第8話 天気予報はあくまで予報



 ⁂8



 太陽の輝きに躍る海の波は水晶のように透明で、かろやかに肌をなでる潮風は、真夏と言えど、さわやかにさえ思えるほどクルーザーを包み込んでいた。

 時刻は昼と夕方の間。



 九条鏡佑くじょうきょうすけ臥龍がりょうリン、そして神子蛇灰玄みこだかいげんと全身をレインコートで纏った操縦士を乗せたクルーザーは、沖縄の海の上を、日の光に照らされて、真っ白な雪化粧をしたかのようなクルーザーの中で優雅に波にまかせ進んでいる。

 気の向くままに海面を見つめる彼等と入道雲。


 まるで永遠に続く残夢のような――――

   この世界に自分たちしか居ないような――――

     そんな夢見心地の時間が穏やかに流れるような――――



 ゆるやかに酔いしれた陽光の中に彼等は居た。

 ただ一人の少年を除いて――



 デッキでは、臥龍リンと神子蛇灰玄が雑談に花を咲かせていたが、九条鏡佑だけがキャビンの中で一人、濁った水たまりのような色をした不安感を抱いていた。


 その不安は、沖縄の街での一件、レインコートの操縦士、なにより港から出てからの時間がすでに、四時間以上も経っていることにたいして――



 十分過ぎるほどの不安はやがて、無理矢理に流れを止めた滝が限界をむかえ、せきを切って決壊したかのように。九条鏡佑が押し殺した感情の壁をめきめきと音をたて、やがては錆び付き朽ちて堕ちていくビルの如く、崩れていった。   


 霧で前も見えない樹海に、ただ一人だけ置き去りにされたような不安を感じながら。九条鏡佑はキャビンから出て、臥龍リンがいるデッキへと歩みを進めた。

 デッキでは臥龍リンと神子蛇灰玄が談笑していたが、何事も無かったかのように、二人の会話の糸を断ち切り九条鏡佑が割って入る。


 「あの、ちょっと聞きたいんですけど。もう海に出てから四時間以上も経っていますけど、いつになったら港に戻るんですか?」


 九条鏡佑の質問に、臥龍リンは不思議そうな顔で自分の時計を見た――

 神子蛇灰玄との話しに夢中になるあまり、臥龍リンは刻まれる針の声に意識を傾けることを忘れていたのだ。

 一瞬――――

 臥龍リンが時計を見ている時に、神子蛇灰玄の表情に陰りが映るのを九条鏡佑は見た。


 「うおーう! もうこんな時間か。灰玄さん、そろそろ戻りますか」


 「え、ええ。そうですね。話しに夢中になって時間を忘れてしまいました」


 臥龍リンの言葉に返答する神子蛇灰玄の顔は笑顔だったが、今まで見せていた快活な笑顔では無かった。

 押しつぶされそうな不安に、たまらず九条鏡佑は付け足すように会話に参加した。


 「それじゃあ、僕が今すぐ港に戻ってもらうように、操縦士の人に言って来ます」


 心臓に杭を打たれたような拭いきれない違和感の中、小走りで操縦士へと九条鏡佑は向かう。


 「すいません。今すぐ港まで引き返して下さい」


 「………………」


 沈黙――――

   ただ沈黙だけがそこにはあった────────



 九条鏡佑の違和感は、いつしか不信感に変わり。いつしか疑念と怒りに変わり。胸の中でざわめくそれは、炎のように強く燃え盛った。


 「あの! 聞いてますか!? 早く港に戻って下さい!」


 不安──

   不信── 

     疑念──

       焦燥──



 九条鏡佑は自分でも理解しがたい、幾数の押し寄せる感情に声を荒げた。

 その時である――――ドンッ!

 レインコートを着た操縦士はクルーザーの甲板を蹴り、高らかに宙を舞うように海の中に飛び込んだ。

 まるで、我が家の扉を開けるように、自然で一片の躊躇ちゅうちょも無く、海の中に飛び込んだのである。


 「えええええええええええええええええええええええええええ!?」


 我が目を疑う光景に、九条鏡佑が絶叫すると、その声に呼応するかのように、海が苦しみ悶えるかの如く――

 暴れ狂う瀕死の生き物のように――――

  どろどろしく、にがにがしく、絶叫したのである。


 今まで水晶の如く潺々せんせんきらめいていた海面の底から――

 表現しようのない……なにかの顫々せんせんと叫び狂う音がとどろき震える。


 流れる風を歪ませるほどの震えた音は、震動と轟音から混ざりうな轟震ごうしんだった。

 九条鏡佑は慌てふためき、震える膝を支えながらデッキに走り、臥龍リンと神子蛇灰玄に、今起こったことを伝えた。


 「ふ、ふふ二人とも! なんか良くわからないけれど! そそ操縦士の人が海に飛び込んだ!」


 混濁こんだくする九条鏡佑の表情は蒼白あおじろくなり、ひくひくと唇が痙攣けいれんしている。


 「なに!? 九条君それは本当か!?」


 その、血の気の引いた九条鏡佑の顔を見た臥龍リンも、先程までの穏やかだった表情が一片し、何かしらの異変を感じ取ったかのように操縦席へと、九条鏡佑と一緒に走って行く――


 その時である――――――――


 今まで快晴だった空は真っ暗に染めあげられた――


  まるで夜と夜が溶けあい深淵の中で不穏な色を漂わせ――


   天は大地の底に眠る黒い海をすくいあげ空から降り落とし――


    大粒の黒き真珠のような雫が辺り一面に広がり狂いばらまかれ――


     海面は深き終わりを呼び入れる沼の如く暴れ全てを呑みこむ渦となった――


 クルーザーは、木枯らしの中で舞う落ち葉のように、右へ左へもてあそばれ、いつ転覆してもおかしくはない現実を九条鏡佑と臥龍リンにつきつけた。


 波はまるで意思を持ったかのように、クルーザーを離さずに絡み掴む。

 海から陸に――

 内界から外界に――

 抜け出ることを拒もうとし――

 底の底にある、冷たい昏冥こんめいの世界に引きずり込もうとしている――


 目の前も見えないほどの暗闇をいかずちはしり、瞳を食い破られそうなほどの、ほとばしる稲光いなびかりと鼓膜を打ち破らんほどの雷鳴が金切り声を張り上げて、暗上あんじょうの天と海は叫びいていた。


 暗上の天と海は叫び嘆いていた────────

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