第12話

 駆け出していくしぃちゃんの背中を追いかけたのは、反射だった。

 動けなかった。三崎って案外おかしな奴だな、そう言って笑ったあいつの顔が目の前によぎる。

 動け、とすくむ足を強くたたく。一歩。また一歩。ゆっくり前に踏み出して、おれはしぃちゃんの背中を探した。直接、ちゃんと聞きたかった。それがどういう結果を招くのだとしても。

 大声でわめいて暴れたかった。怖かった。おれは、生まれて初めてできた大事な友人を、失ってしまうかもしれない。だけど、しぃちゃんを好きになるっていうのは、初めからそういうことだったのに。

 ――帰りたい。

 ここへ来てはじめて、心から願った。こんなところ、もういやだ。一刻も早く抜け出して、おれたちの、まともな正しい世界に帰りたい。いつのまにかおれの足は焦りにまかせてスピードを速めていた。ふっと、視界が揺らいだ。同時に足元を見失う。

 次の瞬間、目の前に広がっていたのは、芝生でも樹木でもなかった。

 赤い炎と叫喚に包まれた、惨劇だった。


 後頭部がずきずきと痛んで、おれは【身体を起こした】。大丈夫かと、血相を変えた見知らぬおじさんがおれをのぞきこんでいる。右手に握りしめられているのは、携帯電話。おじさんの肩越しに見える、真っ赤な炎。

 ――これは、なんだ?

 バスとバスが、横転している。巻き込まれた乗用車も、何台かクラッシュしている。ガソリンに引火して、火の手があがっていた。遠巻きに誰かが叫んでいる。遠くから聞こえる、サイレンの音。

 目眩がした。【息がうまく吸えない】。咽喉もとがひくつき、痙攣を起こしそうになる。

 どういうことだ。どうしておれは、息をしている。

 ――違う。ここじゃない。

 とっさに、目の前の情景を否定する。この場にいることを、全身で拒否する。

 だめだ。おれはここにいたらだめだ。戻らなくちゃ。奏平としぃちゃんのいた、不気味で奇妙なあの場所へ。今すぐに!

 ぱぁん、と耳元で音がした、気がした。

 気づけば、おれは芝生の上に倒れていた。とっさに胸元に手をやる。心臓の音は、しない。ゆるゆると体の力が抜け、安堵が全身をかけめぐる。

「……三崎」

 背後から声がした。怯えを残したままふりむくと、そこにはやけに静かな、薄暗く表情を翳らせた奏平がいた。顔はまっしろで、そしてどこか、遠い目をしておれを見下ろしている。

「お前、いま、消えたな」

「……え?」

「戻ったんだろ、一瞬。あっちに」

 聞いたことのないほど、無機質に響く。いったいどうしちゃったんだ。問いただす声もうまく出ない。

「お前、どこにいた?」

「どこって、ずっとこのあたりに」

「違うよ。いまの一瞬だ。戻ってただろ、ここじゃないほんとうの世界に」

 ひしゃげたバスの車体。そのなかに見えた人の姿。悲鳴に、炎。目の前に広がっていた、否定しようのない惨状。

 一気に光景が目の前に戻ってくる。あれが、ほんとうの世界? おれたちのいた、日常?

「なにが、見えた?」

 奏平の眼差しはやけに静かで、それがよけいに、不安をつのらせる。

「……バス。事故があったみたいだった」

「そばにいたのか?」

「ほとんど目の前だった、と思う。でもなんか、おれ、倒れていたみたいで」

「……そうか」

 奏平は、人差し指でこめかみをかいた。それは、迷っているときの奏平のくせだった。なにか重大なことを話そうか話すまいか、悩んでいるときの。

「なんだよ。……言えよ。その事故がなんの関係があるんだよ」

「本当に覚えてないのか?」

「だから、なにを!」

「お前は知ってるはずだ。だって全部見てたんだから。お前は……死んでないんだから」

 握り締められた携帯電話。

 おれはどうして、鞄じゃなくて手に持っていたんだろう。簡単だ。電話をしていたからだ。

 ――ついたよ、奏平。どこにいる?

 ――バスん中。もうつくよ。あ、お前見えた。すぐ行くからそこで待ってろ。

 耳元で聞こえてきた、奏平の声はやけに不機嫌だった。しぃちゃんと喧嘩でもしたんだろうかと、少し不安になった。

 あれは、いつだ。そのバスは、どれだ。

「……そう、へい」

「思い出したか?」

「違う、バスだろ? あれじゃないだろ、なあ!」

 くすくすくす、と。

 どこからか子供のささめくような笑い声が聞こえた。引き戻される。

 わかっていた、ことじゃないか。ここにいることこそが、その現実の証明だと。

「…………どうして、おれだけ」

「え?」

「どうしておれだけ、今、戻ることができたんだ?」

 芝生をぎゅううと握る。何かにすがっていないと耐えられそうになかった。

「三崎さ、お前、帰りたいって思ったんだろ。元の場所に帰りたいって。だからだよ」

「でもそんなの、今だけじゃないだろ。おれはずっと帰りたかった」

「今までは一人じゃなかったから。あと、……俺が、帰ってほしいって思ったからだな」

 奏平は、少しだけ、痛みをこらえるように口元をゆがめた。

「俺がお前に帰ってほしいと願って、お前も帰りたいって願えば、あっというまに、今すぐにでも戻れるんだ。お前をここに引っ張りこんだのはたぶん、……俺だから」

 釈然としない様子のおれに、奏平はおかしそうに苦笑した。その表情がなんだか、あの敬二という子供に似ていて、びくりとする。

 声が、出ない。全身が石になってしまったみたいに、動かない。

「なん、で、お前が」

 とぎれとぎれにこぼれる声に、奏平が肩をすくめる。わかってんだろ、というように。

「俺が、死んでるからだよ」

 ――世界が。

 終わってしまった瞬間って、こんなだろうか。

 淡泊に告げる奏平の声を耳にしながら、おれはうすぼんやりと、そんなことを思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る