第2話 いよいよ行動に出る

深夜、私の部屋の中で、静寂が支配するその空間に一つの決意が芽生えた。もはや中途半端な存在でいることに疲れ果てていた。半ば狂気じみた勢いで、私は自らに語りかける。「中途半端な変態になるなら、とことん変態になれ。失うものなんか何もない。もうふっきれてしまえばいいのだ。」


清水のこの町に足を踏み入れてから、私は誰一人として知り合いを作らず、ひっそりと日々を送っていた。それどころか過去に友達は一人しかおらず、その友達との縁も清水に引っ越してから縁を切ってしまった。フリーターでいることを知られたくなかったからだ。

その結果、母親と祖母だけが、私が清水に住んでいることを知っている。しかし彼女たちが私の秘密を知る可能性はほとんどない。それはさておき他の誰かにばれてどうなるというのだろう。それがどうしたというのか。何かを積み上げて成し遂げるものではない。少しの勇気を持って女装の姿、私の欲望の姿のまま街へ一歩を踏み出すことが、私にとっての究極のミッションだ。その事実を思い出せば、実際はとてもシンプルで簡単なことのように感じる。私がトランスジェンダーではないからといって、女装の願望を抑える理由にはならない。女装したいのなら、それを誇りに思うべきだ。



「そして街に繰り出して、多少迷惑をかけようと、それが何だというのだ!」この思いは、私の中で渦を巻いていた。普通の人々が何気なく歩いている姿を見るだけで、私は劣等感がわいてくるので迷惑を受けている。


死んだ父親も空から悲しんでいるだろうか。「でも見ててください。あなたのせいで私はいまこんな面白みのない生活をしているのです。あなたがもし私の選択を悲しむならば、それは残念ですが、私はもう過去の枠には囚われません。でも、どうか理解してほしい。あなたなら私の弱さを身にもって理解できるはずです。」



次の日から私フードデリバリーは昼で切り上げることにした。私が女装を本格的に始める上で最初に取り組んだのは、医療ヒゲ脱毛の予約を入れることだった。これまでの自己処理では限界があり、より完璧な女性らしさを目指すためにはプロの手を借りる必要があった。

はじめてカウンセラーを受けにいったときは女性客ばかりでとても緊張した。


そこに居合わせた待合室にいたおっさんの一人がとても心強かった。カウンセリング自体は非常に丁寧で、スタッフは私の質問に一つ一つ詳しく答えてくれた。脱毛プランは6回コースで、費用は約6万円近くになるという。フードデリバリーの仕事をすれば、この金額は3日間しっかり働けば回収可能な額だった。私はためらうことなくその日のうちに六万を現金一括で支払った。


それから次に無数の化粧品を前にして私のポテンシャルを最大限生かす化粧の研究を始めた。その結果ファンデーションを均一に塗る作業は、何度も何度も繰り返し行われた。初めは厚塗りになりがちだった顔は、一度メイクを落とし、再びクレンジングオイルで顔を清める。それから、新たにファンデーションを手に取り、顔に軽く叩き込むようにして塗布し直す。この過程を何度も繰り返し、ついには肌に自然に馴染む薄付きの技術を身につけることができた。


アイシャドウの均等なぼかしも、初めてのころは思うようにいかなかった。一色で塗りつぶすことから始め、徐々に色の重ね方、グラデーションの作り方を学んだ。小さなブレンディングブラシを使い、まぶたのくぼみに沿って色を慎重に重ねる。淡い色から暗い色へと徐々に深みを加えていく。この一連の作業は、繊細で細心の注意を要するが、何度もの失敗と成功を繰り返し、自然な眼影ができるようになるまで根気強く挑戦し続けた。


コンターリングは特に難しく、自分の顔の骨格に合わせた陰影を作ることに何時間も費やした。最適なシェードを見つけるために様々な色のコンターパウダーを試し、顔の高い部分と影を作りたい部分に適切に適用する方法を学んだ。この技術により、顔の形をより柔らかく、またはシャープに見せることができるようになり、自分の理想とする顔立ちへと近づいた。


カラーコンタクトレンズの選定には、私は何度も試行錯誤を重ねた。様々な色のレンズを装着し、鏡でその効果を細かく観察する。あまりにも派手な色は避けつつ、自分の自然な瞳に溶け込みながらも魅力的なアクセントを加える色を模索した。結局、私にとって最も自然でありながら美しく感じられる色は、深みのあるヘーゼルであることがわかった。


服装の選び方についても、同じく多くの時間と労力を費やした。ワンピース、スカート、ブラウスなど、さまざまな形のアイテムを試着し、どれが最も私の体型をカバーし、女性らしいラインを強調するかを検討した。オンラインショッピングを活用することで、このプロセスはより効率的で、かつ秘密裏に進めることができた。これらの努力を通じて、自分に最もフェミニンなシルエットを与える服を選ぶ眼を養うことができた。


その日、私はユニクロでローファーを探すことに決めていた。女性用の靴を選ぶのは初めてで、サイズが合うかどうかの心配があった。私の足のサイズは26cmで、通常ならば問題ないはずだが、念のため試着をすることにした。


ユニクロを選んだ理由は二つ。一つ目は、男性が店内で女性用の靴を試着しても比較的許容されやすいという私の予測に基づくものだった。公共の場での女装は、私にとってまだ大きな一歩であり、可能な限りリスクを避けたかったのだ。二つ目の理由は、以前から気になっていたユニクロCの5,500円の黒いローファーを実際に試してみたいと思ったからである。その靴はシンプルながらも品があり、どんな服装にも合わせやすいと感じていた。価格も手頃で、日常的に使うにはちょうど良い投資だと考えていた。


店内に入ると、直接シューズセクションへ向かい、気になっていたローファーを手に取った。靴は思っていた通りの質感で、軽くて履き心地も良さそうだった。足を滑り込ませると、靴はぴったりとフィットし、期待以上の快適さを感じた。ミラーの前に立ち、履いた靴を見て、内心で安堵の息をついた。


ついにすべてのアイテムがそろったのでいよいよ目標としていた、清水のイオンまで女装で出かけるのを実行する日がきた。あと女性らしいしぐさは前日少しだけ女装するひとがしぐさを教えてくれる動画を見て予習しただけだ。正直心臓はもう朝起きた時からずっと高まっている。別に今日行かなくていいのではないかという、いつものバイトの面接や就職の面接でよく多用する逃げの思考も当然のようにわいてきたが。今回は根拠のない自信があった。なにがわたしをここまでさせたか、それは社会に対する違和感であろう。しかしいままではこの違和感を解消する手段を持ち得ていなかった。そのため私は世間から存在していない人間になっていたのである。それも今日で終わりだ。これからは女装している私にしかできない男らしさ(それは社会に対して抵抗することという意志のことであるが)を出さないと普通の女のただの劣等種になってしまう。


メイクに関しては、それぞれの工程に細心の注意を払いながら進めた。まず、肌の質感を整えるために適量のファンデーションを丁寧に塗布し、クリーミーで滑らかなベースを作成。次にコンシーラーで肌の小さな欠点や色むらを緻密に修正し、完璧なキャンバスを作り上げた。さらに、コンターリングの技術を駆使して、顔の自然な形を微妙に調整。シャドーとハイライトを利用して、柔らかく女性らしい顔立ちに見えるよう工夫した。

アイメイクは特に力を入れた部分で、まずはアイシャドウベースを塗り、その上から淡いピンクやベージュのシャドーを重ねていった。この段階で目の形を整え、より大きく見えるように調整。アイライナーで目の輪郭をはっきりさせ、マスカラでまつ毛を長く豊かに見せることで、目元の印象を強調した。リップメイクには、ナチュラルなピンク色のリップを選び、唇を柔らかくふっくらと見せることに注力した。


こうしてメイクとカラコンの準備が整った後、選び抜いた服装へと着替えた。シンプルでエレガントなブラウスに、女性らしいラインを強調するフローラルプリントのスカートを合わせ、全体のバランスを考慮しながらコーディネートした。自分の姿を鏡で確認するたび、新しい自分に近づいていく実感と喜びを得た。


最後の瞬間に、私はやはり少しの安全策を講じることに決めた。そっとマスクを手に取り、顔に装着する。このシンプルな布片一枚が、自分を保護する盾のように思えた。マスクは私の半分の顔を隠し、外界からの直接的な視線を遮る。それは、私の緊張を少し和らげ、外に出る勇気を与えてくれた。


ローファーを履くときも、その行為は一種の儀式のように感じられた。ゆっくりと靴を手に取り、足を滑り込ませる。

「さあ、いくよ京子。」


パワーを持って朝の9時ごろ、私は自宅を出発した。外はまだ朝の柔らかな光が街を照らし、人々はそれぞれの一日の始まりに向けて急ぎ足で通りを行き交っていた。私もその一人として、ただひとりの目的を持って歩き出す。

耳にはイヤホンからPublic Enemyの「Fight the Power」が流れていた。その力強いリズムとメッセージが、私の背中を押し、自信を与えてくれる。周りの視線を感じるたびに、曲のビートが私の一歩一歩をリズミカルに導いてくれる。


周囲の人々はそれぞれに忙しそうに通り過ぎていく。私が女装していることに気づく人はほとんどいないように思えた。たまに私の方をちらりと見る人もいたが、その視線もすぐに他のことに移っていく。このことから、自分がどれほど恐れていたかが馬鹿らしく思えてきた。

歩く間、心の中では様々な感情が交錯していた。不安や恐れ、そしてそれと同時に得られた小さな勝利の喜び。このすべてが混ざり合いながら、私はイオンへと近づいていった。その一歩一歩が、自分自身への確信と、これまでの自分を超える勇気を育てていた。



イオンに到着した私は、はじめは店内をぶらつくことも考えたが、特に目的もなく、ただの散策をする気にはなれなかった。もう音楽の力を使う必要もなさそうなのでイヤホンを外しケースに入れカバンの前ポケットにしまった。より意味深い挑戦へと自らを駆り立てることに決めた。それは、女子トイレを利用することだった。生まれてこのかた、男として生きてきた私が、公共の場で初めて女性の聖域に足を踏み入れる。その決断は、ただの行為以上の重みを私の心に与えた。

店内を少し歩いた後、ピンク色の女性マークがついた方のトイレに入った。それぞれのステップが、私の内面で小さな革命を起こしていた。男性用トイレとは異なり小便器がないので清潔で整った印象を受けた。


トイレの個室に入り、ドアをゆっくりと閉めた瞬間、私は完全な孤独と静寂の中でほっと一息ついた。それは、外の世界から切り離された、完全なプライバシーが保証された空間だった。座っている間、周囲からのどんな小さな音も、外の喧噪も届かない。トイレの中は、思いのほか清潔で整えられており、壁には暖色系のタイルが使われていた。

ここでは、他の誰にも邪魔されることなく、自分自身と向き合うことができた。私は、用を足す一つ一つの行動が、自己表現の一部としてどれほど大切なものかを実感していた。便座の冷たささえも新鮮で、これまで感じたことのない心地よさがあった。


個室から出て共用の洗面台へと歩く間、私の足取りは自信に満ちていた。手を洗うとき、鏡に映った自分の姿に見入った。カラーコンタクトが加える瞳の深み、緻密に施されたメイクが、私の外見を完全に変えていた。この鏡の中の人物は、外界で私が演じる役割とは全く異なる、もう一人の自分だった。鏡の中で自分自身を見つめるその時、ふと涙がこぼれ落ちた。これは悲しみの涙ではなく、自分自身を完全に受け入れたことの喜びと、長い間の抑圧からの解放を感じたからだ。心の奥底から湧き上がる感情が、私の全身を満たし、手洗いの水と一緒に流れ落ちていく。これまでの緊張感が一気に安堵と喜びへと変わり、私は自分の存在を心から肯定できるようになった。その感覚は、まるで長い旅の終わりに家に帰ってきたような、心地よいものだった。


無事に家に帰り着いた私は、部屋の静寂の中で、今日一日の出来事を心ゆくまで反芻した。今日は自己表現の新たな地平を開拓した記念すべき日だった。夜、部屋の灯りの下で、私は初めて日記を開き、ペンを取った。今日の一日を文字にすることで、この記憶を未来の自分へと継承する意味を持たせたかったからだ。

「今日、私は初めて女性として外界を歩いた。それはただの散歩ではなく、自分自身を世界に示す勇気の試練だった。イオンでの体験、特に初めての女子トイレは、私にとって大きな一歩であり、そこで感じた居心地の良さと自己肯定感は、これまでの人生で感じたことのないものだった。」


半年が過ぎ、私の女装生活はすでに日常の一部となっていた。ヒゲ脱毛を始めてから4回目を終えた頃、明らかにヒゲが薄くなり、顔の印象も少しずつ変わり始めていた。この変化は自分自身で見ても明らかだったが、それだけが女装の全てではなかった。


何度も女装して街を歩いてみたけれど、初めての頃の興奮やドキドキは次第に薄れ、日々の一部としての退屈さが増していった。特別な扱いを受けることもなく、むしろ私の存在はしばしば無視されるかのようで、見た目では明らかに純女には遠く及ばなかった。女装の楽しみは、やはり他者からの注目がなければ続かないのかと疑問に思うようになった。


特に記憶に新しいのは、ある晴れた午後のことだ。私は綿密に計画した女装を完成させ、自信を胸に膨らませて近くのチェーン店ではないカフェに足を運んだ。本を片手に、ゆっくりと過ごす予定だった。しかし、カフェの扉を開けた瞬間、その雰囲気は一変した。同年代の5人の女性グループが一斉にこちらを見て、私の存在を確認すると、すぐに席を移動し始めた。彼女たちの視線は疑問を投げかけており、まるで私が異物であるかのように扱われた。さらには、彼女たちが小声で笑いながら何かを話しているのが聞こえ、その話の中心には明らかに私がいた。このような扱いは男性グループからはほとんど受けることがないが、女性グループからはたまに経験する。そのため、カフェでの時間は心地よくはなく、本に集中することもできず、早々に退散することになった。


別の日、街角で地元のおじいさんに「お嬢ちゃん、おかえり」と声をかけられることがあった。一瞬、その温かい声に心が躍ったが、おじいさんが私をじっくり見た後の反応は、明らかに戸惑いを含んでいた。その視線は私に深い失望感を与え、喜びも束の間、現実の厳しさに打ちのめされることとなった。


女装を続けることで、私は女性としての自分を試みたが、その結果は期待とはかけ離れていた。純粋な女性にはなれず、常に比較の対象とされ、その劣等感はただ増すばかりだった。女装がもたらすはずの解放感や楽しさは、徐々に重苦しい自己評価と置き換わっていった。


母親と祖母が突然訪れるという連絡を受けた時、私は心の底から面倒だと感じた。部屋中に散らばるネイル道具やカラコン、化粧品一式、そして大量に購入したブラジャーとパンツのセット、女性用の衣料品を一体どう隠せばいいのか、その思いだけで頭が痛かった。母と祖母は、特に用事もなく、私に会いたい一心で訪れるのだと言っていた。彼女たちには、私がフリーターであることからいつでも時間があるだろうと思っているのだろう。


実のところ、私には母と祖母の訪問を歓迎する心の余裕はなかった。しかし、祖母が時折、小遣いをくれることや私の唯一しゃべれる人間たちであることから完全に拒否することはできなかった。そのため、せめて部屋が怪しまれないようにと、急いで女装の道具や服を押し入れの奥深くに隠すようにした。女装用の道具や服を押し入れの奥に押し込む一連の動作は、まるで自分の秘密を深く埋めるようで、心がざわついた。


片付ける中で、私は自分がどれだけ多くの無駄遣いをしていたかを痛感した。それらを片付ける間、なぜこんなにも多くのものを隠さなければならないのかと、自分の生活に疑問を感じた。たとえばこの安っぽい紫色のブラジャーや、安価で購入した中国製のピンクのメイド服など、見れば見るほど後悔が込み上げてきた。これらは安かろう悪かろうで、今となっては何の価値も感じられない。私はゴミを捨てながら長いこと心の奥底にしまっておいた家族との関係を呼び起こした。


かつて私と母の間には深い溝があった。それは私の日々の失態が積み重なるごとに広がっていった溝だ。宿題を提出しないこと、学校の成績が悪いこと、塾をさぼったこと、さらには万引きをしたこと。これら一連の行動が母のヒステリックな反応を招き、我が家は常に緊張で張り詰めた空気が漂っていた。母の叫び声はしばしば、家の壁を震わせ、私の心に深い傷を刻んだ。母親は私がなぜそのような行動をとるのか裏の背景まで知ろうとしなかった。


それでも家族内で私が最も辛く感じたのは、妹の存在であった。私の妹は決して優秀なわけではなかったが、ごく普通の人として一定の幸せを享受していた。彼女の成績も運動能力も特別目立つものではなく、しかし彼女は多くの友人に囲まれ、それなりに楽しい学生生活を送っていた。それが私にとっては、余計に耐え難い現実であった。妹と比較されることは少なくなかったが、彼女が普通の幸せを手に入れている様子を見るたびに、私自身の孤立感と引きこもりがちな生活が際立った。


妹が外に出て友達と笑い合う声が聞こえるたびに、私の部屋の静けさはより一層重く感じられた。彼女が帰宅して家族と楽しく話す様子は、まるで遠くの国の出来事のように私には感じられた。一方私は全く友達がおらず希死念慮を持っていた。


父が家にいたときだけが、その荒れ狂う嵐からの一時的な避難所だった。父はいつも私と母の間に立ち、仲裁者として冷静に事態を収めようとした。しかし、父が中国への長期出張で家を空けると、母との間の沈黙が増す一方で、私たちはほとんど言葉を交わさなくなった。その孤独感は、時として耐え難いものがあり、私は自らの世界にさらに深く引きこもるようになった。


その日、母親との対立は、私の人生における一大事件となった。担任からの電話が引き金となり、母の怒りは制御不能な猛獣のように私に襲いかかった。彼女は私の過去の行動を根に持ち、私の部屋を荒らし、DSや愛着のあるぬいぐるみまでもが容赦なくゴミとして捨てられた。その瞬間、私の心の中で何かが壊れた。


私は制御不能の怒りに身を任せ、母親に対して手を挙げた。その一撃は、私自身も驚くほどの力が込められていた。母の驚愕の表情が今でも脳裏に焼き付いている。その夜、私は家中のものを投げつけ、壊し、自分の感情のままに暴れた。大きな鏡やタンスも私の怒りの犠牲となり、破片が部屋中に散乱した。


この一件がきっかけで、私は精神科の門を叩くこととなった。そこで初めて私の心の傷が深いことを理解され、母もまた、自らの厳しさが私にどれほどの負担をかけていたかを自覚した。父の突然の赴任先での自死後、私たち母子の関係は一変し、新たな理解と寛容が芽生え始めた。私たちはお互いの過去の過ちを許し合い、無言の同意のもと、新たな一歩を踏み出す準備ができたのだった。それは、互いに前に進むための、静かなる約束であった。


人生は諸行無常、変転の風が吹く無限の庭。時間は静かに流れ、かつての嵐が過ぎ去った後の風景は、思いがけない静けさに満ちている。昔の私は、母との争い、妹との比較、父の突然の喪失という暗い影に囲まれ、心の底からの絶望を味わっていた。しかし、時が流れ、それぞれの経験が私の内面を形成し、新たな自我を育ててきた。


女に生れていればもっと違う人生だっただろう。もっと遺伝子が優れていたらもっと違った人生だっただろう。この世は、運という名のゲーム盤上で私たちが振り分けられたカードでしかない。配られたカードが悪ければ、そのカードを捨てて「一勝負」するしかない。この結論が、何度も何度も自分の中で確固たるものになっていく。これが、揺るぎない信念と呼べるのかもしれないが、それを一生引きずるのは、確かに辛い。

私はゴミを捨てるために外に出た。扉を開け、一歩外に踏み出すと、意外なほどに明るい光が目を刺した。こんなにも世界は明るかったのか。


次の日、待ち構えていた通りに母と祖母が訪れた。彼女たちの訪問は、予期していたものの、その現実が私のドアを叩くと、それまでの穏やかな一人の時間が突如として終わりを告げた。

玄関のチャイムが鳴り、私は深呼吸をしてから扉を開けた。母と祖母は、いつも通り明るく私を迎え入れたが、私の心中はそれとは裏腹に複雑だった。彼女たちは、私の部屋の中を見るなり、「きれいに片付いてるね。どうしたの?」と感心しきり。しかし、彼女たちが知らないのは、その整頓された空間の裏に、女装用品とその他の隠された秘密がぎっしりと詰め込まれていることだった。祖母が入ってもいいと聞いてきたとき、私は速攻で「ダメだよ」と答えた。しかし、幸いにも母と祖母はそれ以上深く立ち入ることなく、玄関に留まってくれた。

母は心配そうに「ちゃんと食べてる?」と尋ねた。その問いかけに、「まあ、そこそこはね」と低いテンションで返答した。

会話は少し張り詰めた空気を帯びていたが、「仕事はどうしてるの?」という次の質問には、「まあ、生活できるくらいにはやってるよ」と答え、何とか平静を保った。「それなら良かった」と母は一安心した様子だった。


気を取り直して、母が提案する。「せっかく清水に来たんだから、外で美味しい海鮮丼でも食べに行こうよ。私、まぐろが食べたくて。お腹も空いちゃったし」という言葉に、私も彼女たちとの時間を少し楽しむことに決めた。


車に乗って母と祖母が前にすわり、私は後部座席に座った。車ではback numberがかかっていた。

「清水の町は住みやすそうでいいね。」と母が切り出す。「住みやすいよ。」

「いつもどこのスーパーにいっているの?」と祖母が聞いてきた「もうすぐいったとこのエブリディっていうスーパー。」

「それって静岡にしかないスーパーだよね。」と母親はバックミラーをちらりとみて聞いてきた。

「たぶんそうじゃない。」


清水漁港に面した飲食店街を歩きながら、私たちは何軒かの店を眺めた。最終的には祖母がひときわ賑やかな店に勝手に足を踏み入れ、私たちはその流れに身を任せることにした。


「海鮮丼にしようか」と祖母がメニューを指差し提案した。母もそれに同意し、私は少し違うものを試そうと思い、マグロ定食を注文することにした。それぞれの料理は1000円と手頃な価格で、初めて訪れるには十分魅力的だった。


やがて運ばれてきた海鮮丼は、鮮やかなマグロの赤身が目を引く美しさだった。母は感嘆の声を上げながら、「やっぱりここはマグロが新鮮で美味しそうね」と言い、箸を進めた。祖母も頷きながら同調し、美味しそうに食べ始めた。


食事の合間、母は私の最近の生活についてさりげなく尋ねた。「ここに来てから慣れたの?」とのこと。

「うん、だいぶね」と私は返した。会話は少なめでも、私たちの関係は穏やかだった。


祖母が更に話を深め、「友達はできたの?」と興味深そうに尋ねてきた。

私は一瞬躊躇いつつ、「まあ、少しね」と曖昧に答えた。少し空気が重くなった瞬間、私のマグロ定食が運ばれてきた。マグロの刺身、煮つけ、そしてフライが一皿に並び、その豪華さに私は心を奪われた。一言、「いただくね」と言いながら、まずは添えられた味噌汁から手をつけた。


少し無言の中食事が進む中、母がまた質問をしてきた。

「この辺りでお気に入りの場所は見つけたの?」

さっきから非常につまらない質問をどんどんされるのでいい加減飽き飽きしていた。

「そんなのないよ。」とすこしなげやりに答えた。 

私は質問攻めされるのが嫌だったので、祖母に質問した。

「おばあちゃんは最近何してるの。」 

「何しているってただぼーっとしてテレビして、編み物してお茶してたり、」

 老人は気楽でいいなと思った。


そんな中少し興味深い話が母の口から飛び込んできた。

「そういえば、ゆうきの妹が学校を辞めたんだって。覚えてる?ゆうき、あなたの小さい頃の遊び仲間。」

私は少し驚いて、「え、本当に?なんで?」と尋ねた。

母は少し顔を曇らせながら答えた。「うーん、どうやらいじめが原因みたいよ。ゆうきも相当心配しているらしい。親としては見ていられないって。」

私はそれを聞いて心が痛んだ。私自身、学生時代の苦い記憶が蘇ってきたからだ。

「そうなんだ…。ゆうきの妹も大変だね。」

祖母が話に加わり、「今の子たちは大変ねえ。」と気を落とした様子で言った。

母は私を見ながら、「あなたも昔は大変だったものね。でも、こうして立派に成長して、ひとりで生活してる姿を見ると安心するわ」と励ますように言った。

「それでそのゆうきの妹は今N高に入学しているらしいの。あんたも一時期N高に転学してたでしょ。そのN高。」そう私は不登校で留年しそうになった時、N高に入学しようとしていたのだ。

「そのN高って変わった名前しているね。どんな高校なの」と祖母が興味ありげに訪ねる。

「ネットで授業を受けれる学校。これからはこういう学校増えると思うよ」と私が答える。その時私は実際に現実でN高に行った人がいることを初めてしった。

「ゆうきの妹は一時期引きこもってたけど、N高にいってから笑顔が戻ったらしいよ。」

母が話を続けた。「ゆうきの妹は、一時期引きこもってたけど、N高に行ってから笑顔が戻ったらしいよ。」

「そうなんだ。」私は心の中でほっとした。N高での教育が彼女にとって救いになったのだとしたら、それは何よりのことだった。私もN高にいってればまた違った人生を歩んでいたんだろうな。ところでゆうきは今何しているのか気になったが聞くのは劣等感が刺激されそうなのでやめておいた。


「おばあちゃん、ごちそうさま。」会計は祖母が出してくれるらしい。こんなにおいしいご飯を食べたのはひさりぶりであった。一度この味をしってしまったら、普通のご飯で満足できなくなってしまう。だからもうここには来ないようにしようと思った。


車は静かに漁港の駐車場を後にし、母親が私に向かって言った。「これからどっか行く?」

「いや、行くってどこもないけど。」私の返事は素っ気ないものだった。

母は少し寂しげに「そうなの」とつぶやいた。

その後、祖母が前席から振り返って、「ここらへんでお饅頭買って帰ろうと思うんだけど、どっかいい場所ある?」と尋ねてきた。


「それなら追分ようかんか、田子の月がいいよ。」私は二つの有名な和菓子店を提案した。

祖母は興味津々で「じゃあ、そこ連れてってくれる?」と期待を込めて言った。

「分かった、案内するよ。」と私は応じ、車をそちらの方向に向けた。


追分羊かんの店に到着すると、店内の木のぬくもりと甘い香りが私たちを迎え入れた。店内は落ち着いた雰囲気で、様々な種類の饅頭が並んでいる。祖母は店員と世間話を交わしながら、自分の好みの饅頭を選び、私も母と一緒に数種類を選んだ。

私はその追分羊かんの店で自分のぶんの洋館まで買ってもらった。


母と祖母が帰は私を家までおくってお別れを言おうとした。祖母は玄関前で私を呼び止めた。彼女は私の手をそっと取り、封筒をこっそりと手渡してきた。「これ、少しでも役に立ててね。」と祖母は静かに言った。封筒を開けてみると、中には2万円が入っていた。


私は感謝の気持ちで「ありがとう、おばあちゃん。大切に使うよ。」と返した。祖母は私の手を握りながら、「いつでも帰ってきなさい。」と優しく言葉を加えた。

母はその様子を見守りながら微笑んでいたが、目にはわずかな涙が浮かんでいるのが見えた。彼女がぽつりと漏らした言葉は、まるで長い間の重荷を下ろすように聞こえた。「いつも心配かけてばかりで。」


家に戻った私は、ふとした寂しさを感じ、さきほど祖母に買ってもらった羊かんを一本丸ごと食べてしまった。その甘さがさみしさを少し紛らわせてくれた。それでも、祖母と母が去った後の静けさが、部屋に重くのしかかっていた。



祖母と母が去った後、部屋に戻ると、なぜか息が苦しく感じられた。私の周りの空気は、どこか不自然に静かで、その静けさが私の罪悪感を煽り立てる。祖母と母も私と同様、運命の犠牲者なのだ。運命とは冷酷にも我々の選択を無に帰す力を持つ。


そんな中で、外界からの「行動せよ」という圧力が、私の心をさらに追い詰める。所詮奴らが言う行動とは恋愛や資格、それに関連する事柄ばかりが推奨される。とりあえず行動しろという言説に心底うんざりしていた。かといってすべてをあきらめて穏やかに暮らせという言説にも飽き飽きする。もうすこしトリッキーなことをいう風潮があってもいいはずだ。


そういう言説を目にするたびに、私は一日中引きずられる。行動にはある種の元々の素質が必要だと感じている。ポジショントークにはもううんざりだ。さっきやけ食いした羊かんで気分がさらに悪化し、心中はカオスと化した。私はスマホをおもいっきり壁に投げつけた。スマホは無傷で白い壁からはぼろぼろと表面が落ちてきた。その無情な静けさが私の怒りをさらに煽る。私は奇声を上げまるで何かに取り憑かれたように、スマホを拾い上げ、明日の静岡発東京行きのバスチケットを購入した。そして何時間後かして私は重要な役所に提出しなければならない封筒がなくなったことに気が付いた。

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