第2話

 菜緒ちゃん、うちに遊びにきてよ。前に来たときはすぐに帰っちゃったでしょう? 今度こそちゃんとおもてなししたいってママも言ってるの。

 裕未が死んでから2週間ほど経ったころから、美奈はそんなふうにしきりに菜緒を誘ってくるようになった。わたし前から菜緒ちゃんと仲良くしたかったの、でもいつも裕未がそばにいたでしょう、菜緒ちゃんに話しかけると裕未が怒るからできなくて。そう言って美奈は、生前の裕未がそうしていたように菜緒についてまわるようになった。

 女の子は――裕未は特に、美奈がそばにいるときに頻繁に姿を現す。だから最初、菜緒は、自分ではなく美奈に会いに出てきているのだと思っていた。

 かえして、と裕未は言う。

 ねえ、かえして。わたしの――をかえして。かえしてよ。

 それだけを裕未は、繰り返し繰り返しつぶやいている。だけど美奈は気づかない。ゆらりと立ち監視するように自分たちを眺めている半身のことを、美奈は一度だってふりかえらない。かわりに菜緒を執拗に誘い出そうとする。

 なにかがおかしい、と思った。なんだか美奈ちゃんらしくない。

 もともと美奈は友達を家に呼ぶのをひどくいやがる子だった。だから遊ぶのはいつも公園か、ほかの子の家だった。クラスメートはだれもそれを、ずるいとは言わなかった。だって美奈の家に行けばもれなく裕未がついてくる。裕未は誰彼かまわず誘い込もうとしていたけれど、もちろん相手にする子なんてひとりもいない。そう、家へ誘い出そうとしつこいのはいつだって裕未のほうだった。

 一度だけ、誘いに乗ってしまったことがある。

 ねえねえ菜緒ちゃん、うちに遊びに来てよ。そうだ、今度の日曜日はどう? 菜緒ちゃんのお母さん、お休みの日もいないんでしょ? そんなのかわいそうだしさみしいだろうから、お昼食べにおいでってママが。うち、ゲームもいっぱいあるよ。

 でもうち、おばあちゃんがいるから。一人にしたくないから。そう言ってもしつこくて、ねえねえねえねえと裕未は執拗に菜緒の腕を引っ張った。

 たしかに菜緒の家は休みの日も両親がいないことが多かったけれど、だからといってたいして仲良くもない裕未の家に行く理由はどこにもなかった。祖母のつくるごはんはスパゲッティだってハンバーグだっておいしかったし、祖母がいればさみしいことなんてひとつもない。そのしつこさは腹立ちを通り越して気味が悪くて、見当はずれな同情をかけられるのがくやしくて、菜緒は何度も、突き飛ばしそうになる衝動を懸命にこらえた。それをしなかったのはただ、もめ事を起こすと、これだから学童の子はと言われてしまうからだ。祖母を悪く言われるのがいやで、菜緒はぐっと黙り込んだ。そうこうしているうちに美奈が青ざめた顔で駆け寄ってきた。ごめんね菜緒ちゃん、ごめんね、裕未やめようよ迷惑だよ、うるさいよあんた口出ししないでよあたしは菜緒ちゃん誘ってるんだから、でしゃばるなよ、そんな口争いが始まった。なんだか美奈がかわいそうになってきて、菜緒はつい、わかった行くよと言ってしまったのだ。

 行って、ひどく後悔した。

 インターフォンを押すと迎えてくれたのは妙にはしゃいだ様子の裕未だった。髪をピンクと水色という左右ちぐはぐのリボンで二つに結わえているのを見て、菜緒は顔をしかめた。彼女なりのおしゃれなのだろうと予想はついたけれど、胸元にケチャップのあとがついたTシャツに、よれよれのスカートを履く彼女のセンスは理解できなかった。

 玄関には、サイズも色もばらばらの靴が大量にあふれかえっていた。もちろん整頓なんてされていない。向きもばらばら、ひっくりかえってすり減ったヒールが見えているものもあって、靴の脱ぎ場に困ったほどだ。しかもぱんぱんになったゴミ袋がいくつも転がっていて、どうあがりこんでいいのかさえわからなかった。

 だけどそのときはまだ、雛子のいうようなゴミ屋敷ではなかった。ただ、異常なほどになにもかもがしまわれていない家だった。

玄関からあがって右手にある部屋はドアが開けっ放しになっていて、あふれだした洗濯物が廊下を侵食していた。薄暗いなかをのぞくと、5畳はありそうな部屋の床一面が積みあがったシャツやハンカチ、靴下などでうめつくされていて、まるで雪がつもっているような光景に、菜緒は息を呑んだ。木製の立派な箪笥と、それからパソコンの載った作業机、本棚もあったような気がするけれど、洗濯物を踏まずにたどりつくことは困難だった。

 見てはいけないものを見たような気がして目をそらした菜緒に、裕未はにいと笑った。かなこちゃんって毎朝、お母さんが洋服を選んでくれるんだって。子供だよね。あたしはちゃんと、自分で選んでるよ。そういうの、自分でできるようにならなきゃだめだよね。菜緒ちゃんもそうでしょう? 菜緒ちゃんはお母さんが忙しいから、自分でなんでもできるんでしょう?

 うん、と菜緒はあやふやにうなずいた。あの床に埋め尽くされたなかから毎朝引っ張り出して洋服を着ているのかと思ったら、想像するだけで胸やけがした。そんな生活、菜緒にはきっと耐えられない。そもそも、人を招いておいてどうしてあんなひどい部屋のドアをあけっぱなしにしているんだろう。あがってまだ3分とたっていないのに菜緒はその家を憎みはじめていた。

 リビングはもっとひどかった。

 シンクからは生ごみのにおいがして、使用済みの皿や鍋がつみあげられていた。テレビのまえのソファには脱ぎ散らかした洋服、使いっぱなしのゲーム機、読みかけの本、机の上にはケーキが半分だけ残っている皿(うっすら緑色がかっていたからたぶん腐ってる)、床には大量のぬいぐるみが雑然ところがっていて、文字通り足の踏み場もなかった。生理用のナプキンがばらばらになって落ちているのを見たときはもう限界だった。

 こんなところへわざわざ招いて、この子はいったいなにをしようというのだろう――。あまりに菜緒の理解を超えていて、めまいがしそうだった。

 そんな場所に、裕未の母親は青白い顔でたたずんでいた。薄く笑って、いまお昼のしたくするからもうちょっと待っていてね、ありきたりだけどカレーにしたの、なんて微笑んで。だけど眼はまったく笑っていなくて、家の状態を恥じるでもなく菜緒を無遠慮にじろじろと眺めまわすその視線にぞっとした。思わずあとずさると、くしゃ、と音がして菜緒は足をすべらせ、しりもちをついた。ふんづけていたのは、新聞に挟まっている広告ちらしだ。気づいていなかったけれど(というよりもものがあふれていて見えていなかった)床にはたくさんの広告がまるでじゅうたんのようにしきつめてあって、呆然と菜緒がそれを見ていると裕未が、こうしていれば汚したって大丈夫でしょと得意げに笑った。ほら、と机の上のケーキを床の上にべしゃりと落として、ちらしごと持ち上げた。

 その瞬間、何かがぷつんと切れた。ごめんなさい、おなかいたいから帰ります、すみません。そう言って、床に手をついて立ち上がろうとしたとき、冷たくぐにゅりととした感触があって見てみると、透明で水色のスライムみたいなかたまりが手にべっとりついていた。ゼリーだった。たまらなくなって菜緒は、裕未たちの反応も見ずに逃げ出した。

 追いつかれたらだめだ、つかまってしまう。なぜだかそんなふうに思って、エレベーターも待たずに4階から一気に階段を駆け下りた。道路に飛び出してようやく菜緒は、マンションを見上げた。4階の、たぶんあの洗濯物の部屋だろう角部屋には窓があって、ミッキーマウスやプーさん、キティちゃんなどのたくさんのぬいぐるみたちが窓の桟に並んでいて、じいっと菜緒を見下ろしていた。そこに今にも裕未や裕未の母親が現れるんじゃないかと思ったら怖くて怖くてたまらなくなって、菜緒は家までの道を一気に駆け抜けた。

 そういえば美奈ちゃんに会わなかった。

 そう気づいたのは家について祖母にしがみついてがたがた震えているときだ。いつもかわいくて、明るくて、おしゃれな美奈ちゃん。彼女があんな家に住んでいるなんて信じられなかった。どれだけ裕未にいじわるをされても、いいのあの子はたださみしいのよと笑う美奈を想うと、やるせなくなって菜緒は祖母にしがみついたままわんわん泣いた。

そのときの話を菜緒は誰にもしなかった。忘れたかったし、見なかったことにしなかった。うわさにさえ上ったことはないからたぶん、同級生であの家を見たことがあるのは菜緒だけだ。

 だから、だろうか。

 だから菜緒だけが、気づいたんだろうか。


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