31.ペンネーム

 『公衆便女こうしゅうべんじょ』。


 知る人ぞ知るわたしのペンネームである。


 その昔、わたしはとある官能小説を読んだ。

 当時のわたしは、まだ成人したばかりで、それはもうピュアピュアハートの持ち主だったのだが、その官能小説の〝主人公〟の生き様を見て、言葉を失ったのを覚えている。


 ヒトはかくも美しくなれるのか。

 今となっては、物語の詳しい詳細は思い出せない。

 しかし、可憐で気高く、それでいて、危うくも儚い、刹那に生きるその〝主人公〟のことだけは、今でもはっきりと思い出せる。


 まるで慈愛に満ちた女神のように誰からも愛され、そして、数多あまたの者に思慕の念を抱かせたその〝主人公〟の名を――ヒトは、〝公衆便女〟と言った。


 わたしは、みんなに愛されたいという思いから、このペンネームにしたのである。

 もちろん目立ちたかったというのもあるが。


「――つまりは、公衆便女ちゃん最高ってことだよ」

「うわ……、本気で引くわ……」

「な、なんでよ!?」

「……言いたいことは山ほどあるけど、とりあえず鶴のルーツの一つを知れて嬉しいわ」

「ほんと? 喜んで貰えてわたしも嬉しい」

「――で」

「?」

「……そ、その、公衆便女ちゃんが出てくる官能小説のタイトルは何て言うのよ?」

「駄目! 千恵ちゃんにはまだ早いよ!」


 千恵ちゃんは『ぶー』と言って、頬を大きく膨らませた。

 わたしはその仕草を見て、腹の底から呵呵大笑かかたいしょうする。

 まったくもっていやつめ。


「……ねぇ、また今度、鶴のルーツの二つ目を教えてね」

「わたしなんかので良ければ!」


 ふたりで大きく笑い合うと、わたしたちはお互いのおでこをこっつんこする。


「じゃあ、そろそろ書こうか」


 わたしがそう言うと、千恵ちゃんは『うん!』と大きく頷いた。


 現在の時刻は夕暮れどき。


 夕飯までのあいだ、わたしたちは、それぞれお互いの小説をゆっくりと書き始めるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る