いつか、ネバーランドで
橘もも
第1話
汽笛のように、白い息が空に上がる。つの笛をくわえた少年のブロンズ像を見上げながら、わたしはかじかむ手をカフェラテの入ったカップで温めた。
少年は一人だ。足元の台座には彼を求めて、翼を背に持つ妖精たちが身を乗り出しているけれど、少年は見向きもしない。何物にも囚われないのだというように。
わたしはかつて、彼に出会った。何処にも存在しない国で、大人になることをやめて永遠に遊び続ける少年に。そして――知った。前に進むことのできない恐ろしさを。
いつまでも時を止めていたかった。停滞を望むことで、移ろう心から目を背けていた。大人になるということが決断するということなら、前になど進まなくてもいいと思っていた。
そんな浅はかな自分を、思い出すたび心臓が握りつぶされる。だからわたしは、ここへ来る。後悔を失わないように。彼の笑顔を忘れないように。
それだけがわたしにできる、たった一つの贖罪だから。
☆
茫然自失、という四字熟語が脳裏にぱっとひらめいた。
参考書の、見開きページの左下。彼のあまりの暴言に、僕はぼうぜんじしつとするほかなかった。意味、呆気にとられて我を忘れること。文言と一緒に、先月まで通っていた塾の、ビルの一室の情景までよみがえる。おかしなものだった。肝心の受験当日、俺は「茫」の字がどうしても思い出せず「荘」に似たものしか書けなかったのに。
目を閉じたまま、まぶたのうらに四つの漢字をゆっくり思い描く。大丈夫。俺は大丈夫。深呼吸して気持ちを鎮めればきっと、なにもかもよくなっているはずだ。さあ――。
――と。
息を吸おうとして気づく。俺は今、息をしていない。
そうっと薄目を開けると汐織と目があった。目元にくしゃくしゃと皺を寄せて俺を見る。やめてくれ。そんな目をされたって、俺には何もできない。
「奏平……」
と、すがるように俺の名前を呼んだのは三崎。
だだっぴろい公園のど真ん中。力が抜けたように俺は芝生の上に座り込んだ。無意識に左胸にあてられた手には、なんの鼓動も伝わってこない。ちくちくした葉の感触はこんなにも鮮明なのに、いったいどういうことなのだろう。どうやら俺は、俺たちは死んでしまったようなのだ。
……まいったね。
卒業パーティをしようと、言い出したのは汐織だった。幼なじみの高橋汐織と、中学の頃からの同級生の三崎佑也。卒業式のあと、久しぶりに三人で顔をあわせたときのことだ。
「今日は、それぞれのクラスで謝恩会でしょう? だから改めてお祝いしようよ。三人で集まれるなんて、それが最後かもしれないし」
汐織は秋早々に、指定校推薦で女子大への進学を決めていた。俺は地元の四大になんとか合格したばかりだったし、三崎は本命大学の発表はまだだったけれど、滑り止めの私大は合格。どう転んでも東京に行くことが決まっていた。汐織の言うとおり、春からはみんなバラバラだ。
ぐずる俺をよそに、賛成、と三崎が手を挙げた。
「でもぼく、休みになれば帰ってくるから。簡単には会えなくなるけど、なにも変わらないよ」
汐織を安心させるようににこにこ笑う三崎が妙に癪にさわった。
変わらないなんて、あるはずがない。
そもそも、三年生になったころから俺たちには少しずつ距離ができていた。放課後にうちに集まることも、休みの日に出かけることもなくなっていたのだから。
「……奏平は、いや?」
胸につけた薔薇の造花をいじりながら、汐織は俺の顔をのぞきこんだ。緊張している、というよりも不安がっているのだとすぐにわかった。
いつからそんなふうに汐織は、俺の顔色をうかがうようになったのだろう。そう仕向けたのは自分なのに、俺の胸はぎしぎしと痛んだ。わかったよ、と答えたのはそんな自分に目をそらしたかったからかもしれない。
汐織は、ほっとしたように口元をほころばせた。
「じゃあ、約束。絶対だよ」
その笑顔に、マシになるかと思った胸の痛みはさらに募った。
そして今日、同じマンションに住む汐織は朝からうちに押しかけてきた。ゆうべ焼いたのだというケーキやキッシュ、唐揚げなどを携えて――そしてそう、ピクニックしないかと言ったのだ。今日はそれまでの曇天が嘘のように陽が差していて、肌寒さは残っていたものの凍えるほどじゃなかった。めんどくせえよ、という俺の反論は無言のうちに却下されて、しかたなくタッパーにつめるのを手伝った。そこまでは覚えてる。だけどだったら、その荷物はどこにいった? 俺たちはどうして手ぶらでこんなところにいるんだ?
おかしいのはそれだけじゃなかった。この公園は、ゆうに五十ヘクタールはあるこのへん一帯の憩いの場で、観光スポットみたいなものだ。今日みたいに天気のいい日ならなおさら、数十メートルおきに誰かにすれ違うはず。
それなのに誰もいない。物音一つしない。
公道にも車一つ走っていないし、すぐそばの団地も静まり返っていて薄暗く、あたり一帯にぼんやりと霧がかかっている。……頭がおかしくなりそうだ。
「奏平、……どうしよう」
抱えた膝におでこをこつんと載せて、汐織はくぐもった声を出した。
泣いてるのかと様子をうかがうけれど、鼻をすする気配もない。泣き虫のくせに珍しい、と思いかけて、ああそうかと納得する。そういうことさえも今の俺たちにはできないんだ。俺はわざと乱暴に汐織の頭をかきまぜた。
そのとき、不意に俺を――俺と汐織を見下ろす視線にぶつかった。眼鏡の奥で、三崎の眼が傷ついていた。そっと、見ないふりをして目を伏せる。
だからいやだったんだ、俺は。パーティなんてしたくなかった。この公園にだって来たくなかった。二人を怒鳴りつけたくなる衝動を懸命にこらえる。
公園の中央には、大きな壁画がある。この街から出た画家だかイラストレーターだかが描いたらしい、おとぎ話をモチーフにしたもの。それを由来にここは、ピーター・パン公園と呼ばれている。
イギリスからの帰国子女で、ピーター・パンの物語が大好きだった汐織は、日本に来て初めて好きなものが見つかったとはしゃいでいた。あのね、ロンドンにケンジントン公園っていう場所があるの。本物の、ピーター・パンの公園だよ。いつか一緒に行こうね。だって奏平は、わたしのピーター・パンだから。――幼い汐織の声がよみがえる。
二度と来たくなかった、約束の場所。そこで俺は死んだのか。汐織とのぎこちなさを残したまま、三人一緒くたに、いつのまにか、知らないうちに。
ついていないにも、ほどがある。
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