サイキョウサイコウ?オハナミビヨリ

黒井咲夜

第1話

4月のある晴れた日

「お嬢ちゃん、今日の予定はあるかい?」

 食器を洗っていた少女は、慌てて手を布巾で拭いてスマートフォンを取り出し質問への返答を打ち込む。

[今日はお洗濯と掃除を済ませて、後は先日買っていただいた参考書で勉強する予定です]

 少女の返答に質問の主――いぬい群平ぐんぺいは溜息をついた。

 今年の1月に彼の実家がある瑞慶嶌ずいけいとうからやってきた少女は、まだ10代だと言うのにここ2ヶ月ほど毎日家事と勉強に明け暮れている。たまに食材や日用品を買うために外出しているようだが、少なくとも群平が家にいる休日は一日中家の中で黙々と勉強をしているといった様子だ。

「そりゃあ予定が無いのと一緒だよ。桜も咲いたし、今日は絶好の行楽日和だ。どこかに出掛けてみたらどうだい?」

[目的もないのに外出することは無意味です。私は群平様のお仕事をお支えするために八方家はっぽうけから東京に遣わされたのですから、その命令を遂行するためには無意味な外出は必要ありません]

 実際少女は食事の用意から掃除、洗濯、アイロンがけ、食材や日用品の買い出し、果ては仕事に使う書類の整理に至るまで、群平が宮内庁での仕事のみに集中できるようにサポートしてくれる。おかげで通常業務のみならず現在秘密裏に進めている「宮内庁内に人智を超えた怪異に対応する部署を作る」というプロジェクトも順調に進んでいる。

「目的ならある。俺がお嬢ちゃんに買ったはいいが、袋から出してすらいない洋服に日の目を見してやるのさ」

 だが、群平は少女を召使い扱いすることを良しとしない。

 本家の人間が彼女をどう扱っているかは知らないが、少なくともここにいる間は普通のティーンのように過ごしてもらいたいと思っている。だからこそ洋服や勉強に必要なテキストを買い与え、少女がやりたい事を見つけさせようと四苦八苦しているのだ。

[群平様が買ってくださる服が多すぎるのです。先月上着を買ったのに何故今月も上着を買ってくるのですか]

「先月買った白いヤツは冬用コートで、今月買った肌色のヤツは春用コートだ。全然違うだろ?」

[違いません。服はこれ以上必要ありません]

 少女がぷいとそっぽを向いた先では、朝の情報番組が流れている。

【今日は一日晴れてお出かけ日和となりそうです。一日の気温差が大きく、お花見をする際には上着があるといいでしょう】

 テレビ画面にはお天気キャスターと共に満開の桜が映っており、少女は食い入るように画面を見つめている。

[あの白い花が咲いている木がサクラですか?全部?]

「……そういや、あの島に桜はなかったな」

 桜の代名詞であるソメイヨシノは明治時代以降に広く日本中で植えられた品種で、平安時代から本土との交流を絶っている瑞慶嶌には存在しない。彼女含めほとんどの島民は「満開の桜並木」を書籍やインターネットを通してしか知らないのだろう。

「そんなに気になるんなら行ってくるといい。電車の乗り方やら買い物の仕方を勉強すると思ってさ」

 群平は少女の手に一万円札を3枚ほど握らせ、コートを羽織る。時計の針は7時半を回ったところだ。

「ついでにその金で場外市場にあるあの……名前は忘れたが、有名人の実家の卵焼き屋で卵焼きを買ってきてくれ。夕飯はそれと白飯でいい」

 思い出したようにそう言い残した群平を見送り、少女は洗い終えた食器を拭きつつ思考を巡らせる。

(群平さんは卵焼きだけでいいなんて言ってたけど、他にも用意した方がいいよね)

 東麻布にあるマンションから築地場外市場に行くならば地下鉄を使えばすぐに着く。それなら先に群平からのお使いを済ませてしまった方がいいだろう。

(電車のカードにはまだお金が入ってるから大丈夫。問題は着ていく服だけど……)

 視界の端にブランドのショッパーが映る。中を見てみると、春らしいパステルピンクのAラインワンピースが綺麗に折り畳まれて入っていた。

(ツヤツヤのいい布……本当に着ていいのかな?こんな、綺麗な服)

 実際のところ、群平が思っている以上に少女は粗雑な扱いを受けてきた。彼女のために用意された物は何一つなく、家畜である牛や鶏の方が彼女より大事にされていた。そのため群平が買ってくる洋服が自分のためだけに用意されたものであるとはにわかに信じられずにいたのだ。

 タグを切り、恐る恐るワンピースに袖を通す。七分袖の膝丈ワンピースのようだが、小柄な少女には少しオーバーサイズ気味で長袖のロング丈ワンピースになってしまっている。しかしそれを加味しても有り余るほどに、そのワンピースは彼女にとって魅力的なものだった。姿見の前でくるりと回る度に、ワンピースが「私を外に連れてって!」と語りかけてくるような気さえしてくる。

(私のためじゃない。これは、このワンピースのためだから大丈夫。うん)

 そう自分に言い聞かせて、少女はドアを開けた。


  ***


 マンションから最寄りの赤羽橋駅まで向かい、そこから大江戸線に乗る。以前は電車の乗り方が分からなかったので歩いて行っていたが、今では地下鉄無しの生活が考えられない程度には頻繁に利用している。

 平日の昼間にもかかわらず、築地場外市場に着く頃にはお目当ての卵焼き屋の前に長蛇の列ができていた。目の前で卵焼きが焼かれる様子をカメラに納めようとスマートフォンを構える人やプラスチックトレーに乗った大きな卵焼きをその場で頬張る人が留まっているため、前に進むのも一苦労だ。

(今日買うのは大きいやつだからあの列に並ばなくても大丈夫なんだけど……やっぱり人がいっぱいいて怖いな)

 長蛇の列を横目に卵焼きを1本買う。ふたりで食べるには少々多い気もするが、残りは群平のお弁当にでも入れればいいだろう。

(せっかく来たんだから他にもなにか買って行こうかな)

 おかずが卵焼きだけというのも侘しいので、他に献立を考えながら路地に入っていく。

(魚がメインで卵焼きを小鉢にしよう。おかずがちょっと物足りないから、ちょっと行ったところにある鰹節屋さんで鰹節買って、それでお出汁をとってお味噌汁を……)

「いらっしゃいお姉さん!旬のサワラ買って行きませんか?」

 通りがかった鮮魚店の店員がセールストークを捲し立ててくる。もう少し安価な魚にしようと考えていたが、結局断りきれずに切り身を買わされてしまった。

(こういう時、他の人みたいに話せたらちゃんと断われるのかな)

 少女は生まれつき言葉を話すことができず、スマートフォンなどの道具を使わなければ他者とコミュニケーションを取れない。そのため人の声が飛び交う場所に来ると、まるで自分が異邦人のような疎外感に苛まれるのだ。

(群平さんは私を気遣ってくれてこうやって外に出るきっかけを作ってくれてるんだろうけど、外に出るのは気疲れするんだよね……)

 考え事をしていたせいか、前方を歩く通行人にぶつかってしまった。ハッと目線を上げると高齢の男性が顔を顰めていて、咄嗟に謝ろうと口を動かすが当然声は出ない。

「おつんぼか?耳ぃきごえねんだばさいれば、ハ」

 方言と思しきイントネーションで何を言っているかはわからないが、侮蔑されていることは男性の声や表情からひしひしと伝わってくる。少女は急いで謝罪の言葉をスマートフォンに打ち込んだものの、その間に男性はぶつくさと文句を言いながら歩いて行ってしまった。

(喋れないだけで、耳はちゃんと聞こえているのに……それとも、言い返せないなら何言ってもいいって思われてるのかな)

 人々は道の真ん中に立ちすくんでいる少女を意にも介さず通り過ぎる。彼女に注意を払っているのはひとつでも商品を多く売りたい商店の店員ぐらいだろう。

(……あ、お魚痛んじゃう。早く帰らなきゃ)

 路地にひしめく人を掻き分け、駅に向かう通りへと戻っていく。すれ違う人々の話し声がいやにうるさく聞こえた。


 **

 

 お昼時の満員電車に揺られたこともあり、マンションの部屋に帰る頃には家を出たときのワクワクした気持ちはすっかり消え失せていた。買ってきたものを冷蔵庫に入れ終えるとずっしりとした疲労感が一気に襲いかかり、少女の体をソファに沈める。

(……久々に、人からあんな顔された)

 築地場外市場でぶつかった男性の侮蔑の目が、差別意識を隠そうともしない声が、頭から離れない。それにつられて、負の記憶がどんどん連鎖していく。

『何したってバレないよ。だってコイツ、口がきけないんだもん』

 無邪気に笑いながら少女の腹を蹴る子ども。

『誰の子かも分からないおしに食わせる飯はないよ。自分でなんとかしな!』

 野良犬でも追い払うかのように顔を顰める女。

『お前よりこの鶏の方がよほど役に立つぞ』

 血抜きした鶏の首を投げつける男。

(どうしよう、からだ、うごかない)

 体が末端から急速に冷えていく。視界がモノクロになり体が硬直して動かなくなっていくのに反比例して、今まで彼女に向けられた言葉が高速で脳内を駆け巡っていた。

(だれか、たすけて)

 そう思った瞬間、固定電話のコール音が痛いほどの静寂を破る。壁に寄りかかりながらも思うように動かない体を無理矢理動かして、少女は受話器に手を伸ばした。

[もしもし、木戸きどです。すいません……今日の『きじま寿し』での夕食の予定、ちょっと急に上野公園で職場の人と花見することになっちゃって行けないです。すいません……失礼します、はい……]

 電話とも言えないような一方的な伝言だったが、耳馴染みのある声を聞いたことでようやく少女の思考は袋小路から脱した。

(……キドオトヤ、やっぱり変な人。この時間に家に電話かけてもいるのは私だけなんだから意味ないのに)

 テレビ台に置かれた時計を見ると、時刻はすでに16時を回っていた。今から行っても新宿御苑は閉まっているかもしれない。

(花なんてどこで見ても同じだし。ちょっと遠くなるけど……群平さんに伝言伝えたこと知らせないとだし)

 群平にメッセージを送り、少女は再び家を出た。

 

 ***

 

 夕方の上野公園は地獄絵図というべき様相を呈していた。頭上に咲き誇る桜から少し視線を下げれば、そこには缶ビールを手にした酔っぱらいやぐずって泣き出してしまった子どもがひしめき合っている。

(なんでお花見なのに誰もサクラ見てないの?ここにいる人たちみんなサクラを見にきたんじゃないの?)

 満開の桜がずらりと立ち並ぶ景色は確かに壮観だが、少女にはその美しさがわからなかった。一般的に桜を美しいと思う感覚の裏には「桜に関する物語」や「桜をモチーフにした作品」などの判断材料があるため、桜を知らない少女にとってこの絶景は名前すら知らない作家の絵画のようなものでしかないのだ。

(あ……だめだ。またあの感じがする)

 人の波に揉まれながら、少女の胸には再び穴が空いたような感覚が蘇る。

(どうしよう、また、うごけなく)

 正面から大量の人が押し寄せてくる。頭上を見上げれば白い天井のように桜が空を覆っている。体が硬直しかけた、その時。

「あれ?ネコさんじゃないですか。なんでこんなところに」

 乙弥が少女――ネコの肩を叩いた。

[電話があったのですが、オトヤさんの連絡先を知らなかったので、直接用件をお伝えに来ました。群平様には私からオトヤ様からの連絡をお伝えしましたので、安心してお花見をしてください]

「そうなんですか?すいません、わざわざありがとうございます」

 人の流れに押されて、ネコが乙弥に寄りかかる形になる。上を見上げると、乙弥の柔らかな表情と満開の桜が視界を埋めていた。

「東京でも高知でも、桜は変わらずキレイですね」

 ネコには桜の美しさが理解できない。風が吹けば散るような花の集まった木のどこがキレイなのか、なぜ花見なんて名目で人が集まるのかわからない。

 それでも、今見えているこの景色を乙弥が美しいと思うのなら、それは確かに美しいのだろう。

(貴方がこの白い花々を美しいというのなら、私もこの景色を美しく感じます)

 春爛漫の陽気の中で、ネコは満足そうに笑った。

 

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