでボールをコントロールするや、すっと上体を傾けて流れるように前進を開始。

 コースは、左サイド中盤からインサイドへカットインするような形。一歩、二歩とピッチを蹴るたびにぐんと加速していき、瞬時にトップスピードへ到達。驚愕の高速ドリブルで相手ゴール目指して突き進む。


 対して、実堂の選手たちは明らかに動きを鈍らせた。驚異的なスピードにどう対応すべきか迷ったのかもしれない。ゲームの終盤の消耗状態では、集中力も比例して欠けている。

 それでも、流石は全国区の名門サッカー部。優秀なディフェンダー二名がどうにか復帰して侵攻コースへ割り込む。


 兎和くんがペナルティエリア手前に到達するまで数秒とかからない。そのまま否応なしに『1対2』の対決へ突入する。


 迎え撃つ形だけに、相手の方が態勢は有利。ファーストディフェンダーが積極的にプレッシャーをかけようと一歩前に立ち、セカンドディフェンダーはパスコースを塞ぐべくカバーリングポジションを確保している。

 守備の基本である『チャレンジ&カバー』を忠実に遂行しており、配置も横並びと隙は少ない。


 このままでは、ゴールから遠ざかる方向へ誘導されてしまう。それに何より、味方のフォローが遅いのよ! 

 私は大声をだして、栄成の前線メンバーの怠慢を責めようとした。が、ピッチで披露された圧巻のテクニックを見て口を噤む。


 兎和くんは迷いなくドリブルで仕掛け、抜きにかかった。

 ファーストディフェンダーと正対するやスピードを緩め、左方向へボディフェイントを繰り出す。これでファーストディフェンダーの重心を外す。


 続けざまに、左足のインサイドで逆方向へボールを転がしつつスライド。あわせて右足インサイドを使い、軽快なテンポにのって前へボールを送る――ボディフェイントを交えたダブルタッチ!


 ここでセカンドディフェンダーがカバーに動くも、すでに手遅れ。

 間髪入れず、兎和くんは再び爆発的に加速。まさにピッチを切り裂くようなドリブルを駆使し、立ちはだかる二名の実堂ディフェンダーのド真ん中を華麗に突破したのだ。


 背筋がゾクゾクするような興奮を覚え、ぞわりと肌が粟立つ。

 私の直感はやはり正しかった。彼がJリーグでプレーする日は必ずやってくる――そう強く確信した。


 育成年代では中々お目にかかれないようなスーパープレーが飛び出し、会場も大きく沸く。

 一方、主役の兎和くんはペナルティエリア内へ侵入を果たし、相手GKとの『1対1』という最高の局面を迎えていた。にもかかわらず表情は半泣きで、どこか戸惑うような素振りまで見せている。


 ああ、またプレーに迷ってしまったのね。

 個人マネージャーとして親しい関係にある私は、何となく彼の考えが理解できる気がしていた。


 もう一人の白石くんが、後方からパスを要求しつつ走り込んできている。そのせいで、シュート以外の選択肢が頭に浮かんでしまったに違いないわ。得点効率からしても悪い判断ではなさそう。 


 けれど、ダメよ。今日の試合は、兎和くんが夢へ飛躍するための第一歩となるの。

 だから私は、未来への期待をありったけ込めて大声で叫ぶ。 


『――いッけぇぇええええ!!』


 叫んだのは私だけではなかった。須藤くんや三浦さんも、そのご友人たちも、みんな力強く腕を掲げて声を振り絞っていた。

 兎和くんは声援に後押しされ、豪快に右足を振り抜く。力強い鼓動のようなインパクト音が響き渡り、ボールは矢のような速さでゴールネットに突き刺さった。


 一瞬、時間が止まったかのごとく会場が静まり返る。

 一拍おき、歓声が爆発した。


 あのコースとスピードでシュートを打たれては、実堂のGKはノーチャンス。ドリブル突破からフィニッシュまで、息つく暇もないスーパープレーの連続だったわ。

 私も大興奮して、周囲の皆さんと喜びを分かち合う。そこには、間違いなく熱狂が渦巻いていた。


 その後、試合再開から程なくしてタイムアップのホイッスルが響いた。

 こうして栄成サッカー部・Dチームは、前半の劣勢から見事に立て直し、全国区の名門校と『引き分けの勝点1』を分け合う結果を手にした。




――――――――

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