第39話 悪女(佐藤百合視点)

 いじめの標的は佐藤へと移った。


 次第により陰湿で苛烈なものになっていく。


 理由も目的も最早ない。ただ、佐藤が苦しむ姿を見ることそれ自体に加害者達は愉悦を覚えるようになっていた。


 いつか終わるはずだ。時間が解決してくれるはずだ。


 根拠もない淡い希望だけが心の支えだった。ゆっくりと自分の心が壊れかけていることを自覚しながら、佐藤は早く今日という一日が過ぎてほしいと願いながら、ただ日々を消化していた。


 来瀬はあの日を境に学校に現れなくなった。教師は欠席の理由も語らない。臭いものには蓋を。最初の頃は来瀬を持て囃していた生徒たちもまるで彼女の存在なんてなかったかのように振る舞っていた。


 六年生に進級すると、佐藤はようやくいじめの主犯格達と別のクラスになり、いじめは止んだ。


 佐藤を待っていたのは孤立だった。


 問題をかかえるものに進んで関わろうとする者はいない。いじめの被害者に関わって、自分まで巻き込まれては溜まらない。当然の帰結として以前縁のあったものは友人は離れていった。


 そんなある日のこと、母と共に夕食をとっていた時だ。

 

 佐藤にとっては唯一心安らぐ自宅での時間。


 だが、母の何気ない一言でそれは吹き飛んだ。


「そういえば来瀬さんの所の奥さんが亡くなられたらしいよ」


 佐藤は箸を止めて固まった。


 佐藤は来瀬が母親を愛していたことを知っていた。母親について話す来瀬だけは自然な笑顔を浮かべていた。母親の死が一体どれだけ来瀬を追い詰めたのだろう。

 

 そして、自分は母親を亡くして悲嘆に暮れた彼女に追い討ちをかけてしまったんじゃいか。


 そう思えてならなかった。


「私……最低だ」


 佐藤の中で罪悪感が膨れ上がる。


 自分の行いを省みる。


 傷つけてしまった。あの日あの時、守りたいと誓ったのに。自分は我が身かわいさに彼女を見捨てたのだ。


 ああ、きっと自分の身に降りかかった苦しみは罰だったのだろう。


 地方の学校の数は少ない。その傾向は中学校、高校、と上がるにつれ顕著になる。よっぽど学力が低くない限りは同じ学校に進学することになる。


 当然のように佐藤は小学校のクラスメイトの大多数が進学する中学校に進んだ。


 その中には来瀬も含まれていた。


 怖かった。どんな顔をして会えばいいのか。


 しかし、彼女の姿を見ることはついに一度もないまま卒業した。


 もし、来瀬が何事もなかったかのように学校生活を送っている姿を見たならこんなにも苦しむことはなかったのかもしれない。自分の行いを過去のものとして風化させることができただろう。


 その不在が佐藤を追い詰めた。


 表面上は何もなかったように過ごした。同じ小学校出身の生徒にはやはり避けられることもあったが、他校出身の生徒が増えてコミュニティが再編されたことも手伝い、孤立するようなこともなかった。


 だが、事あるごとに来瀬の存在が頭に浮かぶ。心をかき乱す。


 佐藤が心から笑うことは一度もなかった。


 だから、高校に上がって来瀬の姿を見た時――


 佐藤は信じられなかった。


 あの来瀬が大勢の人に囲まれて笑っていたのだ。


 過去の傷などまるで感じさせない。それどころか、あれは自分が知っているまだ仲の良かった頃の来瀬とも違う。あの内気で傷つきやすく憂いを帯びた彼女の面影もない。


 一体何があったのか。


 今の来瀬の振る舞いに底知れない闇を感じずにはられなかった。


 高校一年の間、佐藤と来瀬は別々のクラスだった。別のクラスであることを免罪符に佐藤は声をかけることはなく、再会はただ視界の端をかすめる程度のまま一年を過ごしていた。


 けれど、佐藤は決めていた。


「もし、同じクラスになったら……そのときは、話しかけよう。謝ろう」


 あのとき守れなかった彼女に、今度こそきちんと向き合うと心に誓っていた。


 だからこそ、二年になり、同じクラスになったと知った瞬間、足がすくむほどの緊張に襲われた。


——逃げちゃいけない。もう十分逃げただろう。これ以上逃げ続けたら一生後悔することになる。


 佐藤は意を決して来瀬に話しかけた。


「あ、あの、来瀬さん。久しぶり……」


 けれど返ってきたのは、一瞥と沈黙だった。


 佐藤は、まるで心臓を握り潰されたかのような感覚に襲われた。それでも、諦めることはできなかった。


 これを逃せば、もう二度と謝る機会は訪れない。


 次の日も、その次の日も、来瀬が一人になる瞬間を見計らっては佐藤は話しかけ続けた。無視され続けても声をかけ続けた。


 そしてある日、ついに言葉が返ってきた。


「ねえ、しつこい」


 来瀬の声は、鋭く、冷たかった。けれど、返事が返ってきたことに佐藤は驚きと同時に安堵覚えた。やっと応えてくれた、と。


「ちょっとこっち来て」


 腕を引かれ、空き教室へと連れて行かれたとき、佐藤の心は緊張と期待、そして覚悟に満ちていた。


「ごめんなさい!」


 心の奥底にずっと沈めていた言葉。ぎゅっと瞑った目に涙を滲ませながら深く頭を下げた。


 「へえ……」


 来瀬は、まるで興味がないように返すと、爪先をじっと見つめたままだった。


 佐藤の喉が乾いた。吐き気すら覚えるほどの痛々しさと、別人のような冷たさ。かつての来瀬の面影は、どこにもなかった。


「……許してほしいの?」

「ううん……許さなくてもいい」

「じゃあ何? 罪を償いたいってこと」


 来瀬はせせら笑うように言う。


「そのためなら、どんなことでも……するよ」


 来瀬の笑みは、かつてのものとはまったく違っていた。


「じゃあ、私を殺してみてよ」


 スカートのポケットから出てきたそれを放り投げる。佐藤の手元に転がるそれを、目で追いながら心が凍りつく。


「冗談……だよね?」


 カッターだった。


 震える声で問いかけるも、来瀬の目は一切笑っていなかった。


「はあ……不愉快だから。二度と姿を見せないで」


 乱雑に閉められた扉の音が、佐藤の中で何かを決定的に断ち切った。


 けれど、次の日。


「ねえ、ちょっと来て」


 教室の前で、来瀬がまた声をかけてきた——

 

「……え?」


 腕を強く引かれ、佐藤は以前連れて行かれたあの空き教室へと連れて行かれる。


 「ねえ、仲直りしてもいいよ。もう、過去のことも許してあげる」


 穏やかに、けれど一方的に口を開いた来瀬が、ふと視線を落としながら言葉を続ける。


 「ただ、私に協力してほしいの」

 「……麗華……いや、来瀬さん?」

 「好きな人ができたの」


 唐突な告白に、佐藤は言葉を失った。なぜこのタイミングで、そんな話をしたのか。戸惑いながらも、とりあえず応じる。


 「……それは、よかったね」

 「だから協力してよ。それでもう昔のことは水に流そう?」

 「わ、わかった……」


  あまりに突拍子もなさ過ぎて戸惑う。


 「もちろん、誰かに喋ったらどうなるか、わかるよね?」


 その声には笑みがあった。しかしその裏に、確かな威圧があった。聞けば、彼女が想いを寄せているのは、灰谷優という地味で目立たない男子だった。


 どうにも釣り合いが取れない。けれど、佐藤はどこかで安堵していた。来瀬も、普通の女の子なのだと。


 だが、それは甘かった。


 来瀬の「協力してほしい」の中身は、日に日におかしくなっていった。誰かに嫌がらせをするよう命じられたり、クラスの空気を操作するよう仕向けられたり――。


 何度か、それは間違っていると、はっきり口に出したこともあった。


 けれどそのたびに、あの日の「過去」を持ち出され、佐藤は何も言い返せなくなってしまう。


 そしてある晩、スマホが鳴った。


 「今日、頼みたいのはね。あいつ……水島。あの男、邪魔だから何とかしてほしいの」

「水島君……?」

「そう、委員会決めで引き剥がしたのはいいけど、全然足りない。あの男、優君と四六時中一緒にいるのよ。見る度にいらつく」

 「そんなの……水島君に悪いよ。それに、言い過ぎだよ……」

 「何、善人ぶってんだよ?」


 スマホ越しの声が、がらりと冷たく変わる。


 「自分のしたこと、忘れたの? すでに、お前はもう立派な悪人だろうが? それともまた裏切る気? 友達じゃなかったっけ? まあ、私は一度もそう思ってなかったけどね」


 嫌だ――。


 思考よりも先に、口が勝手に動いていた。


 「ごめんなさい……ごめんなさい……やる、やるから……お願い、許して……」


 佐藤は思考を放棄した。


 善悪の判断を他人に任せ、過去の出来事の清算と罪を言い訳にただ来瀬の言うことに従うようになった。それが、新たな罪を犯すことになっているのも見て見ぬ振りをして。

 

 そして、今。


 他でもない佐藤に騙され、弄ばれ、傷つけられた人間が座っている。


 水島悟はただ黙って話を聞いていた。


 話し終わってすぐはあまりに突然のことで言葉を失っていたのだろう。しかし、次第に呆然としていた表情は、佐藤から視線を外し暗く目を伏せ、悲しみと諦め、そして苦痛を滲ませるような表情へと変わっていた。

 


 


 

 


 

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