嘘がたり

橘もも

第1話

 燃えてる、と誰かがつぶやいた。

 いーち、にーい、さああああん。低学年の女の子が太い幹に額をくっつけて、大きな声で数え上げている。夕暮れが近くて空がほんのり赤く染まるなかに、灰色の煙がけぶっていた。まるで雲が空にのぼっていくように、細く長くもうもうと。

 あれ美奈の家じゃね。

 わかるはずもないのにそう言ったのは、睦基だったか悟だったか。校庭に立ちすくんで生徒たちはじいっと、道路の向こうに小さく見えるそのマンションを見つめている。


  *


「知ってる? 美奈の家って、ゴミ屋敷」

 吐き捨てるように雛子がそう言ったのは、向かい合って算数の宿題を解いているときだった。菜緒は驚いて、ノートに走らせていた鉛筆を止める。

「めずらしいね。ヒナがうわさ話するの」

「うわさじゃないもん。あたし、あの子と同じマンションだから知ってるの。最近、においも漏れてきてマジ迷惑」

 そう言って雛子は前髪をかきあげる。そのしぐさが妙に艶めかしくて、同じ5年生とは思えなくて菜緒は、どぎまぎしながら目を伏せた。同級生の女の子たちがみんな、雛子を嫌うのはこういうところだ。あまりに子供らしさがなくて、怖くなってしまう。

「お母さんが忙しいとか言ってるけどさ。うちだってお父さんいないしお母さん忙しいけど、ゴミ捨てくらいちゃんとやるよ」

 頬をふくらませながらも雛子は手を休めない。

「……でもほら。美奈ちゃんち、いろいろ大変だったから」

 菜緒が言うとようやく雛子は顔をあげた。くるるるる、と器用に鉛筆を指の上でまわす。

「……階段から落ちたんだっけ」

「うん。雨の日に、マンションで足を滑らせて」

「それでふつう、頭からいく?」

「ランドセルの重みで引っ張られたんだろうって聞いたけど」

 びしょ濡れになって寒くてエレベーターを待っていられなかったんだと、美奈が泣きじゃくりながら言ったという。

マンションの階段はふきっさらしでその日はまれに見る大雨で、水たまりができるくらい足場が悪くなっていた。姉の裕未はそこで足を滑らせ、コンクリートで後頭部を強打した。即死だったらしく、それはせめてもの救いだねと菜緒の祖母は、わがことのようにさめざめ泣いた。

「……でもなんか、あんまり悲しくないよね」

「ヒナ」

 背筋に凍えるような視線を感じて菜緒は、体をこわばらせた。……聞かれている。ふりむかないように菜緒はわざとらしいほどに雛子の顔を見つめる。

「だってあたし、裕未って大きらいだった」

「……だめだよ、ヒナ。そんなこと、言っちゃ」

「菜緒だってそうでしょ。あの子、いつもあたしたち学童のことバカにして。しょっちゅうここにきてたのもあたしたちをかわいそがるためじゃん」

「それは……そうかもしれないけど」

「菜緒もつきまとわれて迷惑してたくせに」

 学童保育。両親が共働きだったり親が一人しかいなかったりする子供たちが、預けられるもうひとつの家。菜緒たちの住む地域では、小学校の片隅にあるプレハブが学童保育用に善意で貸し出されていた。だから放課後、登録児童ではないのに顔を出して一緒に遊ぶ子供たちも大勢、いた。裕未はその一人だった。友達がいなくて誰にも相手にされなかった彼女も、たぶんここにしか居場所がなかった。

 裕未はなぜだか菜緒になついた。

 ねえ菜緒ちゃん。あたし菜緒ちゃんみたいになりたいなあ。うるさいママもふだん家にいないんでしょ? それに一人っこって最高だよね。なんでも独りじめできるんだもん。いいなあ、あたし、菜緒ちゃんの家に生まれたかったなあ。

 いつも、そんなどうでもいいことをうだうだとしゃべっていた。学童にいる子たちはみんな、親と一緒にいたくても我慢して留守番をしているというのにおかまいなしで。だから裕未が横にいるときは、雛子も誰も決して近づこうとはせず、菜緒にはそれが苦痛でしょうがなかった。

 そんなにいいもんじゃないよ、わたしは美奈ちゃんみたいな妹がほしかったけどな。

 あるとき菜緒がそう返すと、裕未は顔を真っ赤にしてこう言った。あんなやついらないよ、あたしたちほんとは姉妹なんかじゃないんだ、親の再婚で一緒になっただけなんだよ。いつもへらへらしてるけど、家じゃいばりちらして自分が一番じゃなきゃ気が済まないの。ほんとに性格悪いんだから。

 全部、嘘だ。

 そんなふうにすぐにばれるような嘘ばかりついて、しわくちゃの洋服を着て、かすかににおうぼさぼさの髪でへらへらと笑う裕未を、みんな嫌っていた。妹の美奈はいつだって優しくて賢くて、どれだけ意地悪を言われようと虐げられようと裕未をかばっていた。双子なのになんでこうもちがうんだろうと、裕未を憎むほどみんな、美奈を愛した。裕未が無視はされてもいじめられたりしなかったのはひとえに、彼女が美奈の姉だからだ。一度、誰かがこっそり体操服を隠したとき、裕未は有無を言わさず美奈の体操服を奪った。それからは誰も、裕未に手出しをしなくなった。

 だから裕未が死んだときいたとき、きっと誰もがとっさに思ったはずだ。……ああよかった、美奈じゃなくて、と。

 でも。

 うつむいたまま何も言わない菜緒に、雛子は少しばかにしたように鼻を鳴らす。

「菜緒ってほんと、いい子だよね」

「そうじゃなくて」

 近頃、菜緒の前に頻繁に姿を見せる女の子がいる。

他の誰にも見えていないらしい。だけど菜緒にだけははっきり見える。頭から血を流してうつろな目をした、死んだはずの彼女が。

 たぶん今も、いる。菜緒の背後にきっと。そうしてひっそり、雛子と菜緒の会話を全部、聞いている。

「……ま、確かにかわいそうだとは思うけど」

 雛子はもう一度鉛筆をまわすと、教科書に視線を戻した。

「でもさ、だからってごみは捨てなきゃだめだよね。もう1ヶ月も経つんだし」

 うん、と菜緒はうなずく。うしろの女の子がどんな表情をしているのかは、わからない。


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