第5話

 眠りから覚めた少年は、また一つ何かを忘れていることを知った。きのうまではおぼえていたはずの、だれかの顔。あたたかくて、しあわせで、それだけはぜったいに手放したくないと願っていたのに、失ってかなしいという気持ちさえ起こらない。それが少し、さみしいような気がする。

 体を起こす。幹のしっかりした樹のうえにのぼって、安定感のある枝のうえで夜を過ごす。最近はもう、寝ているあいだに落っこちてしまう、なんてことはない。記憶は失われていくのに、ここでの体感はすべておぼえていく。不思議だった。体の記憶と心が記憶していることはべつなのだと、この世界に来てはじめて知った。

 隣の枝にひっかけておいたギターが、ぷらぷらと揺れている。

 ギターに関する記憶も、なにもない。どんなうたが好きだったのか。どうして自分はギターを弾けるのか。そもそも自分はこの楽器が好きだったのか。なにもおぼえていない。だけど、弦をはじくと響く音に、心地よさをおぼえる。指が勝手に、タイトルもわからない曲を奏でる。

 不意に、頭上でがさりと音がした。十歳くらいの子供が枝をつたっておりてくる。

「新入りだな」

 少年はうなずいた。そわそわと、体がおきだしてしまったのはそのせいだろう。風が変わった。においが、違う。異質なかおりと振動をはらんでいる。

「しかも、一人じゃないぜ。どうする?」

 少年は、ううん、とうなった。リーダーである彼に、すべての決定権はある。新入りを迎えるも、排除するも。たいていは仲間に入れてやるけれど、たまに、いけすかないやつや、状況を把握できずに無礼なやつもいる。そういうときは、しきたりを隠して〈迷いの小路〉に誘導してやるのだ。そうすれば、【二度とどこにも戻れなくなる】。

 だけど決めるにはとにかく、会ってみなければはじまらない。

 少年は、ギターをつかんでひらりと枝から飛び降りた。それをみて、子供が口笛を鳴らす。

 出発の、合図だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る