第5話 拒絶
一歩、また一歩と踏み出し、森の中を駆ける。
足元は濡れた土で滑りやすくなっており、泥がブーツを汚すが、セナは躊躇なく走った。
その手にはトリガーに指のかかったガンフェルノが輝いており、首謀者をすぐにでも射殺しようという、明確な殺意がこもっていた。
足を止める──がさり、と自然音とは違う草むらの揺れる音がした。
セナはその音源へと目を向け、一瞬の躊躇もなくトリガーを引く。
弾丸で引きちぎれた葉と同時に、一人の女性が悲鳴を上げて草むらから出てきた。
「正常性規範法違反により──」
すかさず銃口を向け、決まり文句を告げとしたその口は、途中で封じられた。
「──クロエ?」
代わりに飛び出したのは、セナにとってかつての幼馴染の名前だった。
「セナ……」
クロエ・モレイン。
無邪気さを感じさせる大きな青い目に、赤毛のショートは森の中だとよく目立つものだった。
こうして出会うのは10年来だったが、クロエの容姿、立ち振る舞いはよく覚えていた。
思わずトリガーにかけた指の力を緩めそうになる。
「まさか、あなただったとは」
規範法違反者の主犯格の人間は即刻射殺。
これはたとえ、幼馴染だろうと変わらない事実だ。現にセナは母を自らの手で葬った。
「待って!」
「命乞いはよせ。私は粛清者として、お前を消さねばならない」
銃口をクロエの頭部に向ける。
幼馴染のよしみで、せめて楽に逝かせて──
「待ってったら!」
「──わぶっ!」
こちらに走り寄ると、セナの下腹部を力強く抱きしめる。変な声が出て、そのまま押し倒されるように仰向けに転倒する。
「……やめるんだ。抵抗するのは無駄なことだ」
「セナ。会いたかったよ」
馬乗りになるクロエの顔を見る。
無邪気な笑顔──同じだ。あの時と全く同じ光景。
「あなた、粛清者になっていたのね」
セナの黒いジャケットコートを見て、表情を曇らせる。
「そうだ。私は粛清者として、お前を見逃すわけには──」
「逃げるつもりはないわ。撃ちたければ撃ちなさい。でもその前に、話を聞いてちょうだい」
本来であれば、違反者の主張など聞く耳を持つべきではない。粛清者の研修講義でもそのように学んでいる。
「──いいだろう」
だが、クロエの綺麗な瞳を見て、セナは判断を鈍らせた。
ガンフェルノの安全装置を戻すと、胸元に忍ばせた。
★
クロエとは、小さい頃によく遊んだ仲だった。
手を繋いで、花畑で走り回って、何気ないおしゃべりをした。
彼女と別れたのは、その日も同じようにクロエと手を繋いだ時だった。
──ずきり。
突如訪れた、胸の「痛み」が全身を駆け巡った。
心臓が激しく鼓動し、体が熱くなるのを感じた。
クロエの目を見た。続いて、彼女の艶やかな顔を見た。
その度に、心が跳ねるような気持ちになった。
セナはこの感情の意味を、すぐに理解した──理解すると同時に、とてつもない嫌悪感が襲った。
『気持ち悪い。来ないで』
気が付けば、クロエを拒絶していた。
振り解いた手で、胸を突き飛ばしていた。
その時の彼女の顔は、更にセナに痛みを襲わせた。
最悪の痛みだ。信じられない。よりにもよって、自分が。
当時は幼かったセナも、正常性規範法の名前を知らずとも、これが禁じられた感情であることは理解していた。
それ以来、クロエとは距離を置いた。会わないようにした。
この気持ち悪い感情を、なんとしても抑えなくてはならなかった。
この歪んだ愛情を、押し殺さなくてはならなかった。
セナは粛清者の道を選んだ。
自分と同じ感情を抱く違反者を殺すことが、クロエに抱いてしまった感情と戦う手段だと思った。
違反者を葬っていくうちに、次第に胸の痛みは治まっていった──そして、母を処刑した時には、完全に治まった。
自分の心に打ち勝ったのだと、誉れ高い気持ちになった。
もう負けはしない。自分は普通に男と知り合って、恋愛して、家庭を築くのだと誓った。
「こっちよ」
クロエはあの頃のように微笑み、セナを手招きしながら歩く。
彼女の細くて白い指の一本一本が、目移りしたが、二度と同じ性を持つ人間など愛するわけにはいかないと、首を振ってよからぬ考えを振り払う。
彼女はわざとらしく手をひらひらとさせて歩いていたが、セナは絶対に上着のポケットから手を出そうとはしなかった。
もう絶対に繋がない。繋ぐわけにはいかない。
「セナ、どうしたの?」
奥歯を噛み締める彼女の顔が気になったのか、覗き込んでくるクロエ。その純朴な表情が、またセナの心をざわつかせる。
「なんでもない。早く案内しろ」
「急かさなくても、アジトは逃げたりしないから」
「ふん、余裕だな」
わざと目線を逸らしながら話す。
「私はお前らの恐れる粛清者だ。それをわざわざ、アジトに案内するなど」
クロエのやろうとしていることは、言うまでもなく自殺行為だ。しかし自ら敵地を晒すなど、粛清者の自分にとっては好都合でしかない。
「セナ、あなたなら分かってくれると思う」
「ばかな。あの頃とは違う」
「違わない。同じだよ」
クロエの口元が優しく上がった。
彼女から聞き出したいことはたくさんある。
だが、セナの中に真っ先に浮かんだのは──あの時の拒絶を、どう思っているのだろうか。それが一番知りたかった。
クロエの手を強引に振り払い、突き飛ばした。気持ち悪いとまで言った。
粛清者の仕事を全うする上で、余計な思考だというのは十二分に理解している。でも──
「その、クロ──」
「着いたよ」
クロエの手のひらの先には、巨大な樹木が生えていた。
よく見ると、樹木の根元に一部を削り取って張り付けられた扉がある。丈夫そうな木の板で作られ、苔や葉で自然に溶け込むように工夫されていた。
ここが、クロエたち違反者の隠れ家──。
セナは生唾を飲み込んだ。
自分の格好は粛清者そのものだ。隠れ家の人間がセナの姿を見た時、どういった反応をするのかは容易だった。
「行きましょう」
「……」
クロエの後ろを黙ってついていくふりをしながら、セナはこっそりとガンフェルノの安全装置を外した──。
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