肩書きと制服と若さ

 無職になってすぐの頃考えたのは、ああ、今捕まったら無職として全国に報道されるんだということだった。私の肩書きは無職。自分で選んだ結果がこの事実なのに、重くのしかかった。私は無職なんだと思い知った。

 つい数日前までは学生だったのに、人間としてそこまで変わったわけではないのに肩書きが変わる。四月が私を変えた。

 私は学生という肩書きが好きだったのだなあと気づいた。学校は嫌いだったけれど、学生という肩書きは好きだなんて愚かな奴だと自分でも思う。

 なぜ学生という肩書きが好きだったのかと考えた。そして答えが出た。未熟だからである。そしてその未熟さを世間が許容してくれるからである。

 私が一番好きだった肩書きは『高校生』だ。高校自体が純粋に楽しかったとは言えないが、高校生だった自分は嫌いではない。

 それに比べて『中学生』という肩書きは好きではなかったように思う。中学生の頃はまだ背伸びをしたい年頃だったのだろう、子供扱いされているような感覚が強かったと記憶している。早く高校生になりたいとは思っていた。それは多分に通っていた中学校がなかなかに厳しい学校だったということも関係しているのだろうけれど。

 だから高校生になれたこと自体は自分の中で大きかった。嬉しい、という言葉は相応しくない。例えるならば無表情だが軽やかに足を運んでいる気分であった。ウキウキではない。高校もなかなかに厄介な場所だった。その全てを肯定する気はないので、楽しかった嬉しかったという眩しくポジティブな言葉は使いたくない。

 思うに、高校生は私が幼い頃に見ていた漫画の中の住人だったのだろう。幼い頃から漫画は読んでいた。その主人公たちは大概高校生だったりそれくらいの年齢が多い。漫画という空想に憧れていた私は無意識のうちに彼らと同じ目線を味わいたかったのだろう。だから制服も嫌いじゃなかった。スーツは好きになれなかったけれど。

 制服が身分証明だと思っていた。だから好きだった。中学の頃より通学の距離が伸びたから余計にそう思った。公共の施設の中で自分を勝手に証明してくれる。高校生ですと誰もがわかる。社会人になれば年齢職業に合わせた制服が存在しない。情報が無い。わからない。わからないものは怖いのだなと実感する。

 高校生は若い。まだ心身ともに発達の段階で未熟だ。若さゆえの未熟は一概に糾弾することはできない。何せまだ若いのだから。若いとまだ学びが足りないことも多くあるし、知らないこともたくさんある。そんな未熟は愛しさすら抱く。実際、高校生を数年前に辞めた私は今の高校生に対しそれに似た感情を抱いている。

 許容している。高校生だったあの頃は同年代で未熟な人間がいるとどこか疎ましかったのに、今はそれを許容できている。得体の知れない恐ろしさを覚えた。

 若いということはそれだけで得だと思った。大人の世界は何かとルールが多く、それを守れないと反省文や教師からの叱責よりも痛い鞭で殴られる。反省する機会や正しい指導の下叱ってくれる相手がいることがどれだけの救いなのだと思う。社会でルールを守れなければ、ただ切り離されるだけだ。見捨てられるという方が近いのかもしれない。若い頃はそれが自由だと思っていたけれど、今は無慈悲だと思っているから老いたなと実感する。

 もし今犯罪に手を染めたとして(絶対にしてはいけないとちゃんと思っている。犯罪はいけない)、無職の私と違う世界線の手に職をつけた私、どちらが世間から糾弾されるのだろう。肩書きの違いで変わるのだろうかとふと考えてみる。

 変わらなければいいなと思う。どっちも同じように世間から罵られればいい。肩書きなんかに騙されてはいけない。相手は同じ罪を犯している。以上も以下もない、同じように罵倒しろ。

 自分を証明することは難しいとつくづく思う。肩書きだけで証明できるものでもないし、制服で全てが語れるわけでもないしなと今は思う。確固たるものが欲しくなるが、それもまた難しい。一つで全てを補うことは難しいからなあ。また次回。

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