第4話 涼しい場所にいても、となりに暑苦しい奴がいると暑い
*4
だが……まあ……やはり分かっていた。
知り尽くしている道を、いくら自転車で走っても何も晴れない。
つまり、そこには探検感覚が無いのだから、全くに面白くないのは当然だろう。
自転車で遠回りをして、無駄に体力を消耗してしまったので。また、かきたくもない汗をかいてしまった。
もう限界だ、この不愉快な汗と早く決別するために、早く家に帰り冷水のシャワーを浴びて、少しでも暑さを和らげなければ。
そして、踵を返して家路に向かう途中で――――僕は自転車に急ブレーキをかけた。
何かを落としたのではない。
ましてや、誰かにぶつかった訳でもない。
大きな、アルバイト募集の紙を見つけたからだ。いや、紙が貼られていたと言うべきだろう。
アルバイト募集の紙なんて、駅の周辺にでも行けば、そこかしこに貼られてはいるのだけれども。しかし、ここは駅から離れた、僕の家の近くの、閑静な住宅街だ。
そして、募集の紙が貼られているのは民家だ。それも、閑静な住宅街の中で、一軒だけ妙に目立つ西洋風のレンガ造りの民家だ。
僕はいつも家の近くにある、この一軒だけ奇妙で異様な、西洋風のレンガ造りの民家を少し気にはなってはいたのだが、いつも自転車で通り過ぎるだけだった。
しかし、この奇妙で異様なレンガ造りの民家に住んでいる者が、いったい何故に、アルバイトの募集をしているのか気になったので、僕は自転車に急ブレーキをかけたのだった。
その募集の紙は、手書きで驚く程にとても達筆な文字だった。そして、ペンでは無く、黒墨で
文字を見る限り、まさに書道の達人かと思うぐらいだ。いや、もう達人としか言えないだろう。それ程までに、達筆な文字だ。
文字は人の心を表すと言うが。この
なぜなら、律儀にも募集の紙に書いてある自分の名前に、フリガナまでふっているからだ。
だが、問題の募集内容はとてもシンプル……と言うかシンプル過ぎるぞ……!
一体全体なんの仕事内容の募集なのか分からない……。
書いてある内容と言えば。
【アルバイト募集】
【年齢不問】
【学歴不問】
【性別不問】
【履歴書不要】
【臥龍骨董品店】
【店長臥龍リン】
だった。
――ん?
骨董品店?
ここは民家ではなく、店だったのか。どうして一軒だけ奇妙な建物があるのだろうかと言う、僕の中での小さな疑問が解決した。
まさか骨董品店だったとは。
しかし、店には看板らしき物は一切ない。ただの奇妙で異様な民家にしか見えない。どうりで今までずっと、店では無く民家だと思い続けてきた訳だ。
だが、僕は民家では無く、骨董品店だと分かったこと以上に、重要な言葉を見つけてしまった。
――――履歴書不要……。
履歴書不要……だと?
この履歴書不要の、言葉に溢れる魔力にこめられた引力に、僕は吸い寄せられた。全ての重圧。全ての呪縛から、解き放たれる履歴書不要と言う言葉に吸い寄せられた。
履歴書とは、一切の失敗が許されない、一枚の紙と言う名の残酷な小宇宙なのだ。漢字一文字の失敗さえ許されない、残酷極まりない小宇宙なのだ。
そして、面接に落ちれば。今までの苦労と人生の結晶である、個人情報の塊と言う名の履歴書が全て、無惨にもゴミと化す、悪意に満ちた小宇宙なのだ。
連続十二回とは言っても、僕は十二枚しか履歴書を書いた訳ではないのだ。
一文字でも間違えれば、小宇宙をゴミ箱と言う名の、大宇宙に捨てなければいけないのだ。その大宇宙に、僕は四十枚以上も小宇宙なる、スペースデブリを捨てて来たのだ。
一回も間違えられない、強大な重圧に押し潰されて、四十枚以上も大宇宙に小宇宙を葬って来たのだ。
履歴書を書いている最中に、一度でも文字を間違えてしまうと、同じ過ちを何度も繰り返してしまうのではないのかと言う、強大な重圧に耐えきれず。次も文字を間違えてしまうのではないのかと思ってしまい、文字を書く手が震えてしまう、呪われた小宇宙なのだ。
そして、間違えれば一瞬でスペースデブリとなるのだ。
つまり、履歴書とは。一度でも重圧に呑み込まれたら、決して抜け出せない不のスパイラルと言う名の、見えない悪魔に翻弄される鬼畜な小宇宙なのだ。
だから僕にとって、履歴書不要と言う言葉の響きは、まさに大天使の翼の中に、優しく包み込まれるような感覚になる響きなのだ。
少し……興奮してしまったが。つまり、そう言うことなのだ。
思えば連続で十二回と言うことは、次は十三回目になる。
十三…………実に、縁起の悪い数字だ。
まあ、僕はそんな、オカルト的なジンクスなんて、信じてはいないのだけれども。でも、厄払い。と言う、言葉があるぐらいだ。本当に僕は呪われているのかもしれない。
そう考えると、次の十三回目の面接も、また落とされるのではないのかと不安になってきた。せっかくの、僕が書いた小宇宙が、十三回目の縁起の悪い数字によって、またスペースデブリになるなんて考えたくも無いことだ。
しかし、履歴書不要と言うことは、今すぐに履歴書無しに面接が出来ると言うことだ。ちょうど今は面接帰りで、学生服も着ている。僕は十三と言う縁起の悪い数字から、僕の小宇宙を守り、次なる十四回目の決戦に備えるため、この十三と言う数字を消さなくていけない。
つまり、ここで十三の数字を消す、厄払いをしなくてはいけないのだ。
履歴書不要なのだから、これ程までに気が楽なことはない。確実に落とされる、と言えば言い過ぎだが。確実に受かるとも言えない面接に、これ以上スペースデブリを増やしたくはないのだ。
そう、だからこれは、簡単な厄払いなのだ。
深く考える必要は無い。家のドアの鍵を、ちゃんと閉めたかどうか、軽い気持ちで再度確認する為に、もう一度家に引き返すようなものだ。
実に簡単なことなのだ……。
――――しかし……どうして、店に入って面接をするだけなのに、ここまで、自分自身の心に言い聞かせなければいけないのか……自分でもおかしく思えて来たが。きっと不運が続き、思考が軽いパニック状態になっているのであろう。
少し興奮気味の感情を抑えて。気持ちを落ち着かせようと思い、軽く深呼吸をしてから。僕は、ちょっとした厄払いのつもりで面接をしようと思い、店の扉を開いた。
開いた……。
開いた…………。
開いた……瞬間……!
僕の少しだけ興奮気味だった感情は、天井知らずに突き抜けた!
いや、突き上がった。このまま天国まで上がってしまいそうなまでに……!
実際にこれは……いや……ここ……こそが……天国だ!
まさに天国だ。
まさに楽園だ。
まさに極楽だ。
まさに桃源郷だ。
まさに理想郷だ。
びっくりするほどシャングリラ!
なぜ、ここまで僕が興奮して、感情が突き抜けてしまったのかを説明するなら。
キンキンに……!
カッキンカッキンに……!
ガッツンガッツンに……!
店の中が冷えていたからだっ!
まるで……殺人的だ……。
いや……
僕の体中を兵糧攻めで、ジワリジワリと追い詰めるような。この不快で
設定温度は、いったい何度になっているのだろう。涼しいなんて言葉の水準を、遥かに超越した
この冷房は、僕が今まで体験したどの冷房よりも。最も冷房に付けられた、冷房と言う響きの単語の中の、冷房に込められた文字に熱い気持ちが肌で感じて取ることが出来る。まさに冷房の中の冷房と言っても、過言ではない冷房だ。
冷房なのに、熱い気持ちと言うのは、何だかおかしな気もするが。
なんだか、矛盾しているような気もするが。
いや、矛盾していると思うのだが。
しかし、今はそんな考えなど、つまらぬ小事に過ぎぬのだ。些末で、どうでもよいことなのだ。
とにかく……。
とにかく最高の……!
とにかく最高の冷房だっ!
環境問題が大声で騒がれ、省エネが美徳化された節電至上主義の中で……。何と言う反逆的行為だ、何と言う
素晴らしいとしか言えないぞ!
こんな事が許されてもいいのだろうか?
いや、許されるべきだ。
そう、許されて当然なのだ。
なぜなら、僕は汗をかくのが大嫌いだからだ!
離れたくない、離したくない、絶対に離さない。
この絶対冷房空間の拠点だけは、何としてでも死守しなくてはいけない。この狂殺的で暴虐的な、真夏の太陽の前に散っていった戦友のためにもだ。
まあ、別に僕は、誰とも戦ってはいないのだけれど。それに、戦友だっていないのだけれど。その前に、軽い友達すらいないのだけれど。
と言うか……我ながら……自分自身に引いてしまう程に、興奮してしまった。
実に……ドン引きだ。
少し落ち着こう。
だが……しかしだ……興奮せずにはいられなかった。まさか、これほど強烈な衝撃を、冷房から感じたことが人生で一度も無かったのだから。
つまり、何としてでも、僕は絶対にこの店の面接に、受からなければならないのだ。なぜなら、この冷房空間は、僕の為に用意されたと言っても、過言ではないのだからだ。
僕はこの店の面接に受かってみせるぞ。
いや、絶対に受かってみせる!
もしも……。
もしも……!
もしも…………!
もしも、面接に落とされたら。夏休み中ずっと客のふりをして、この店に朝から晩まで居座り続けてやる。
冷房への、飽くなき熱い執念と揺るぎない決意と決心を固め、肌身に冷気が心地よく染み渡る、冷房聖地なる店内に足を踏み入れ、僕の目の前に広がった景色は真っ白い雪国――
――では無くて。
頭の中が真っ白くなるほどに、ひどく乱雑された空間が――そこにはあった。
と言うか、ただの大きな汚い物置小屋である。
これを店と呼んでいいのか僕には分からないが、率直な感想をのべよう。
ゴミ屋敷である。
店内にある骨董品――と、呼んでいいのかも分からないが。あるのは中世の鉄製の鎧や、
しまいには、どこかのデパートの屋上や遊園地などで見かける、大きな大人が入れそうな猫の着ぐるみまで置いてある始末……。
それらが、何の統一感も無く、何のまとまりも無く、何の整理整頓もされて無く、所狭しと押し込まれている。
僕は間違えて、骨董品店では無くロールプレイングゲームに登場する、武器屋の商人の店に入ってしまったのだろうか……。
というか少しは綺麗に展示しておけよ。仮にもお店だろうに――
うーん……。文字は性格を表すと考えていたが、外に張り出されている手書きの文字は、本当にこの店の店長が書いたのであろうか。
そんな疑問の念を隠しきれない僕が、この店の中に居た。
そして、店長らしき女性はどこにも居なく、一人だけやたら背丈の高い、真夏なのに白い半袖のポロシャツの上に、真っ黒なベストを着ているおっさんが、この店の中に居た。
まあ、でも十五分ほどで店長は来るだろうから、待つことにしよう。
時間も、そろそろお昼の十二時になろうとしている。きっと、どこかで昼食でもとっているに違いない。
ちなみに、僕は朝から何も食べて無いので空腹だ……早く面接を終わらせて帰りたい。
――――十五分。
――――――――三十分。
――――――――――――四十五分……………………一時間が経った……。
遅い! いくら何でも遅過ぎる!
ここはスペインでは無く日本だぞ。
どれだけ昼食に時間をかけるつもりなのだ。それに、僕が店内に入る前から居るおっさんも、まだ帰ろうとしない。多分、店長を待っているのだろう。
一時間以上も、店を開けっ放しにして外出をするなんて、店の物を盗んで下さいと言っているようなものではないか。まあ、こんな骨董品なんて盗まないとは思うが。
だが、レジのお金なら盗まれるかもしれないぞ。
実に防犯意識が低い店長なのだろう……。
店の看板は出ていないが、民家と間違えて空き巣にでも入られたら――
「骨董品……好きなの?」
大変じゃないか。
ここは閑静な住宅街だ。時間帯を選べば人が歩いていない時間だって――
「
もしかしたら、ありそうなほどの閑静な――君?
その声がした方向を振り向くと、店内に居る、おっさんだった。
近くで見ると、本当に背丈が高い。百九十センチは超えているかもしれない、弟の鏡侍郎と良い勝負だ。それに、鏡侍郎ほどではないが、体格もそれなりに、がっしりとしている。
しかも、ギョロっとした大きな黒い瞳にかけられた
まいったな……僕はおっさんと会話をするために店に来たわけではなく、この店に住みつき居座る――っじゃない。
面接をするために来たのだ。
こんな時は僕の奥の手――なんて言うと大袈裟だが、”あれ“をするしか無い。
つまり無視だ。
おっさんには悪いが、僕は骨董品なんて毛ほども興味なんて無い。興味があるのは冷房のみ。冷房だけが興味の対象なのだ。
グッバイおっさん、もう二度と僕に話しかけるな。
「君、学生服を着てるけど高校生? 骨董品は値が張るから学生には厳しいぞ」
また話しかけて来やがった!
無視とは沈黙の圧力だ。すなわち話しかけるなと言う、見えない心の壁だと分からないのだろうか……。
本当にしつこいおっさんだ。
しかも、おっさんから離れたくても足の踏み場が
「え、ええ。まあ」
僕の相槌でおっさんの瞳が輝いた。
そして、聞いてもいないのに骨董品の説明や歴史について、べらべらと語り始めてしまった。
まずいな……おっさんの興味スイッチを押してしまった。
これは厄介なことになってしまったぞ。下手に相槌なんてうつんじゃ無かった。
後悔先に立たず――
全く、店長はいったい、どこをほっつき歩いているのだろう。早く帰って来て、このおっさんから解放させてくれ。
この骨董品マニアのおっさんから――骨董品マニア……?
あ、そうだ。このおっさん――もしかしたら店長の居場所を知ってるかもしれないぞ。僕が店に来る前から居たのだ、店長とも顔なじみに違いない。
聞いてみる価値はありそうだ。
「あの、ちょっとお尋ねしたいんですが。この店の店長さんとはお知り合いなんですか?」
僕の質問に対して、おっさんは不思議そうな顔をして答えた。
「え? 店長は俺だけど」
「はっ?」
思わず、心の声が外に出てしまった。
確か、外の張り紙に書いてあった名前は、臥龍リンと言う名前の女性だったはず――
「だから、店長は俺だよ。店長の臥龍リンだ」
このおっさんが臥龍リンだったのかよ……。
と言うか、何とも紛らわしい名前だ。普通、臥龍リンと書かれていたら女性だと思うではないか。
いやいや、そんな事よりもまずいぞ、非常にまずい。無視をしてしまったから、僕の第一印象は最悪になってしまった。なんとか好印象になるようなことを言わないと……。
僕が頭を悩ませて、言い訳を考え付く前に臥龍は質問してきた。
「君は、俺に用事があるのか?」
どうしよう……何も上手い言葉が思い付かないし――もう、いっそのこと面接をしに来たと素直に言ってしまおう。
「えっと、僕は外の張り紙を見て、アルバイトの面接に来たんですけど。まだ募集はしてますか?」
僕の素直な質問に対して、臥龍はすぐに返答した。
「ああ、もちろんだよ。なんだ、面接に来た学生だったのか。早く言ってくれよ」
臥龍の表情は、特に色をなしてはいない。つまり怒っては――いないようだな。
まあ、これも僕の日頃の行いが良いからなのだろう。自分で自分のことを、褒めてあげたいぐらいだ。
平和主義者な僕に乾杯。
「それじゃあ、さっそく面接をするか。ちょっと場所を作るから待っててくれ」
そういうと、臥龍はガラクタ――ではなくて、店内の骨董品を少しだけ片付け、面接が出来るぐらいの小さな場所を作り、「座ってくれ」と言って椅子を持って来た。
と言うか、よく見たらレジの前で、僕と臥龍が向かい合わせになっているだけだった。
そして、また――この時間がやって来た。
僕がこの世でもっとも嫌いな時間だ。
人生で一番、無駄で下らない質疑応答の面接の時間の始まりだ。
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