第九章:感情を持ち帰る夜
宇宙には夜がない、などと誰が言い出したのか知らないが、この船の回廊を歩いていると、そんな言葉が噓っぱちであることがよくわかる。
足音が消える。壁に貼りつく光源の明かりも、まるで月明かりのように弱く、静かに呼吸しているような青みを帯びていた。深夜の病院か、誰も住まなくなった学校か──いや、そんな風景で例えることすら馬鹿らしくなるほど、この空間には「言葉」が入り込む余地がなかった。
私は、たったひとり、金属の回廊を歩いていた。
別に意味はない。ただ、眠れなかった。部屋の中は妙に暖かくて、毛布の繊維のざらつきが気になって、寝返りを打っては目が冴える。音もないのに、どこかで誰かがため息をついている気がして、居ても立ってもいられなくなった。──そんな夜の習性で、私は歩いていた。
そして、角を曲がったそのときだった。
目の前の壁が、なかった。
いや、壁はある。ただ、それは透明だった。湾曲したガラス越しに、外宇宙が広がっていた。それは、まるで海のようだった。波のない、流れのない、深い深い闇。けれど、そこには微かな光が散っていた。いや、散っているように見えた。
私は、足を止めた。
誰もいなかった。音もなかった。船のエンジン音すら聞こえず、世界は沈黙していた。
──見えたのだ。
粒だった。光の粒。それが、ほんの一瞬、カーテンの裾のように揺れた。空間がひとつ、ふわっとめくれたような感覚だった。ただそれだけだった。
けれど、次の瞬間──
涙がこぼれた。
右目から、つう、と一筋。何の前触れもなく。風も、音も、思い出もない。なのに、私は泣いていた。
「……うわ」
思わず、声が出た。
「なんで……こんなの見て……涙、出るんだよ」
私は目を擦った。冗談のつもりだった。自分を笑うつもりだった。けれど、声は乾いていた。笑えなかった。
綺麗だから? 感動したから? 懐かしい何かを思い出したから?
──違う。どれでもない。理由なんてなかった。
それが、怖かった。何か大事なことを見逃していたような。ずっと我慢していたのに、自分でも気づかずにいた何かが、いきなり扉を壊して出てきたような、そんな感覚だった。
誰かがこの光景を解説してくれたなら。これは〇〇星雲の一部で、かつて爆縮を繰り返した塵の名残で、我々の祖先と同じ材料でできていて──そう、そういう“文脈”が欲しかった。
でも、この光景には何もなかった。
それなのに私は、泣いていた。
──理由がなくても、人は泣けるのか。
初めて、そう思った。初めて、「感じる」という行為が、“意味”から解き放たれた瞬間だった。何かを受け取ったわけじゃない。誰かに触れられたわけでもない。ただ、自分の内側が勝手に動いた。
「なんだよ、これ」
自分に問いかけるしかなかった。答えなどないと知りながら。
まぶたの奥が熱い。鼻の奥も少しだけつんとした。だが、それを恥ずかしいと思う自分も、どこか遠くにいた。
「……泣いた、だけか」
私はそのまま壁に手をつき、少しだけ額を押しつけた。冷たいガラスだった。その冷たさが、なんとなく“現実”を取り戻す気がして。
そして、深呼吸をひとつ。
「理由はないけど……なんか、ありがとう」
誰にともなく、そう言った。返事などあるはずもない。宇宙は沈黙のままだった。
けれど、ほんの少しだけ、胸が軽くなった気がした。
***
食堂というには洒落すぎていて、ラウンジというには落ち着かなすぎるその場所で、私は微妙な椅子に腰を下ろしていた。腰骨が鳴る音がしたのは、たぶん椅子のせいではない。
目の前には、虹を煮詰めて液状にしたような、色彩の暴力とも言える飲み物が置かれている。グラスの形状はどう見ても元・理科のビーカー。ラベルの代わりに「飲むな」と書いておいた方が良さそうだ。
その得体の知れない液体を、トモエ・ケレスはごくりと飲んでいた。まるで何事もなかったかのように。
「……それ、生きて帰ってこれるやつ?」
「おう。情緒の再発酵ドリンク。“懐かし涙味”。今日はこれで攻めてみた」
「攻めるなよ。穏便に過ごせよ」
「でもさ、これけっこう人気あるんだよ。酸っぱくてしょっぱくて、最後にちょっと泣ける」
「それ、ただのうつ病じゃねえのか」
トモエは肩をすくめた。何を言われても気にしない。たぶん、自分でも気にしていない。
「俺ね、感情をリサイクルして飲む運動を提唱してるの。“感情サーキュラーエコノミー計画”」
「絶対に認可降りないタイプの計画だなそれ」
「でも実際、感情って消えないんだよ。使い終わっても、体のどこかにへばりついてるの。だからね、そういうのを煮出して、低温で発酵させて、風味をつけて……」
「待て待て。もう話が発酵しすぎてる」
トモエはグラスをぐるりと回し、にやにやと笑った。
「でもね、本気で思うの。感情って、誰かからもらった瞬間に、自分のもんになるんだって」
「ほう」
「たとえば誰かが泣いてたとする。知らん人でもいい。駅のホームで、知らん女の人が鼻すすってたとする。その瞬間、あーあって思いながらも、心がちょっとだけふにゃっとなる。で、なぜか帰りにラーメン大盛り頼んじゃう。あれ、もうその人の感情、持って帰ってんのよ」
「なんでラーメンになるんだ」
「情緒が塩味なんだよ。塩味系の感情って、お腹にくるんだよなー。消化器と連動してるから」
「そんなバカな」
「でも本当に、感情って持ち帰れるんだよ。そして、自分のものになる。しかもさ、時間が経つと、微妙に味変するんだ。失恋とか、あとで食べ直すと案外いけたりする」
「失恋を“あとで食べ直す”な。もはや食物ですらないぞそれ」
私は頭を抱えかけて、やめた。相手がトモエである以上、この話は常識の範囲では終わらない。話の行き先が毎回惑星系の外縁を越えてくる。
「……さっきさ。ちょっと泣いたんだよ」
トモエがチラリとこちらを見る。
「へえ。なんで?」
「宇宙の光見てたら、なんか勝手に出てきた」
「やっぱり、きてるね。そういう時期に入ったんだよ。“意味もない涙期”。感受性と内臓がゆるくなるやつ」
「老化現象みたいに言うな」
「いや、それは成長だよ。自律感情神経が開いてる証拠。それに、昨日の君、目がちょっととろけてた。あれはね、“感情のピントが外れた目”だよ。よく熟成してる目してたよ、うん」
「やめろ。変な言い方をするな」
「でもさ、感じたものって、もう君の体の一部なのよ。君はそれを否定しても、手のひらの皮膚とか、耳の奥のどこかに、それが住み着いてる」
「……うわ。なんか急に怖くなってきた」
「大丈夫。“情緒は冷蔵保存できる”って、昔の人も言ってた」
「誰が言ったんだそれは」
「俺が今、言った」
私は天を仰ぎたくなったが、そこには天井しかなかった。
それでも、どこかの内臓──たぶん肝臓か小腸のあたりが、トモエの言葉をちょっとだけ納得しているのを感じた。
「お前、言ってることが全部デタラメなのに、微妙に心に残るのが腹立つ」
「でしょ? これが“飲み屋の哲学”ってやつさ。夜にしか効かないけど、効いたらけっこう強いんだぜ」
「なんの宣伝だよ……」
私は椅子を引いて立ち上がった。飲み終わってもない飲み物が、机の上でまだふわふわと色を変えている。
「……これ、売ってんの?」
「ううん、自家製。情緒の搾りかすを瓶詰めして、発酵所でね。企業秘密だよ」
「気が向いたら、通報しとくわ」
トモエはにやにや笑いながら、ボトルを振って見せた。
「じゃあね、センチメンタル養殖中の人」
「二度と言うな」
私は背を向けた。だが、足音が遠ざかるたび、トモエの言葉が体内を漂っているような感覚が消えなかった。
情緒は持ち帰れる。そして、持ち帰ったものは、時間と一緒に熟成して、別の自分になる。
──そんな妄言めいた理屈に、なぜか妙な安心を覚える自分がいた。
その夜、船内では“体験イベント”なるものが開催されていた。「わかりあえる夜を、あなたに。」という胡散臭いキャッチコピーが掲げられたポスターの下、乗客たちはカラフルなプラスチックグラスを片手に、誰ともなく笑い合っていた。
地球のどこにも存在しない色のゼリーが提供されていた。たぶん「味の正体を当てよう!」みたいな企画の一部だったのだろう。私はひと口なめて「これは……スライムと湿布の中間か?」と思ったあと、黙ってそっと戻した。
あちこちで拍手が起き、誰かが即興で踊り出し、無名のパフォーマーが宇宙ゴマを回していた。全体的に“陽気なズレ”でできている催しだった。
私はその端っこに、壁のように立っていた。とりあえずゼリーを持っていたが、まったく口をつけず、味の正体を知る気もなく、ただ目の前を過ぎていく人々の顔を眺めていた。
──そのときだった。
イベント会場の最も盛り上がっていない隅の隅、照明も届いていないような空間に、ひとりの男がいた。しゃがみ込んでいた。背中が壁に押しつけられ、肩が小刻みに揺れていた。
あれ? と思って、もう一度見た。
以前食堂で出会った、再感室ですれちがった、ホサカ・エイジ。無口で、まっすぐすぎて、ちょっとだけ空気が読めない──けれど、とても優しい目をしていた彼だ。
その彼が、今、完全に潰れていた。
息が浅い。目は虚ろ。口は何かを言おうとしているが、音にならない。それは、誰がどう見てもパニック発作だった。
近くにいたスタッフが駆け寄り、「大丈夫ですか〜? あぁ、ホサカさんか、すぐ終わると思うんで」などと言っていた。妙に馴れている口調だった。常連かよ。
周囲の乗客も、数秒だけチラッと見てから、またゼリーの味当てゲームに戻っていた。誰も驚かない。誰も叫ばない。ただ、うっすらと見て、流していく。この“陽気さ”に呑まれた空間では、それがごく普通の反応だった。
私は、ゼリーを持ったまま、気づけば、歩き出していた。足が、勝手に動いたのだ。
声をかけたのが先だったか、近づいたのが先だったか、よく思い出せない。
「……また、会いましたね。大丈夫ですか……?」
その声に、ホサカがゆっくり顔を上げた。苦しげな、しかしどこか冷めた目をしていた。
「関係ないだろ。お前は“忘れる”のが上手そうだ。……俺は、忘れられないんだよ」
その言葉が、思っていたより深く刺さった。
私は、何も言えなかった。ただ、彼がゆっくり立ち上がって、スタッフに付き添われて去っていくのを見ていた。
私の中に、ざらざらした記憶の断片が湧きあがった。
ああ、これ、私だ。
言葉にするより先に、そう思っていた。
昔、何かがうまく言えなかった夜。布団にくるまって、天井をにらんで、声も出せずに泣いていた夜。呼吸の仕方がわからなくなって、トイレで口を押さえて震えていた夜。
それが──目の前に、いた。
ホサカと、目が合った。ホサカは私を見ているのかどうかも分からない視線で、まっすぐにこちらを向いていた。
それが怖かった。痛かった。なぜか、申し訳なかった。
私は動けなかった。声をかけることも、近づくこともできなかった。
ただ、その場から逃げ出すこともなかった。
──この感情、たぶん“受け取ってしまった”んだと思う。
他人の痛みを、見ただけで自分のもののように感じることがある。普通は、それを“共感”とか“優しさ”とか呼ぶのかもしれない。けれど私にとってそれは、もっと違う、“感染”に近いものだった。
あの顔、私も昔よくしてたな。玄関で靴履きながら。風呂場で鏡見ながら。やりたくないことができなくて、できないことがやりたくて、誰にも言えずに泣く──そういう顔。
彼の発作は、数分で落ち着いたようだった。スタッフが肩を抱え、どこか別の部屋に連れて行った。乗客たちはまたゼリーに戻り、誰かが「これ、カニカマ味じゃない?」と叫んでいた。正気か。
私はまだ、同じ場所に立っていた。
目の奥が熱かった。涙ではなかった。でも、なにかが確かに、私の中に沈んでいった。
助けたかったわけじゃない。助けられたかもしれないとも思わない。ただ、彼の姿を、“無視できなかった”という、それだけの事実が、私の中で異様に重かった。
「……やっぱ、同じかもしれないな。あれ」
そんな独り言をつぶやいた。誰も聞いていない。
いや──あれは過去じゃない。今も、それが“自分の一部”なんだ。
そんな気がした。
部屋に戻ったのは、イベント会場を出てからずいぶん経ってからだった。
扉を閉め、靴を脱ぎ、ベッドに倒れ込む。体は疲れているはずなのに、目は冴えていた。眠るどころか、まぶたすら重くない。
明かりはすでに落としてあった。非常灯のようなものが天井の角で青く光っている。その光が、壁に落ちた自分の影を、妙に頼りなく揺らしていた。
私は横を向いて、壁を見つめた。
──ホサカの顔が、そこに貼りついていた。
しゃがみこんで、肩を震わせ、息ができなくなっていた彼の姿。あの無音の発作。誰にも届かない、けれど確かにあったあの苦しさ。
「……なんで、あんなふうになったんだろうか」
つぶやいてみたが、答えが返ってくるわけもない。むしろ、こっちが答えを知ってるような気さえしてしまうのが、また腹立たしい。
あいつが泣いていたのは、何に対してだったんだろう。何かを言いたかったのか。叫びたかったのか。逃げたかったのか。それとも、全部だったのか。
「……私も、ああなってた可能性があるな」
言ってみて、思ったよりもしっくりきた。“かもしれない”ではなく、“そうだった”のかもしれない。
そう思った瞬間、胸のどこかがモゾモゾと動いた。完全に沈めたはずの古い感情が、夜中に勝手に活動を始めた感じだった。まるで心の倉庫の片隅で、誰かが勝手に荷解きを始めてしまったかのように。
ため息をつく。ひとつ、ふたつ、みっつ。
気づけば、それが深呼吸になっていた。
別に意識してやっていたわけではない。ヨガでも瞑想でもなく、ただの“諦めに似た呼吸”だった。
呼吸とともに、少しずつ身体の力が抜けていく。枕が重い。毛布が湿っている気がする。身体の輪郭がぼやけて、感情のほうが先に浮かび上がってくるような、そんな夜だった。
「……もしや彼が、私の代わりに泣いたのか」
口に出してみて、不思議な気持ちになった。
自分じゃ言えなかったこと。感じきれなかったこと。逃げるでも叫ぶでもなく、ただ苦しくて、でもそれすら上手く表現できなくて。そんな夜を、私はいくつも持っていた。
ホサカのあの姿は、それらをぜんぶ集めて“ひとつの姿”にしたような、そんな感じだった。
「今日ぐらいは、感じっぱなしでも、いいか」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。それは、決して名言でも悟りでもなく──ただの“敗北宣言”だった。けれど、ちょっとだけ、それでいい気がした。
感情ってやつは、便利でも合理的でもない。突然現れて、理由もなく居座って、片付けようとすると暴れる。それでも、そいつがいてくれることで、“ひとりでいる感覚”は薄まるのかもしれない。
だからまあ、今日くらいは、同居人として黙って布団に入れてやってもいい。
そんなことを思いながら、私は目を閉じた。眠れない夜は、いつもよりずっと静かだった。
目が覚めた瞬間、「これは夢じゃないな」と思った。
なぜだか、やけに現実感のある目覚めだった。空気の重さ、シーツのしわ、天井のくすんだ色。どれもが生々しくて、まるで五感に手を突っ込まれて揺すぶられたような気分だった。
しばらく、そのまま天井を見ていた。頭はぼんやりしていて、昨日のことを一気に思い出せるほどには覚醒していない。けれど、“何かが残ってる”感じはあった。
身体が重い。
寝不足とか疲労とか、そういう重さじゃない。どこかに鉛玉でも仕込まれたような、でも不快ではない不思議な重さだった。
「……昨日の、まだあるな」
口に出してみる。声が少しだけ掠れていた。
ホサカのこと。トモエの妙なジュースの話。銀河を見て、意味もなく泣いたこと。
どれも、今この瞬間に鮮やかによみがえるわけじゃない。でも、それらが体のどこかにちゃんと沈んでいるような気がした。
──ああ、これは“感情の残り香”だ。
そう思った。背中に貼りついて、寝返りを打っても離れないやつ。朝シャワーを浴びても取れないやつ。でも、なんとなく……悪くない。
「消えてないってこと、ちょっと嬉しいかもな」
「持ち帰れる」なんて思ってしまった自分が、少しだけ、やるせなかった。背中に貼りついて、寝返りを打っても離れない。
自分でも驚いた。昨日の自分なら、「はいはいセンチメンタルセンチメンタル」って笑い飛ばしてたと思う。
でも今は、それを笑えない。というより──笑いたくない。
なんだかんだで、私は昨日、ちゃんと感情を受け取ったのだ。それは、他人の涙でも、自分のため息でも、意味のない銀河の光でも。どこかで、それを「いいよ」と言えるだけの場所が、自分の中にひとつできていた。
それだけで、ちょっとだけ救われた気がする。
感情って、流して終わりじゃないのかもしれない。
たとえば水槽の金魚みたいに、毎日えさをやって、たまに掃除して、ときどき眺めて、ああ今日も生きてるなって思う──そういう付き合い方でも、いいのかもしれない。
育てるものなんだ、たぶん。
そう思って、もう一度、深呼吸した。
空気はやっぱり少し重かったけれど、その重さが、自分の“かたち”の一部になっているような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます