第5話 ライバル企業の工場長代理案件(後編)
課長代理に就任した直後の頃。
白鳥社長から激励の言葉と教訓としてこんな言葉を教えて貰った。
ダニング・クルーガー効果。
それには四つの分岐が存在する。
一つ目。愚かな者の山――少しの知恵を得て『自信に満ちている』状態。
二つ目。無知に気づき絶望の谷――知恵の深さに気付いて『自信を失った』状態。
三つ目。啓蒙の山――自己成長を通して『正しい自信を持ち始めている』状態。
四つ目。継続の道――成熟し『正確な自己評価ができる』状態。
もしかしたら――。
愚問であり、疑問は――。
俺は今まで一つ目の山で少しの知恵と経験だけで物事判断していたのかもしれない。なにより俺は無意識のうちに懸命な彼女の考えを否定していたのではないだろうか?
だとしたら愚かな者は誰なのか?
考えるまでもない。
浅井えり――俺の運命を変える女性なのかもしれない。
決意する――最後のチャンスがまだあるかもしれないと俺はゲームを止め、パソコンと向き合い再び過酷な道を歩む決意をする。
同時に、それが終わったらゲームの続きをすると心に誓う。
履歴書、職務経歴書、履歴書、職務経歴書、履歴書、履歴書、職務経歴書、り……りれきしょ、り……スターしょ、リスタートゲーム、ゲーム、ゲーム、ゲーム、ゲーム、夜イベ、ゲーム、ゲーム、ゲーム、ゲーム、ゲーム、早くしたい、ゲームぅぅぅぅぅ!!!
時が経ち――太陽が沈み月が空を照らす時間帯。
俺のターンぁ!
寝間着と寝ぐせを生贄に、営業マンの俺を召喚!
さらに装備品ワックスとネクタイを装備ぃ!
これで清潔感とできる男感が気持ち上昇ぉ!
後は印刷したリスタート書としょ……しょ職務経歴書をビジネス鞄に納入して革靴を履いて準備完了ぉ!
俺は満を持して玄関の扉を開けた。
ベランダを開けていたことから隣の部屋から生活音は聞こえた。
相手は間違いなく部屋にいる。
そんなわけで、今こそ出陣の刻じゃーーー!
力強い歩みと共に配置につき、
「行くぜ」
自身に言い聞かせ、軽く深呼吸。
「浅井様!」
俺は初心の頃を思い出しながら相手の家を訪問する為、玄関チャイムを鳴らした。
夜ではあるが元気の良さは欠かせない。
恐らく向こうも時間がないだろうし、こちらも時間がないと言う見解のもと世間体は配慮が足りていないことを重々承知での訪問。
故にミスは許されない――ここでミスしたら
ピンポーン!
「はーい!」
部屋の中から男の声で返事があった。
来客中だったのか? と心の中でタイミングの悪さを呪うがここまで来たら後に引けないと覚悟を決める。
ガチャ。
先手必勝!
営業とは相手のペースではなく、まず自分のペースで会話を切り出して相手に自分に興味を抱いて貰えるように戦場を整える所から始まる。
ブランクあり。
スランプあり。
そんなもの
俺は、俺の全力をもって貴女の心を掴みに行く!
スパぁ!!
営業スキル『直角九十度の謝罪』発動ぉ!
「先日は大変申し訳ございませんでした。あれから自分について再度振り返り見つめ返しました。その中で浅井様が――」
深く下げた頭に聞こえてくる声はとても申し訳なさそうだと違和感を感じたので恐る恐る顔をあげ目線を上げると、
「すみません。俺田中ですけど?」
と言われた。
突然のことに頭が真っ白になる。
「えっ?」
「……だから俺田中」
「た、田中様?」
「う、うん」
「浅井様は本日ご不在でしょうか?」
本人以外が出てくる可能性を考慮していなかった時点で――うばぁ!?
身体が宙に浮き、重力に従って落ちる。
「すみません。私の知り合いが飛んだご迷惑をおかけしました」
何者かに背後からハンドバッグで顔面を殴られた俺はマンションの廊下で倒れた。
「あっ……いえ、大丈夫……うわぁ~いたそう、アンタはお大事に」
ガチャ。
開いていた玄関の扉が閉まり出てきた男が部屋の中へ戻っていくとすぐに頭上から声が聞こえた。
「なにやってるんですか! 恥ずかしいので来るなら来るでいいので部屋だけは間違わないでください!」
「えっ? お隣さんなんだから間違えるもなにも……」
「私の部屋は東さんの玄関出て右! ベランダを出て左です。なんで他所様の家に当たり前に訪問してるんですか? ったく……しかも浅井って名前が大きな声で聞こえて玄関開けたらまさかのお隣さん違いしてるし……本当によくそれで営業の仕事できていましたね……はぁ~」
良し! 相手の心を俺に向ける目標は達成したようだ!
同時になにか大事な物を失った気がしたが、今は無視する。
今しかないと俺は禁断の『超ポジティブ思考』を発動して自然な流れで浅井えりの部屋の中へ入ることができた。
■■■
数時間前――。
十五階建ての立派な高層マンション。
そこの十三階にオフィスを構え、渡辺グループは地域密着型企業として成長し市の貢献に務めてきた。
だけど世の中は残酷で突然として終わりを迎えようとしていた。
地域住民から信頼が厚く強いパイプを持つ九州中央工場長の突然の入院。
残された時間は残り僅か。
その間に次の後見人を用意する必要がある。
それも業界最大手の東神グループを相手に戦える人物。
そんな人物など簡単に落ちているはずなどない。
「申し訳ございませんが、彼の起用は失敗になりました」
浅井は深々と頭を下げる。
その先には白髪短髪頭の渡辺会長がいる。
衰えて尚スーツを着こなすイケ親父風の渡辺会長は浅井が持ってきた資料に目を通し伸びた白髭を触る。
それだけでも貫禄がある様はやはり過去の実績があってだろう。
なにもないただ働いてきただけの人間には出せない風格と貫禄を携えた言葉は浅井の胸に突き刺さる。
「そうですか……聞いていた話しと違う結果になりましたな」
「申し訳ございません」
「とりあえず頭を上げてください」
「はい」
ゆっくりと頭をあげた浅井の視界に入った渡辺会長は微笑んでいた。
まるでこうなることがわかっていたように。
「これが東さんの雇用契約書です」
「えっ!?」
話しが飛んだ所ではない。
かみ合っていなかった。
それでも渡辺会長は浅井に向かって茶封筒を差し出した。
厚みから入社に必要な書類関係だと中身についてはすぐに察した浅井が口を開くより先に渡辺会長は言う。
「年俸800万。これは東神グループ中間管理職の平均年収から算出した金額です。これに役員報酬を上乗せします。昨今の業界事情を考えればこれはあまりにも高く人件費だけで工場運営が苦になってしまうでしょう」
「……おっしゃる通りです」
「白鳥社長から聞きました。東神グループの無茶難題に彼は結果で応えた実力者だと。なら先行投資をするに値すると判断しました。どんな手を使っても構いません東さんを取締役工場長としてわが社で起用できるように手を打ってください」
「なぜ会った事もない東さんが必ず結果を出すと信じられるのですか?」
「親友が言ったから。ライバルが言ったから。最も信頼する部下の一人が言ったから。それが理由です。ではこれを受け取って依頼の続きをお願いします」
話しはそこで終わった。
浅井は半信半疑になりながらも茶封筒を受け取り会長室を後にした。
「浅井さん。貴女も東さんに一度助けられた過去をお持ちだ。だったらわかるはずです、東さんは絶望の底から自力で這い上がってきた営業のスペシャリストってことがね、オホホ~」
一人だけが残った会長室では高らかな笑い声が静かに響くのであった。
なぜ彼が退職を選ぶことになったのか。
その本当の理由を知る者の一人として渡辺会長は一人密かに確信するのであった。
浅井えりもまた東を諦めていなかった。
だから他の適任者がいると言う割には一向に紹介してこないのだと。
そう東神グループに太刀打ちできるだけのノウハウがある彼が――。
なにより相手のことを調べる時間は既に残されていない。
ならば、よく知る彼以上に――。
今の適任はいないのだと……。
生コン業界に精通していて顔が利き、尚且つ管理職としての経験を持っていて、営業スキルも持っていて、結果も残せると期待できる、と言った全ての要素を満たす可能性を大いに持っているのはやはり彼しかいないのだと。
そして現職の工場長は言った。
「何度かお会いしましたが私は○さんはとても良い人柄だと思います」と。
つまり、過去の産物がここに来て才能の開花と繋がり始めたと。
種を巻き芽を出し蕾を付けた。
後は水を与え待つだけ。
――人の才能開花の片鱗を見逃す経営者は愚かなり
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