第10話

 三崎が汐織を追いかけて行ってしまうと、俺は一人、小屋の前で佇んでいた。

 三年生になる少し前の冬、廊下で、三崎と汐織が立ち話をしているのを見た。

 そのころから三崎は塾通いで忙しくなって、俺の家に顔を出す機会が減っていた。学校でも俺たちはみんな、進路もクラスもばらばらで、なかなかゆっくり三人で集まれるときがなかった、そんなころだ。

 汐織は辞書を忘れたと、三崎のクラスを訪ねていた。いつもだったら俺のところにくるのに、わざわざ遠い三崎のクラスまで行って借りていた。休み時間の、ほんの数分の語らいのあと、じゃあ放課後に返しに来るねと踵を返した汐織は、愛おしそうにその辞書を胸に抱きかかえた。あんなふうに瞳が潤んで、緊張で頬が上気しているあいつの表情を俺は初めて見た。

 そんな汐織と、目があった。一瞬で、汐織の表情は凍りついた。

 粉雪の舞う日だった。帰り道、しんしんと冷えた空気に刺すような痛みを覚えながら、俺にとりつくように巣食っていた感情――あれは、ああいうのを、人は絶望と呼ぶんじゃないだろうか。

 切れない絆なんて、いらなかった。そんな安心感はまっぴらだ。そんなものより、いつ切れるとも知れない、だから繋がっていたいと願う、刹那的な衝動が欲しかった。だけど俺は知ってしまった。あんな眼差しで俺が見つめられる日はきっと来ない。俺の想いは、報われない。

 外壁に立てかけてあったギターを構え、座りこむ。何も考えたくなくて弦をはじく。でも、それ以上は指が動かなかった。


If I could change the world

I would be the sunlight in your universe

もしも俺にこの世を変えることができたなら

君の世界を照らす陽の光になるよ――


 歌えない。そんな歌はもう、二度と。

 俺に世界は変えられない。あいつの世界の太陽に、なるのは俺じゃない、別の誰かだ。だからもう、あいつのそばにはいられない。そう、思った。

 不意に、甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 そうだ。ポケットに入れっぱなしだったんだ。忘れていた果実を取り出して、実をぱくん、と二つに割る。中から小さな実が零れ出る。やっぱりこれはザクロだと気づく。

「食べるの?」

 背後から、予想もしていなかった声がして、俺はとっさに立ちあがっていた。ギターが、ごぉんと鈍い音をたててころがり、果実も地面に落下する。あーあ、もったいない、と呟いて敬二は自分のポケットから新しい実をとりだすと、俺に放った。

「ずいぶん、咽喉渇いたでしょ?」

「あ、ああ……」

「夜に起きてると、やっぱりよくないね。遊ぶにはもってこいなんだけど、いつ眠りにおちるかわかんないし、いろんなこと思い出すし」

 しゃくり、しゃくり、と敬二はあっというまにザクロを食べあげた。そのしぐさから目を離せない。渡されたザクロに口をつけようとして、でも、やめる。なんだろう。なにがこの実を食べることを、おしとどめているのだろう。こんなに全身で、欲しているのに。

「なんで、我慢してるの?」

 敬二は俺の目の前で新しいザクロを割る。振ると、ぽろぽろと割れ目から粒が落ち、緑の芝生に染みのように散らばった。そのうちの一つをつまみあげて指でつぶすと果汁がぴゅっと飛び出た。指の腹でこすりあわせながら、ぼんやり、汐織のいなくなったほうを見る。

「昔から、我慢するのは得意なんだ。慣れてるから」

「ふうん?」

 思えば物心ついたころから、損な役回りだった。母さんを困らせたくなくて、どんなにさみしくても口にはせず、聞き分けのいい息子でいた。そうすることで父の代わりに母さんを守っている気でいたのだ。だけど、俺のいないところで母さんは別に支えを見つけていた。半分は、俺のためだったってわかってる。一日でもはやく俺と一緒に暮らすことが母さんの願いだったから。だけど、わかっていてもどこか裏切られたような気分になった。新しい父さんは本当の息子のようにかわいがってくれるけど、幼心にやるせなさが残った。そういういろんなことを、でも俺は、しょうがないと思ってやりすごしてきた。

 そんな俺の前に、汐織は現れた。

 しょうがねえなぁって、いつも思っていた。そんな、愛おしい気持ちでしょうがないと思えるなんて、知らなかった。汐織を守るためなら、なんだってできるような気がしていた。それなのに。

 敬二はじれったそうにそわそわとひざを揺らしていた。乱暴にギターをつかんで、じゃかじゃかと音を鳴らす。不協和音に顔をしかめながら、なんでそんなに機嫌がわるいのだと不思議になる。

 変な奴、と首をすくめて、俺はなにげなく指をなめた。

 そのときだ。

 きぃぃぃぃぃぃん、と気の遠くなるような耳鳴りがした。指先一本一本、爪先までなにかが沁み渡っていくような感覚。体の芯がすうっと氷のように冷えていく。

 先ほどまでの渇きは一瞬で消えた。咽喉の裏側まですべて、風が通るように、冷める。全身が痺れたように、ぴくりとも動けない。

「あーあ。食べちゃった」

 言葉とは裏腹に、敬二の声ははずんでいた。ジャジャン! と軽快にギターを鳴らすと、くくくっと敬二は笑った。

 指先を見る。べたりとついていた赤い汁。いま俺が、口に含んでしまったもの。

 ――ああ。

 この感覚は覚えがある。あの粉雪の舞う静かな空気で、俺を支配していたものと同じ。

 もう歯止めは利かなかった。俺は敬二からザクロを奪うようにつかみとると、餓鬼のようにむさぼった。気分が爽快に晴れていく。風が、脳の奥の奥まで吹きさらす。

 靄が、消えていくようだった。今まで不鮮明だったことが、明確になっていく。

 乗り込んだバス。汐織の苦しそうな顔。三崎にかけた電話。悲鳴。ブレーキ音。そして――。

 そして一つの真実に、たどりつく。

「……敬二」

 こぼれ出た声はあまりに低く、まるで俺のものじゃないみたいだった。

「どうしたの? びっくりした? おれね、これでも気を使ったんだよ。教えてもよかったんだけど、それじゃあ、あっちの二人もショックでしょ?」

「敬二、俺は」

「まだあるよ。食べる?」

「ちょっと黙ってくれ!」

 こらえきれず叫ぶと、つまらなそうに敬二は口をとがらせた。なんだよ、親切にしてやってんのに。そう言いたげな拗ねたような態度。だけど目だけは、笑っていた。おかしくておかしくてしかたがないというように。そこに邪気がないから、よけいにぞっとする。

 だけど俺は、そんな敬二と同じなのだ。

 俺は、――死んでる。もう二度と、日常には戻れない。

 下唇をつきだして、ぼぉん、ぼぉんと弦をはじいている敬二に問う。

「……あいつらは。汐織と、三崎はどうなんだ」

「さあ? 三人一緒だと、匂いが混じってわかりにくいもん。でも、眼鏡のおにーさんは違うんじゃない? これ、食べたくないって言ってたでしょ」

 思い出す。三崎は、そんなものいらないと、はっきり嫌悪を示してはねのけていた。

「一応、予防線みたいだよ。これ食べちゃったら、もう抜け出せないから。死んでない人には、すっげえ嫌な匂いがするみたい」

「じゃあ、汐織は……」

「おねーさんは、少し欲しそうだったよね。あんたほどじゃなかったけど。てことは、こっちに近いのかな。もしかしたらまだ、まにあうかもね。境目にいるとしたら、それも時間の問題だろうけど」

 この実を食べれば、渇きは消える。だけどそのかわり、二度とこの場から抜け出せない。そのことをいやおうなしに、体に染み入ることで理解させる効力が、どうやらこの果汁にはあるらしかった。生きているときに、自分の生を疑わないのと同じだ。俺はもう、自分の死を受け入れるしかできない。

 わめくことも目をそむけることもできないよう、体に染みこませて理解させるためにこの実を口にするのだと、いまの俺はもう、知っている。

 わななきながら、両手で顔を覆う。口からこぼれるのは嗚咽ばかりで、そのどれもこれもが言葉にならない。皮肉なものだった。この実を口にして、自分の死を絶望的に悟って、ようやくおれの眦から生暖かい水分がにじみ出る。

 こんな状況になってやっと、泣くことができるなんて。

「そんなに落ち込まないでよ、おにーさん」

 鼻歌交じりに敬二は、ギターを鳴らす。

「自分だけっていうのがいやならさ、これ、食べさせちゃえばいいじゃん。おねーさんならきっと、食べてくれるよ。眼鏡のおにーさんは難しいかもしれないけどね」

「なに……?」

「そしたらさ、ずっと一緒じゃん? ここ、仲間いっぱいいるから淋しくないよ。そのうちいろんなことも忘れちゃうし」

 果汁にぬれた指先に、目が留まる。芝生にこぼれた小さな果肉。目に突き刺さるような、赤。

 これを食べさせる? ――汐織に?

「そのへんにいっぱいあるよ。なんなら、場所、教えてあげようか」

 まるで悪魔の囁きだ。だけど俺にはその誘惑を、即座にはねのけることができない。

「あ、明るくなってきた!」

 ぴょん、と飛び跳ねて敬二は手近な樹にのぼりはじめた。軽々と幹をつたって、太い枝の上に立つ。いつのまにか星の光はどこかへ消え、薄暗さも姿を変えて、空を赤く染めていた。こんな場所にも、夜明けがあるのか。〝明日〟なんてどこにもないのに。

 ――俺はどこにも、行けないのに。

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