今、彼らの授業を受けたい

 ニュースを見ながら、小学校の先生と中学校の先生のことをふと思い出した。

 別に彼らが何か事件に関わったとかではない。テレビの端に映っていたとかでもない。私の古い記憶の中の彼らが少しだけ動いたのだ。だから思い出した。

 というのも、私は彼らの言葉をよく覚えていたからだ。彼ら、というのは正しく言うと二人の先生なのだが、その二人に共通していたのが戦争教育に熱意を持っていたことである。

 小学校の先生はなかなか熱い部分を持った先生だった。先生でもなければ多分に苦手な類の人種だったのだが、私はその先生に三年間担任をもってもらった。クラスメイトのおかげもあるのだろうが、その三年間はほどほど楽しかったと記憶している。

 そんな先生は六年生の頃に戦争の授業を私たちにした。他のクラスがどうだったのかは知らないが、それなりに力を入れてやっているなと思った。わざわざ視聴覚室を借りてジブリの『火垂るの墓』をクラスで鑑賞する機会を与えるくらいだった。日本の戦争の記憶だけでなく、現在起きている戦争のことまで教えてくれたのはあの先生が初めてだったと思う。授業の感想文みたいなものを書かされたが、結構熱のこもった物を提出したのだが、それにも共感してくれて嬉しかったのを覚えている。

 中学校の先生は社会を担当していた。歴史を教えて貰っていたから当然その辺の話は授業で扱った。というか、その先生は雑談が多くてよく脱線していたから、そこで話されたことだったかもしれない。小学校よりも理論的、現実的にその先生は戦争を語った。先生は出身が戦争の記憶が色濃く残る場所らしかったから、余計にその熱量は、静かではあったが、確かにあった。

 二人に共通していたのは戦争は何があっても駄目だと言い切ったことである。大人が断言したことというのはどうにも子供心に残るもので、私は今でもそれを思い出したりする。戦争は駄目だという当然のことを当たり前に言ってくれた大人の姿が、私には今でも眩しく見える。

 そして今、私は思う。昨今の世界情勢はわざわざ言葉にするのも馬鹿らしいような凄惨なもので、坂を駆け下りているような不安感がいつまで経っても消えない。自分の矛や盾を正当化する声が絶えず聞こえる。

 今、彼らはどんなことを生徒に伝えているのだろう。彼らの今の授業を受けてみたいと思った。だが、私は大人になってしまったから、全てに納得や共感はできないのかもしれないという恐怖がある。ただの綺麗事だと思えてしまったら。そう思うともっと怖い。変化の一番恐ろしい部分はこういうことなのではないかと思ったりした。

 どうか彼らにはいい教えを子供達にしていてほしいと願うばかりだ。時には言い切るような強さを持って生徒に向かった彼らを、私は今になってようやくとてつもなく尊い存在なのだと気づいた気がする。また次回。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る