第19話 会いたく無い人ほど、たまたま出会う確率が高い



 *2



 「あ……暑い……暑過ぎる…………」



 オアシスを求め、砂漠を放浪する旅人のような気分だ。


 ていうか、何で暑いと猫背になるのだろう。


 真冬の寒い日も猫背にはなるが──この猫背は体力を出来る限り消耗しない為の、人間の動物的本能なのだろうか。



 そんなことをずっと考えながら、臥龍がりょうの店に暑さでふらふらになって向かう僕。


 臥龍の店はもう視界に入っている。

 後──もうちょっと。


 だが、まあ、やはり臥龍の店に向かう道中でも、すれ違う人は皆マスクを着用していた。


 そんなことよりも、早く臥龍の店に行き、この暑さをなんとかしなくては。


 やっとの思いで臥龍の店の扉の前まで辿り着き、扉を開けた。



 心地よい冷気が、体中の汗だくになった僕の肌をさらさらにしてくれる。



 面接の時に始めて店に入った時も思ったことだが──まさに天国。



 そして、悪夢の一夜を僕にお見舞いしやがった元凶。臥龍リンが飄飄ひょうひょうとした顔で、暢気のんきにガラクタ置き場のような店内にある、レジの前の椅子に、どっかと座っている。


 それに──臥龍までもマスクを着用していた。



 服装は相も変わらず、白い半袖のポロシャツに黒いベストと黒いズボン、それに黒い革靴である。



 確か同じ服を十着以上持っていると言っていたが、本当に同じ服だった。


 どこまでもお洒落しゃれに無頓着な奴である。


 半袖のTシャツにジーパンとスニーカー姿の僕が言えた義理では無いけれども、まあ、こいつの服装よりかは幾分かマシだ。


 それと──丸眼鏡まるめがねも。


 本人は伊達だて眼鏡だと言っていたが、僕はそんなこと興味無い。


 興味があるのは冷房なのだ。




 「いらっしゃ──なんだ九条くじょう君か。いったいどうした?」


 「どうしたじゃなくて。冷房を買うって約束しただろ」



 自分で約束したことぐらい覚えとけよ。


 臥龍リン。

 大学の哲学教授と言う肩書きとは裏腹に、その本性は自分勝手でどこまでも傲慢ごうまん

 あの島での一件の時だって、ずっと自分だけ助かろうとしていた始末である。


 そのクセ、やたら敬語を使えだの言ってくる。


 敬語とは本来、敬意ある人物に対して使う言葉だ。


 確かに臥龍は僕よりも歳上だし、教授と言う肩書きも持っている。


 だがしかし、僕はこいつの人となりを知ってしまったので、最低限の敬語は使うが、その敬語は決して敬意からでは無い。


 あえて言うなら、僕の中の良心だろう。


 敬語を使うと言うよりも、可哀想だから敬語を使ってあげていると言った感じである。




 「ああ、冷房か。もちろん買ってやる。だが今は駄目だ」


 「はあ!? 何でだよ!」


 「何でってきみ、このマスクを見れば分かるだろ?」




 僕の朝からの疑問。


 街中の人がマスクをしている疑問。




 「いや分からないよ。ていうか、何でこんな暑い真夏にマスクなんてしてるんだ?」


 「そんなの言わなくても分かるだろ」


 「……あっ! そうか」


 「そうだよ、君の考えている通りだ」


 「やっぱり。そのマスクをして、エッチなお店に行くつもりだろ!」


 「何でだよ! しかも俺に向かって指を差していうな、失礼だろ!」


 「それじゃあ──エッチなDVDを買うつもりだろ!」


 「だから何でだよ!」


 「分かった! エッチなビデオを──」


 「だからエッチって単語から離れろ! しかも映像的にDVDもビデオも同じだろ。それに今の子供にVHSビデオなんて言っても伝わらないぞ」




 ブルーレイディスクまで言おうとしたのだが、会話をさえぎられてしまった。


 仕方が無いので、ビデオの話題に方向転換。




 「いや、僕が言ってるのはベータの方のビデオだ」


 「何で余計に分かりづらいベータの方なんだ? VHSの方が良いに決まってるだろ。三倍速で六時間も録画出来るんだぞ」


 「でもベータの方がコンパクトだし、画質だってVHSより綺麗じゃないか」




 言ってる自分も途中で思ったが、確かにこの会話は今の子供には伝わらないだろうな。


 まあ僕も、子供では無いがまだ未成年の高校生だし、それにビデオ世代では無い。




 「君は──いったい何歳なんだ?」




 当然の質問をされてしまった。

 確かに、臥龍の世代はビデオが主流だったのだろうが、ビデオ世代では無い僕がここまで語ったら、当然と言えば当然の質問である。


 そして、この知識は、たまたま動画サイトで見た情報だ。


 実際にビデオなんて手に持って見たことなんて無い。




 「十六歳だけど──あっ、そろそろ十七歳になります」


 「全然興味無いな」




 そっぽを向く臥龍。


 もしかしたら、誕生日のお祝いに何かプレゼントでもしてくれるのではと思い、言ったのだが、甘かったようだ。


 なら、もう少し臥龍で遊んでみるか。(当初のマスクの疑問を完全に忘れてる僕)




 「それで──そのマスクを付けて、いったいどんな、エッチなゴハンを食べに行くんだ?」


 「だからエッチって単語に執着し過ぎだろ! その会話ならさっき終着したじゃないか。しかも何だエッチなゴハンって、君はいったいどんなゴハンを想像しているんだ?」


 「まあ、その話しはとりあえず置いといて──」


 「いや置いとくなよ。ゴハンが腐るだろ」


 「え? それじゃあ臥龍さんが想像してるエッチなゴハンは、置いとくとすぐに腐る、生系なまけいってこと?」


 「生系って言うな! せめて生物なまもの系と言え。生系って言うと凄く生々しく聞こえるぞ」


 「それで、そのマスクを付けてどんなエッチな──」


 「だから何でマスクをしてる人間が全員エッチとイコールになるんだ!」


 「いやいや違いますよ。臥龍さん限定です」




 そう、僕は断じて全国──いや、世界中のマスクを着用している人が、エッチなことを考えたりしているだなんて、思ってはいない。


 臥龍限定なのだ。


 なぜなら、こいつは寂しい細胞の童貞なのだから。


 それに哲学者だとか言って、頭の中ではお下劣げれつなことしか考えていないからだ。




 「何で俺だけ限定なんだよ!」


 「だって、常にエッチな思考を絶やさない、お下劣な劣学者だから」


 「劣学者じゃない哲学者だ! しかも偉大な哲学者!」


 「うわっ! 自分で偉大とか言っちゃってる所からして、もう劣学者だろ」


 「うるさい! 冷房買ってやらないぞ!」


 「それ職権乱用だろ! パワハラで訴えてやる!」


 「君が俺を馬鹿にするからいけないんだ。それに俺はそこら中にいる量産型みたいな一般人ではない。選ばれし人間、つまりオートクチュールの超特注なのだ!」


 「お前はどこのラッパーだよ……」


 「ちなみに、英訳するとスーパーオリジナルだ!」


 「だからどこのラッパーだよって言ってんの!」




 ていうか、自分以外の人間を量産型って……、世界中の人に謝れ!


 その前に──こいつは哲学者を名乗る資格なんて無い。


 何が選ばれし人間だ。


 傲慢にもほどがあるだろ──しかもクチュールって確か、女性名詞って意味じゃなかったっけ?

 



 「ところで」と、臥龍が不思議そうな顔で僕にいてきた。



 「何で君はマスクをしていないんだ?」



 僕の朝からの疑問を、臥龍が投げかけてきた。


 やっと本題に戻れる。


 と言うか──僕はその本題を忘れていた。




 「何でって言われても、その前に、皆マスクを着用してる意味が分からないんだけど。夏風邪?」


 「皆が一斉に夏風邪になるわけ無いだろ」



 そうだよな、僕もそう思う。



 「まさか君はニュースを見てないのか?」


 「ニュース? ニュースなんて携帯電話でたまに見るぐらいだから……」



 僕が言うと、臥龍は自分の携帯電話を取り出して、そのニュースとやらの説明を始めた。

 あの檻の電撃で、僕の携帯電話だけでは無く、臥龍の携帯電話も壊れたのだと思ったがどうして持っているのだろう。


 まあ、こいつは無駄にお金を持っているから、東京に帰って来てすぐに新しい携帯電話を買ったのかもしれない。


 そして、例によって「これだからアベレージな学生は」と言う、余計な言葉を付け足して臥龍は言う。




 「ほら。これが今、世界中で話題になっているパンデミックウイルスだ。インフルエンザとは違って、このウイルスの恐ろしい所は、感染すると体が赤紫色にどんどん変色して、約一日ほどで死んでしまうと言う点にある。急に世界中で同じ症状の感染者が爆発的に出て、混乱状態になっているんだ。まだワクチンも出来ていないし、出来る予防と言えばマスクをするぐらいなんだよ。だから皆マスクを着用しているんだ。まさに原因不明の謎の奇病だな」


 「へえ。だから皆マスクを──所で、日本でも、その病気になった人っているんですか?」


 「いや。日本にはまだ来ていないが、これだけ世界中で大流行しているウイルスだ。日本に上陸するのも時間の問題だろ」


 「そっか……、その、パンで密封みっぷうウイルスだっけ? 何だかかび臭い名前のウイルスだけれど、感染すると体内が黴だらけになりそうだな……」


 「パンで密封では無いパンデミックだ! そんな黴を食べて食中毒になるような、直衆俗ちょくしゅうぞく的なウイルスとはわけが違うんだよ」




 うーむ……、確かに食中毒なら薬を飲めば治るが、原因不明で、しかも感染したら約一日で死ぬなんて考えると……やっぱり恐いな。



 しかし──臥龍が今言った『ちょくしゅうぞく』的とは、いったいどう言う意味なのだろう。


 聞いたことが無い言葉だ。


 臥龍の店は、骨董品店だが、古い本や辞書なども少しある。


 僕は、その言葉の意味する所が分からなかったので、辞書で調べてみたのだが……。


 『ちょくしゅうぞく』なんて言葉は辞書には載って無かった。


 つまり──臥龍が自分勝手に造った言葉だったのだ。




 「ああ! やっぱりだ!」


 「どうしたんだよ九条君。大きな声なんて出して」


 「どうしたじゃなくて、この辞書を見てみろ! 『ちょくしゅうぞく』なんて言葉は載って無いぞ」


 「造ったんだよ、俺は常に思考を絶やさないからな。それに、食中毒と直衆俗でいんを踏んでるから面白いじゃないか。そして! 俺の歩いた道の後に言葉は生まれていくんだ!」


 「それ……格好つけて言ってるだけで、自分の都合の良いように言葉造って遊んでるだけだろ」


 「ふっ。言葉が無いなら──言葉を造ればいいじゃないか! つまり、そう言うことだ」


 「どこの革命でギロチン処刑された王妃おうひだよ……お前は」


 「ちなみにだが、君のその知識には誤りがあるぞ。その言葉は『彼女』の言では無い。『彼女』のことを妬み、嫉妬や羨望せんぼうの対象にした者達が流したデマ発言だ。まあ、目立ってしまう有名人は常に誹謗中傷の嵐の中に立たされていると言うわけだよ。この俺みたいになっ!」




 少しは勉強になったが──最後の部分はあきらかに余計だろ。


 「あっ、そうそう」と、臥龍が言葉をいで自分のズボンから、もう一台、携帯電話を取り出した。




 「その携帯電話だが、九条君にあげよう。あの電撃で壊れたんだろ? 俺のも壊れたからな」



 なぬ!?

 今──僕にくれると言ったのか?


 いったいどう言う風の吹き回しなのだろう。




 「ん? なんで黙ってるんだ? 要らないのか?」


 「いやいやいや! 要ります要ります!」




 臥龍は「分かった」と言って、携帯電話を僕に手渡した。


 思わぬ収穫である。


 はっきり言ってラッキーだ、これで携帯電話の問題は片付いたぞ。


 しかし──どうして臥龍は急に携帯電話を僕にくれたのだろう。こいつは自分のことしか考えない奴なのに、僕に配慮して来るなんて。


 何か……裏でもあるのだろうか。




 「あの、ところで、何で急に僕に携帯電話をプレゼントしてくれたんですか?」


 「んーん……、まあ……、あれだ。島では大変だったし……俺の気持ちだ」




 妙に言葉を濁す言い方だな。


 まっ、いっか。


 もしもここで、追求したら、きっと臥龍のことだ、「やっぱり返せ」とか言って来そうだし、ここは大人しく受け取っておこう。



 おっといけない、この機に乗じて冷房も買わせないと。


 さっきは「今は駄目だ」と言っていたが、僕には秘策があるのだ。


 秘策と言うと大袈裟だが──つまり、臥龍は外に出ることに対して拒否しているわけなのだから、僕が冷房代を臥龍から受け取り、すぐに家電量販店に行けばいいだけの話しなのである。




 「あの臥龍さん。さっきの冷房の件ですが、僕が臥龍さんから冷房代を受け取って、僕が一人で買いに行きますので、外に出てウイルスに感染する恐れは無いかと──」


 「駄目だ!」


 「だから何でだよ! 外に出たく無いから、さっき今は駄目だって言ったんだろ!?」


 「君は何も分かっていないな。もし、今ここで君に冷房代を渡して、君がその冷房代で他の余計なゲームやら漫画やらを買わないように、俺も一緒に同行して監視しなくてはいけないんだ。だからウイルスのワクチンが完成するまで待て」




 冷房の為にここまで頑張って来たのに、何でゲームや漫画を僕が買うんだよ……。


 ──ん?


 あれ、ちょっと待て……、今こいつ──ウイルスのワクチンが完成するまでって言ったのか?




 「ちょっと訊きたいんだが──ウイルスのワクチンが完成したら冷房を買うってことか?」


 「そうだな」


 「じゃあ、もし、この夏休み中の間にワクチンが完成されなかったら?」


 「買いに行けないな」


 「ふざけんじゃねえ! それじゃあ意味が無いだろ!」


 「意味ならあるぞ。君は冷房が欲しいんだろ? だったら秋に買おうが、冬に買おうが問題無いじゃないか」


 「秋や冬に冷房を使う奴なんていねえよ! 冷房は真夏の暑い日に使うものだろ!」


 「だったら俺の店で働けばいいじゃないか。冷房だって効いてるし」


 「だから、それじゃあ意味が無いんだよ! 冷房の効いた自分の部屋でのんびりしたいんだ僕は!」


 「何を言っているんだ君は。冷房が効いてるなら、俺の店でも君の部屋でも同じようなもんだろ」


 「全然ちげえよ! ワサビの入ってる寿司と、ワサビの入って無い寿司ぐらいちげえよ!」


 「ところで君は、歌は好きか?」


 「え? まあ、好きか嫌いかで言えば、好きな方ではあるけれど」


 「そうか。寿司も歌も、サビ抜きじゃあ味気ないと思わないか?」


 「確かに味気ないな──って話し誤摩化すな!」




 臥龍の奴、ふざけたこと言いやがって。


 危うく命を落とす寸前だったんだぞ。


 こんな下らない会話で引き下がれるか。何としても冷房を手に入れる為に説得するんだ。




 「よし! じゃあ、パソコンの通販ショップで買うならありだろ。それなら一緒に買うのと同じ──」


 「駄目だ!」


 「だから何で駄目なんだよ!」


 「俺がパソコンで冷房を買う時に、君は俺のクレジットカードの情報を盗み見て、悪用する恐れがあるからな」


 「そんなことしたら普通に犯罪だろ! 僕はそんなことしねえよ!」




 こいつはいったい、僕のことをどんな人間だと思っているんだ。


 ていうか、他人を全く信用しない奴だな──いや、違うか。


 こいつは出会ったばかりの人間から、沖縄に一緒に来て欲しいと言われて、何も考えずに二つ返事で承諾したのだから。



 その出会ったばかりの人間に僕と臥龍は殺されそうになったのだ。


 神子蛇灰玄みこだかいげん


 見た目は綺麗で爆乳の女性だが──不死身の肉体を持つ人間。


 と言うか、人間なのだろうか。


 不死身の人間なんて聞いたことが無い、それに、あの人間離れした身体能力。



 そう、まさに人間離れ。


 人間とは離れている──人間の姿をした何か。



 そして臥龍は、他人を信用しないが、爆乳は信用している。

 こいつの、おっぱい信仰の所為せいで、僕は殺される寸前だったのだ。


 だからもう、是が非でも冷房を買わせないと僕の気がおさまらない。




 「うーん。じゃあ僕が居ない時にパソコンで──」


 「だから駄目だ!」


 「どうして駄目なんだよ! 僕が居なかったら誰も盗み見る奴なんていないだろ!」


 「俺はパソコンから情報漏洩じょうほうろうえいするのが嫌だから、クレジットカードの登録はしていない。俺は常に思考を絶やさないから、自分の体も自分のパソコンもウイルスから守っていると言うわけだ」


 「だったら最初から、パソコンにクレジットカードの登録はしてないって言えよ……」




 紛らわしい言い方しやがって──しかも僕を、大事な情報を盗み見る犯罪者みたいに言いやがるし。


 どこまでも腹の立つ奴だ。


 しかし……これはまいったぞ。


 どうやって冷房を買わせれば──




 「ああ。そうだ九条君。一つ訊こうと思っていたんだ」


 「……何だよ」


 「君の家には、扇風機はあるか?」


 「扇風機ならあるけれど」


 「じゃあ暫く扇風機で我慢しろ」


 「扇風機で我慢出来ないから冷房が必要なんだよ!」


 「扇風機も冷房も似たようなもんだろ」


 「全然似てねえよ! ジャッキーチェンとジャッキーチュンぐらい似てねえよ!」


 「いや似てるだろ。若き日のジャッキーチュンは、ジャッキーチェンの顔真似をして、リトルジャッキーと言われてたぐらいだから、全然似てるぞ」


 「そんな大昔の話しのネタを言われても、誰も分からねえよ!」




 僕も知らないネタだった。


 と言うか、このネタが分かる人っているのか?




 「ちなみに、君はジャッキーチェンの映画は好きか?」


 「まあ。好きだけど」


 「ふっ、やはりな。ふふふふふ」


 「な……なんだよ。何が言いたいんだ?」


 「君は映画を見た後で、自分もジャッキーチェンみたいに強くなったと錯覚してしまうタイプだろ?」


 「まあ……確かに、少し強くなった気分になって、壁を軽く殴ったら手を怪我したことはあるけれども──っておい! だから話し誤摩化すな!」


 「君は本当に下らないアベレージな学生だな」


 「寂しい細胞のお前には言われたくねえよ! この劣学者が!」


 「劣学者じゃない哲学者だ! それに寂しくも無い!」


 「うるせえ! さっさと冷房代をよこせ!」


 「だからワクチンが完成したら買ってやるって言ってるだろ!」


 「それじゃあ遅いんだよ!」




 くそ……!


 このままではらちが明かないぞ。


 しかし、島の時と言い、臥龍は相当ジャッキーチェンが好きみたいだな。


 僕が映画を見た後に、自分が強くなったと錯覚する所まで見抜いて来るとは。


 ──ん!?


 もしかして、臥龍も僕と同じ錯覚で、映画を見た後に強くなったと勘違いして、壁か何かを殴って怪我をした過去があるのでは……。



 つーか、そんなことよりも冷房だ!


 どうやったら、この馬鹿を説得出来るのだろうか。


 うーむ…………、駄目だ、すぐには思いつかないぞ。


 ここは一旦、家に帰って冷房を買わせる作戦を考えるしか無いな。


 絶対に断れない作戦を考えるんだ。


 仕方が無い、今日の所は退散して明日また再戦だ──っと、その前に。


 ウイルスがどうのとか言ってたから、マスクを一枚、貰ってから帰るか。


 こんなマスクをした所で、ウイルス感染の予防になるなんて思えないが、無いよりマシだ。




 「それじゃあ冷房の件は保留にしとくから、そのマスクを一枚──」


 「駄目だ!」


 「何でマスクも駄目なんだよ!」


 「君は、オイルショックを知っているか?」


 「オイルショックって──街中でトイレットペーパーが無くなったって言う、あのオイルショックか?」




 僕が知っているオイルショックの知識はそれだけだ。


 そもそも何でオイルショックと呼ばれているのか──その前に、オイルショックとは何なのかすら知らない。


 正直、リーマンショックと言う言葉を始めて聞いた時も、リーマンをサラリーマンの略だと思ったぐらいだし……。




 「そうだよ。今まさに、君が言った事と似たような現象が街中で起こっているんだ」


 「似たようなって──トイレットペーパーが街中から無くなったのか?」


 「トイレットペーパーじゃなくてマスクだ! 今似たようなって言ったばかりだろ。つまり街中でマスクが品切れ状態なんだよ。このマスクも二十軒以上、街中のスーパーや薬局をかけずり回って、やっと手に入れたんだ! 六十枚入りマスクを六箱。合計で三百六十枚だ。これで約一年は安泰と言うわけだな」


 「へえ、そんなにかけずり回ったんだ。それだけあるなら、一枚ぐらい僕がマスクを貰っても問題──」


 「だから駄目なものは駄目だ!」


 「何でだよ! 三百六十枚もあるんだから一枚ぐらいくれたっていいだろ!」


 「これは俺のマスクだ! 一枚たりとも君には上げないからな!」


 「一枚ぐらい減った所で変わらないだろ! また自分だけ助かればいいと思っているのか!?」


 「何と言おうが駄目だ! 欲しかったら自分で買って来い。まあ、今さら買いに行っても、どこにも売って無いと思うがな」


 「それじゃあ、僕はどうなるんだよ!」


 「さあな、自分の健康管理は自分でしろ」


 「ふざけんな! いいから一枚僕によこせ!」


 「だから駄目なものは駄目だと言っているだろ! これは全て俺の物だ!」


 「アンタ達……」


 「『これは全て俺の物だ』じゃない! 一枚ぐらいくれたっていいだろ! ドケチ過ぎるぞ、この節約者が!」


 「節約者じゃない哲学者だ! っておい! それもう学者でも何でも無いじゃないか、ただの倹約家けんやくかだろ!」


 「ちょっとアンタ達……」


 「うるさい! 何が倹約家だ! お前は人をイライラさせる険悪家けんあくかじゃないか! 哲学者ならちゃんと倫理観を持ちやがれ! いつも自分のことしか考えて無いドケチ野郎が! お前は今日から、しみったれた臥龍吝がりょうりんに改名しろ!」


 「誰がしみったれだ! 俺は偉大な哲学者なんだぞ! そんなこと言ってマスクを持ってる俺に嫉妬してるな!?」


 「ちょっとアンタ達! いい加減にしなさい!」




 店の扉の方から大きな声がした。


 女性の声である。


 いや……そんなことよりも、扉の前に立っている女性を見て、僕は言葉を失い背筋が凍りついた。



 なぜなら──その女性は神子蛇灰玄だったからだ。

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