バタフライエフェクトになる未来を信じてる

 ニートの日課は散歩である。

 ほぼ毎日近所の川沿いを歩き続けている。ぼんやりと考え事にもならないことを考えながら歩く。

 ちなみに私は運動が好きではない。むしろ嫌いだ。苦手でもある。そんな私でも散歩が続いているのは、あまり散歩を運動として捉えていないからだ。

 先ほども述べた通りぼんやり頭を動かしながら歩いている。それはもはや運動ではなく自分との対話であり世界との慣らしである。

 まず外に出ることで今日の天気を知る。晴れとか曇りとか、風が強いとか湿気が高いとかいう情報が一気に流れ込んでくる。頭にではなく身体がそれを受容する。人の動きを見て、あの人もこの人も働いていて偉いななどと思う。この時ばかりは言いようもない不安と劣等感を抱く。

 が、それは歩いているうちに徐々に薄まっていく。運動による作用なのだろうけれど詳しいことはわからない。ただあまりマイナスな気持ちに引っ張られることはない。

 それに世界を見ているとまあいいかという気になるのだ。

 この前まで蕾だった花が咲いていたとか、風の匂いが変わってきたとかそういうことに触れていると現実を忘れられる。私が何もしていなくとも世界は着実に時間を刻み美しい形を続けている。そう思うとどうでも良くなる。

 時折自分という存在から手を離したくなる。元々あまり明るい性格ではないからそう思うことも珍しくはない。こういう時は大抵自分がいたという痕跡をこの世から消したいと思う。

 もしその全てを消せることが可能になったとしたら。自分で責任を取れるとしたら。だが、それは意外と難しいのだなあと思った。まず人の記憶から消えなければならないけれど、家族友人等名前のある人は特定ができるが、通りすがる人のことまではわからない。誰かが珍妙な格好をしていた私を覚えているかもしれない。そんな私の記憶を持つ彼らを特定するのは難しい。

 そして散歩の時に私に踏み潰された虫や草、摘まれた花。彼らも私がいなければ今もまだ生きていたかもしれない。生物だけではない。私によって踏み締められた土、私が踏んだ水たまり、私のくしゃみによって動いた大気、その全ての責任を元通りにしなければならない。それは途方もない作業ではないか。

 どうも人間というのは自分本位でしか考えられないようにできている。それが徐々に狭くなってくると消えたいと思うようになる。誰にも何の作用もしないのならば消えても構わないと、そう思えてくる。

 だが、人の業は思った以上に深く、なかなか世界から自分を切り離せるものではない。呼吸をするだけで地球の酸素を借りている。そしてそれを二酸化炭素として返却している。それだけで世界と関わりを持ってしまっている。繋がりがない人間はいないのだと強く実感する。人間はかなりの強度で世界と癒着している。

 というのがこの前散歩中に考えたことである。得体の知れない孤独も怖いが、離れることができない繋がりというのも怖いものだと思った。また次回。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る