第10話 帰れる。かえれる。カエレル。
意味ありげなことをカロリーヌが言った翌日。
なんと珍しく、実技による授業に代わって座学の時間を延ばすことになった。
精神を形作るものの中で魔法が大部分を占めているような人が、まさかそのような方法を取るとは流石に驚いた。
授業を終えるだけでも血涙を流さんとばかりだった人なのに。
そして同時に、おそらく俺は大変な事を聞いてしまうのではないか、という予感に襲われた。
何せ、授業を行う場所が場所だからな。
現在、俺たちはいつも座学を行う書斎…ではなく、この屋敷の地下室へとやってきている。
普段からただの物置程度でしか利用されていないようで、全体的に埃っぽい。
リリアーノにこの部屋を使わせてほしいと言った時には、いったい何をするんだという疑問の眼差しを向けられたものである。
そんな粗末な部屋へとやってきたのだが、カロリーヌはここに入るや否や、外部への防音結界の魔法を発動しては持ってきた蝋燭に火を灯し、何やら注意深く辺りを窺うようにしていた。
その顔つきは見たことないほど妙に神妙で、俺も思わず顔をこわばらせてしまった。こんなにも入念なことをして、いったい何が始まろうとしているのか、と。
「……うん、これなら大丈夫そうですかね」
一通り確認が終わったのだろうか、カロリーヌはいつもの口調でそう言った。しかし声量はどことなく控えめで、内緒話でもするかのようなものだった。
「いったい、何を始めるというのですか?」
「ふふふ。そう焦らないでください、いちからお話ししますので」
冗談めかしく不敵に笑みを浮かべるリリアーノは、そう言うとおもむろに脇に抱えていた分厚い魔導書らしきものを開き、俺が見えるように地べたに置いて見せた。
その本は、ずいぶんと古いもののようだった。
魔法の呪文や仕組み、来歴などが書かれている魔導書の類は写本でも大抵古いものが多いのだが、今目の前で広げられているそれは取り分けて年季を感じさせるものだった。
しかしその一方で、書皮の方は今のこの世界の時代でもかなり上等であると見えるようなほど、美しく健在で合った。シックな真っ黒のそれであるが、まるでそこだけ新しく取り換えたのではないかと思えてしまう。
総じて、奇妙な分厚い本を俺は見せられていた。
内容の方も……なんだか妙であるし。
「…これは、なんですか?」
「これははるか昔から伝わり、一度は絶滅しかけたのですがしぶとく生き残り続ける魔導書……その名も《グリモアール》です」
えへんとドヤ顔でそう言う彼女だが、俺は別にこの本の歴史とか詳細を聞きたかったのではなかった。
俺が聞きたかったのは、今開かれているページの内容。
この世界で見たことがなく、もちろん前世でも見覚えのない文字が、ミミズが這うように走り書きされている。おそらく文章になっているようで、それが何行に渡ってページを埋めている。
さらに一際目を惹くのが、描かれている挿絵。
大きな二重円の中に十芒星が描かれている。
そしてそのまた中には円に一本線が引かれたものが収められていた。
何かの模様のようだが、見方によっては瞳のように思われなくもない。
そんななんとも奇妙な本の内容を、俺は質問したかったのだった。
「では、これには何が書かれているのですか?」
そう問うと、リリアーノはにやりと笑みを見せた。
…いや、笑みというか、昨日見せたニヒルで感情の見えない表情だった。
「…その前に、少しだけ復習しましょうか」
彼女は火を灯した蝋燭をこちらに近づけ、自身と俺の視界を明るく照らした。
「魔法の系統は覚えていますか?」
「…はい。基礎中の基礎ではないですか。エレメント・マテリアル・ステイト、でしょう?」
「ええ、よく覚えていますね」
質問の意図が読めない。
わざとらしい口調からして、魔法系統を聞くことが本意ではないのだろうが。
訝しんでいると、彼女は続けて口を開く。
「…しかしですね、この世界にはその三系統に属さない魔法も存在するのです」
…なんだと?
「それは、どういうことですか?」
「まぁ、そのままの意味です。一般に定義されている系統とは異なって存在している魔法もあるということ」
人差し指を立てて、彼女はそう言う。
物質や状態変化…以外の魔法が存在する、ということか?
そんなの、どの魔導書や論文を見ても出てこなかったが。
「先日エリオスくんは、魔法はこの世界の範疇でしかない、と言いましたね。しかしそれは半分正解で半分間違いです。今一般的になっている魔法はその限りですが…、先ほどいった未分類の魔法は異なります」
「魔法というものは、理を捻じ曲げるモノです。炎を生み出したり、物質を無から生み出すことは魔法なしにできることではありません」
…この世界の人間にも、そういう感覚はあったのか。
息を吸うように魔法を使うものだからそのような感想は出てこないものだと思っていたが。
「しかし、理の中にも捻じ曲げられないものがあるのです。例えば、生物はいずれ死ぬ…だとか、物は地面に向かって落ちる…だとか、時間をさかのぼることはできない…だとか」
…これらについては、昨日俺が突き付けたことだった。
どうやっても抗うことのできない理というものがあり、そのせいで俺は全てを諦めていた。
「そんな…普通の魔法では従えられない世界の理を、捻じ伏せて見せるのが、この未分類魔法です」
…俺はまた、耳を疑った。
そんな、そんな嘘みたいな魔法があるのだろうか。
それはつまり、重力に逆らったり、死に抗ったり、時間遡行したり…そのようなタガの外れたことを為せるということなのか。
「こういった世界の法則は…極めて高位なモノであり、いわゆる神様によって律されているとされています」
カロリーヌは瞑目する。
そしてうっすらと目を開いて。
「そのため、あえてこの未分類魔法を呼称するならば……名前は“プロビデンス”系統とでも言いますかね」
プロビデンス魔法。
…神の意思だとか、摂理だとか、そういう意味だったか。
まぁ確かに、そのとおりならピッタリな名称であろう。
「どうして…、そんなすさまじいものが一般に知られていないのですか」
…単純な疑問だった。
こんな凄いもの、流行ってても大変な事ではあると思うが、しかし一切聞くことがないくらいに秘匿されているというのなら、相応の理由があるのだろうと思った。
「さぁ…私にはわかりませんね。ただ予想できるのは、この魔法は神をも超越するものですから。おそらくは宗教勢力の圧力があったのではないかと思います。
事実、プロビデンス系統の多くは、現在大きな勢力を持つ各宗教が分担して封印しているようですから」
…なるほど。
神も凌駕できてしまうから、か。
宗教にとっては神なんて絶対的存在なのがほとんどなのだから、その神を軽々と超えられてしまうと信者を得られなくなるのだろう。
「…では、どうして先生はこの魔導書を?これは…その、プロビデンス系統とやらではないのですか?」
これもまた当然なる疑問だった。
なんだって宗教が一般に知られないくらい躍起になって隠している魔法、および魔導書を、彼女が所持しているのか。
「ええ、そうですよ。これを手に入れたのは…まぁ、ちょっとした巡り合わせと言いますかね。さくっとオークションで購入したんですよ。大々的には言えませんが」
…なんじゃそりゃ。
とは思ったが、なんとなく納得できてしまうのがカロリーヌの魔法狂いさだった。
この人なら、きっとマグマの中でも魔法を学びに行くだろうと思わせるものがある。これを手に入れるためどんなことをしたのかはわからないが、たぶんロクでもないことはしているのではないかと思う。
「…これには、何が書かれているのですか?」
「この《グリモアール》にはですね……、簡単に言えば、地点と地点の空間を強引に捻じ曲げて、物体や生物を転送させる…というような魔法です。すなわちは…」
「【転移魔法】といったところでしょうか」
……転移魔法。
転移魔法?
その言葉が妙に脳内で反芻された。
「…それって、それって、どの場所ともつながることができるのですか?」
「どうですかね、私もこの魔導書のすべてを理解しているわけではないのでわかりませんが…おそらくはどんなに離れていても────」
「────この魔法は、向かう場所がどんな場所であろうと機能するのですか?」
「えぇっと、そうですね…魔力が機能するならおそらくは────」
「────その魔法があれば、ここではない別の世界にも行けるのですか?」
半ば、詰めかかるような勢いで、俺はカロリーヌに迫っていた。
彼女も俺の影に入って困惑したような表情を浮かべている。
しかしその中でも、彼女は答えた。
答えて、しまった。
「…理論上は、おそらく?」
…。
……。
「あは」
あはは。
あははは。
ア ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
気づけば、俺はケタケタと高笑いをしていた。
言いえぬ高揚感と、開放感と、背徳感と、点火した心の中の何かを感じながら。
昨日、俺がカロリーヌに抗議して見せた時。
俺は心の中のどこかで、そう───魔法ではできないことが───あってほしいと思っていた。
いったい何故なのか。
元の世界へ帰れたら、これ以上ない喜びだというのに。
…否、だからなのだ。
元の世界へ戻ることがこれ以上ない喜びだからこそ、俺は帰る手段がなければ良いとどことなく思っていたのだ。
なぜ?
それは簡単だ。
帰ることが、これ以上のない喜び。
つまり俺は、この世界の何をもなげうって、きっと帰宅に勤しんでしまうだろうと感づいていたから。
そしてもう、すでにそれは止めることはできない。
心の中で火の粉のようなものが飛び散り、その一瞬で闘志ともいえる何が、大きく燃え盛った。
地位も名誉も、血筋も力も。
すべてはどうでもいい。
俺は愛する家族のもとへ、帰るのだ。
カロリーヌの瞳の中には、とても片手で数えられるような年数しか生きていないとは思えない、狂気じみた少年の姿が映っていた。
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