この春、恋は花散る
はづき
前編
4月、初出社の日。通勤通学で多くの人が賑わう中、
(あー、優しい人たちばかりだといいなぁ……)
そう不安に思っていた矢先、とある乗客の男の手が碧の右太ももに触れていた。
(……いっ、いやだっ、だ、誰かっ……)
心では叫んでも、声に出せない。必死に抵抗しても、その手は離してくれない。
――その時だった。
「あのー、そこのおじさん。彼女が嫌がっているじゃないですか。乗務員さんに突き出しますよ?」
スーツ姿の若い男性の方が、男に苦情を出した。男は何も言わず、次の駅で電車を降りていった。
「……あ、あのっ。ありがとう、ございました……」
「いえいえ。この辺は人多いから、こういうことたまに起きるんだよねぇ」
この男性とは同じ駅で降りたのだが、いつの間にか碧は見失ってしまった。この男性との出会いが、碧に良い転機をもたらす――
☆☆☆
会社に着き、間もなくして入社式が行われた。碧たち新入社員の教育係に任命されたのが、入社3年目の
(あれ? あの人、どこかで見たことあるような……?)
彼こそ、先程電車内で痴漢に遭っていた碧を助けた張本人だ。なかなか声をかけるタイミングがないまま昼休憩の時間になってしまった。声をかけたのは、夕馬からだった。
「まさか、さっきの女の子が後輩になるとはねぇ」
夕馬は苦笑いを浮かべていたが、その姿には優しいオーラがあふれている。
「あ、あはは……。ですよねぇー。でも、井上さんのおかげで助かりましたよ!」
「それはよかった。ってことで、改めましてよろしく! 笹木さん」
「はいっ!」
初出社を終え、碧が帰りの電車を待っていると夕馬とばったり会った。
「お、お疲れ様です。方向、一緒だったんですね」
「俺も驚いた。朝も言ったけど、この辺は本当に人多いから、痴漢とか……多いからね」
「は、はい……」
電車が到着し、2人は電車に乗り込む。
「笹木さんがいいなら、時間合う時に一緒に通勤する?」
「あっ……いえ! 子供じゃ、ないですし……」
「遠慮しなくていいよ。新入社員の心のケアも、先輩の仕事だから」
「では……お言葉に甘えさせていただきます」
家の方向が一緒なのはきっと、偶然。碧は今まで男というのは苦手で避けてきたのだが、夕馬という会社の先輩は違う。出会って1日目だけど、すぐに分かった。
翌日から週2、3回程度で夕馬との通勤をするようになった碧。会社では熱心に教育係という役目を全うしている。
「これ、こうやるって教えてもらってたよね? 同じところでつまづいちゃって」
会社周辺に咲いていた桜もすっかり散った4月の下旬。碧は新入社員の中でも飲み込みが遅く、周りの先輩たちから胡散臭い目で見られていた。
――そんな時。
「笹木さん。大丈夫だから。落ち着いてやれば大丈夫。どこから分からなくなった?」
夕馬が困っている碧に気づき、駆けつけてくれた。
「あ、ありがとうございます。えっと、この辺からぐちゃぐちゃになっちゃって……」
やっぱり夕馬は違う。他の先輩たちとは違って、温厚で優しいまなざし。
(井上さんのおかげで、私……安心して仕事できる!)
夕馬は仕事では丁寧に教えてくれるし、通勤中は不審な人がいないか碧の周囲に目を光らせている。
この日の帰りも朝と同様、一緒に電車に乗ったのだが。
「あっ……ごめんなさいっ!」
碧が吊り革を掴むと、その上に夕馬の手が重なった。
「ごめんね、びっくりさせちゃって。……俺はいいから、使って?」
2人の間に動揺が走る。夕馬は冷静を保とうとしていたが、
(……温かった、井上さんの……手……)
碧は夕馬と別れるまで、ドキドキが止まらなかった。
最初は毎日が楽しく充実していただけだった碧。だがいつの間にか無意識に、夕馬に惹かれている自分がいた。
――これが、今にも咲きそうな恋の始まりだった。
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