第7話

 ぼろろん、ぼぉん、ぼろろろん。

 空虚な空間に、調子はずれのギターの旋律が舞う。

 ようやく体の震えも治まって、わたしはよろめきながら立ち上がった。どうしてだろう。体が震えたり、声が上ずったり、息をしていないわたしたちにできるはずがないのに。

 だけどここはそういう場所なんだ、と妙に冴え冴えとした頭で理解する。わたしたちはまだ死んでいないのかもしれないけど、生きてもいない。だけど生きているときの常識を引きずってここにいる。だから、今までと同じような反応を体はしてくれる。

「そんな顔しないでよ。まだ、決まったわけじゃないからさ」

 そう言うと敬二くんは、瞳の奥を輝かせて、んふっと奇妙な笑みで顔を歪めた。

「たまにいるんだよね。死にかけてるのか呼ばれたのかは知らないけど、迷い込んできちゃって、そのへんうろうろしてる奴。ま、うろうろしているうちに仲間入りってこともよくあるんだけどさ」

「じゃあ俺たちも、誰かに呼ばれたってことか?」

「さあ? そんなこと、おれが知るわけないじゃん。だけどもしあんたたちがそれを思い出せたら、きっと元の世界に帰れるよ。試してみたら?」

 奏平の問いかけに、敬二くんはくつくつと咽喉の奥で音を立てる。

「……もし思い出せなかったら、どうなるの」

「そうだなぁ。〈迷いの小路〉で永遠に彷徨い続けるしかないんじゃないかな? 死ぬことも生きることもできずにね」

 びくりと体を震わせると、敬二くんは待っていたように眦を下げて半月をつくるように口元を歪めた。その一言一句にわたしたちが翻弄されるのが、愉快でたまらないというように。

 自分が支配者であることを得意とする傲慢さ。その態度は、わたしの知っている敬二くんというよりも、永遠にネバーランドで飛び回っている少年のようで、ぎくりとする。

 そして敬二くんは、パーカーのポケットに手を突っ込んで、さっきしゃくしゃくと食べていた真っ赤な実を取り出した。

「ねえ、これ欲しい?」

 瑞々しく、そして毒々しいまでに赤い果実。思わず手を伸ばしかけたとき、三崎くんの嫌悪の滲んだ声が飛んだ。

「いらない。……そんなもの」

 驚いたように奏平が振り返った。ああ、やっぱり奏平も咽喉が渇いているんだとそれでわかる。

「……どうしたんだ、三崎」

「しまってくれ、そんなもの。見たくもない」

 ふうん、と興味深そうに頷いて敬二くんはあっさりポケットに果実をしまう。名残惜しくてその動作一つ一つを食い入るように見守る。それさえも敬二くんの手の内のような気がしてしまう。

「そうだ。このギター、貸してあげるよ。暇つぶしに使うといい。持ってると、おれの仲間も寄ってくるから」

 敬二くんは思いついたように手にしていたギターを地面に置いた。そして、わたしたちがなにかを言うより前にあっというまに踵を返し、子供たちの消えた方角へと走り去った。

 ――違う。あんなの、敬二くんじゃない。

 ご両親の揉め事に晒されたせいで厭世的にはなっていたけれど、敬二くんはいたって普通の小学生だった。あんなふうに、人を食ったように笑う子供じゃなかった。

 だけど姿形は敬二くんそのものだし、それにギターは、奏平が敬二くんに教えたものだ。

 うちに来たばかりのころ、なかなか警戒を解いてくれない敬二くんに、奏平はギターを渡した。弾いてみろよ、それ、死んだ父さんのやつなんだ、と。

「俺が生まれたばっかのときに死んじゃってさ。だから今の父さんとは、血がつながってないんだ。俺が小学校に入る前に母さんが再婚して、それで母さんと一緒に暮らせるようになったんだけど」

 奏平のお母さんは看護師で、経済的には困らないけれど、生まれたばかりの奏平を育てながら働くのは大変だった。だから幼稚園を卒園するまでは、おばあさんの家に預けられていた。そんなことをさらりと語りながら奏平は、お前とちょっと似てるよな、と軽く笑った。

「ま、いろいろ大変だと思うけどさ。家も近所だし、淋しくなったらいつでもうち来いよ」

「……ガキじゃねんだから」

 敬二くんは目をぎょろりと動かして、鼻の頭を真っ赤にしていた。やがて敬二くんは、奏平の部屋に入り浸るようになって、暇さえあればギターに触れるようになった。蚊帳の外に置かれたわたしは、二人の邪魔をしないようにその音色に耳を傾けた。


Would you know my name if I saw you in heaven?

Would it be the same if I saw you in heaven?

もし天国で出会ったなら、

君にはぼくがわかるだろうか。

君は僕の知っている、君のままだろうか。


 奏平が一番よく弾くその曲を、帰るころには敬二くんは完全にこなせるようになっていた。

 けれど皮肉なものだった。

 天国で――ネバーランドで出会った敬二くんには、わたしたちのことがわからなかった。そして敬二くんも、わたしたちの知っている彼とはやっぱり、少し違っていた。

 わたしは間違っていたんだろうか。

 ピーター・パンが好きでネバーランドに憧れた。ずっと〝今〟を維持できるならそれに勝ることはないと思っていた。そうすればきっと、誰も傷つかずに済む。世界は穏やかに保たれる。

 だけど亡くなったときとほとんど変わらない敬二くんのうしろ姿に、言いしれない恐怖が背筋を撫でていく。わたしが望んだのは本当に、そんなことだったのだろうか。

 そんな逡巡を見抜いたように、三崎くんが独り言のように呟く。

「……ぼくさ、実を言うと、『ピーター・パン』の物語って、あまり好きじゃなかったんだ」

 ネバーランド――子供だけが遊びまわるおとぎ話の国。大人のいない、自由で気ままな世界。

 だけどそれは、最上級の否定だ。大人にならない。変わらない。決して先には進めないし存在しない。そんな、ありとあらゆる、否定。

「だから、あの子がここをネバーランドって呼んだとき、納得した。腑に落ちた気がしたんだ。だって……生きるって、変わっていくことだ。それを無理に止めたら、死んじゃうよ」

 わたしは何も言えなかった。ただ、敬二くんの消えた方角を見つめていた。

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