第31話 無駄にAgainstな黄金週間⑪

 午後三時。


 俺は凛子と共に、二階一戸建ての築四年である美波家の敷居を跨いでいた。


 オヤツのケーキを食べ終わり、詠亜の家程豪華ではないが、大きく広い、ゆったりとしたL字型のソファーの角で寛いでいるはずだった俺。


 どこで何の選択肢を間違えてこんな事態になっているのか、皆目見当も付かなかった。


 右手側には大型のテレビと、正面に透明なガラステーブルがある。 テーブルの向こうには物干し竿が掛けられている小奇麗な庭に通じるガラスの戸。


『ああ、凛子……私達の凛子がこんなに大胆に……ダメ、止めないといけないのに……頑張るのよ凛子! そのまま……そこっ! あぁっ! 凛子……凛子!』


 そのガラス戸にスライムのように張り付き、荒い息を吹きかけて自らの顔にセルフモザイクをかけている凛子ママがいる。


 洗濯物を取り終えた直後の凛子ママは、曇っている目の部分だけを指で拭き、娘と、将来義理の息子になるかもしれない俺の姿を食い入るように見つめていた。


 「ひゃうっ……凛子、そこ……はぅうっ! ダメだ、凛子のお母さん、見てるから……ひゃんっ!」


「るーくん、はむっ……先生の言ったとおり……るーくん、おいひぃ」


 俺はソファーの上で、手首を掴まれて押し倒され、美味しくいただかれていた。


 発端は三分前、食べ終えたケーキの皿を凛子ママが下げてくれた辺りから始まった。


「丁度パパがケーキを買ってきてくれたの。パパはそのままパチンコに行っちゃったけれど……ハッ、凛子……そういうことね。ママ、ちょっと洗濯物を取り込んでくるから、二人でごゆっくり~」


 笑顔の凛子ママ。


 詠亜を相手にして疲労困憊中だった俺は、凛子ママの笑顔が妖しいことに気付く事ができなかった。


 いや、分からない訳ではなかったのだが、その思惑通りに凛子が動く訳がないだろうと、わざわざ玄関から外に出ていく凛子ママを気に掛けすらしなかった。


 凛子は観月瑠璃が暴力を働くことがなくなって、笑顔でいることが多くなった。


 以前までの瑠璃のせいで、家でも笑顔や口数が少なかった凛子。


 今では、見違えるほど笑顔で、楽しい日常生活を送っていた。


 俺が記憶喪失と共に心身を入れ替えた事は、そんな凛子を見れば誰も疑うことはない。


 美波家も、観月家と同様、家庭のありふれた幸せを手にしていた。


 凛子の行動の遅さについても、美波家は当然理解しており、それが以前の瑠璃のせいではなく凛子自身に問題があること、そして学校でも色々な人に迷惑を掛けていることも知っていた。


 しかし、俺が全てを上手く運んでくれている。  あれ程恨んでいた俺を、美波家は手の平を返して歓迎し、感謝し、凛子の両親は夢でないことを確かめ合うため、毎晩のように幸せを紡ぎ合っていた。


 そして今の俺に対し、玲や桜、瑠奈や凛子と同じくらいに……いや、それ以上に俺を崇め、奉っていた。


 俺はその事実を全く知らなかったんだ……。


 心を読む動作は対象の頭上を見なければならず、滅多やたらとそんなことをしていれば変な子供だと思われてもおかしくない。


 それだけならまだいいが、相手が魔法使いだった場合、詠亜のように勘付かれる場合がある。


 ゆえに普段から、必要な時に、必要な分だけ心を読むようにしたので、凛子ママの心をあまり見上げることはなかった。


 ゆえに、凛子が胸の内に秘めていた暴走劇の幕開けに気付いた凛子ママの心内を見抜くことができず、凛子も凛子で俺の心を読むという動作に敏感に反応してくるので、これから始まる凛子の突飛な行動に全く対処ができなかった。


 俺はケーキを食べ終わり、ソファーに腰掛けてテレビをつけてくつろぐ。


 凛子の隣、ソファーの角に座って。


 凛子は笑っていた。片方の頬を緩ませ、もう片方を怒りで歪ませながら。


 凛子が突然リモコンを手に取ってテレビを消すと同時に、押し倒してくる。


「あでっ! り、凛子? どうしたん……んぐっ! ぷはっ! ちょっ! いきなりキスってどういう、んむぅっ!」


 凛子は何も言わず、ケーキ味の口に舌を入れ、上唇を甘噛みする。


 俺はパニック状態に陥るが、Thunder Lordを凛子の背中に描き、ギブアップという意思を示しながらタップする。


 凛子の頭上にモニターが表示されて文字が記される。


 しかし読む必要は無かった。


 心の言葉も、発せられる声も全く一緒だった。


 凛子は生クリーム味の唾液を垂らしながら顔を離した。


「るーくん? わたしが寝てたとき、先生とナニしてたの? わたし、起きてたんだよー?」


 顔だけが笑っている。

 声色は先日対峙した樋熊なんて比ではない程の恐怖を感じさせる物で、飢えた狼が野兎を食す前に、どこから食べようかという目付きでもあった。


「あ、あれ? 凛子さん。あなた、ヤンデレだったんですか? ううん、違う……病んでるね。ちょっと! 誰か! ヘルプ! ヘルプミー!」


 俺の声は震えていた。


「るーくんの言ってること、むずかしいなー。でも、るーくん、先生に、あんなこと、いーっぱいしたんだから、わたしにも……ちゅっ……いっぱいしてね」


 俺は思った。そう言えば凛子も瑠奈と同様、壊れかけの子供なのだと……。


 まだ凛子と出会って三カ月しか経っておらず、それまでの酷い仕打ちをされた時間を思えば、凛子の心を癒す時間は足りているはずがない。


「今日は、るーくん、わたしだけといっしょ。はむ……。今日は、わたしだけのるーくん。うれしーな、はぅ……くるしーな、でも、えへへ、るーくん大好き。んっ! わたし、なんか、ふわふわしてきたよー」


 味を占めた凛子は、無抵抗にならざるを得ない俺に体を重ね、全てを喰らい尽くさんばかりに貪り始めた。


 こんな形で凛子ルートのコンプリートを確認してしまうとは思わなかった。


 元はと言えば以前の瑠璃や、観月本家の連中が原因で引き起こされてしまった不可抗力の事態ではある。


 しかし、いずれ凛子と瑠奈を隣に据えてのパラダイスを築く予定だったので、十年前倒ししてしまっただけだと、大人しく凛子を受け入れることにした。


 せっかくの凛子とのファーストキスなので、思う存分凛子とケーキの味を堪能しようとしたのだが、カーテンの掛かっていないガラス戸の向こう側を見て息が止まる。


 凛子ママがガラス戸に張り付いて俺達を見ていた。


 ホラー映画以上に不気味な光景だったため、キスの味さえも吹き飛んでしまった。


 凛子の頭上から凛子ママの頭にモニターを移す。


『計、画、通、り! これで息子ゲットよ! これからはもっと桜さんと仲良くしなくっちゃ。とりあえず今夜は御赤飯を……。そうこうしている内に孫の顔も……きゃー! 早いわ、さすがにそれは早いわ、ダメよ凛子! 御赤飯を倍プッシュだなんて、お腹がパンパンになっちゃうわ! 色んな意味で!』


 自分の呼気でセルフモザイクを顔に掛けている凛子ママが無駄に悶えていた。


 首筋をペロペロし始めた凛子に喘ぎながらも慌てて声を掛けるが、俺の味に夢中になっており全く耳に入っていない。


「るーくん……ぜーんぶ……ぺろぺろしてあげる。だから……んふっ、服、じゃまだよ?」


 凛子も主人にじゃれ合う子犬のように息を荒げ、俺の服を裂かんばかりに引っ張り、強引に脱がせ始めた。


「それはダメ、凛子! 変なところに手を……んっ!」


 さすがにこれ以上は危険だったので、本気を出して抵抗するのだが、凛子がテクニシャンなせいか、なぜか腕と体に力が入らない。


 まるでソファーに体がくっついているかのようだった。


 想定外の事態に、救いの手を求めてガラス戸の向こうにいる凛子ママに目をやる。


『凛子が……私達の凛子が、涙目で嫌がる瑠璃ちゃんを強引に……ちょっと前までは逆だったのに……でも、イイ! それがイイ! 凛子、そのままいただきまんもすしちゃいなさい!』


 いつの間にか全身にモザイクが掛かる程、ガラスを曇らせていた凛子ママ。


 戸を拭い、そこから垣間見える不埒な眼は昇り始めた上弦三日月。


 どう見ても敵だ。


「うん、おかーさん、わたし、がんばって……るーくんを全部食べるからね」


 凛子ママの存在に気付いていたらしい凛子は、シロップのように濃い涎を腹に垂らしてきて、擦り込んでくる。


 このままでは瑠奈に殺される。


 一瞬、瑠奈が俺の生首を抱いたまま、色の無い笑みを浮かべている光景が思い浮かんだ。


「んぅんっ! 凛子、俺、もう……らめらからぁ! ふぅ……う、いっ!? だめぇえ!」


 もうどうすることもできない。


 切な過ぎて、哀し過ぎて、頭がどうにかなりそうだった。


『あぁん! 瑠璃ちゃん可愛い! まだ幼い子供達がこんな歳から大人の階段を……はぁうっ! ダメ……刺激が強……もう、私……大……満……開』


 俺が散る前に、凛子ママが先に散った。


 散り様が最悪だった。


 ガラス戸の向こう……曇り掛かるガラスに、水蒸気から生じるはずのない色の液体が、ガラス戸全域に飛び散っていた。


「え? あっ……おかーさぁん!? るーくん! おかあさんを助けてぇ!」


 さすがの凛子も真っ青に血の気が引く。


 凛子ママは、背後からチェーンソーで真っ二つに切断されたかのような大量の血をガラス戸に噴出させていた。


 ただの鼻血である。


 しかもガラスには血の手の跡がスプラッタ映画のように描かれており、事情を知らない者が目にしたら一生のトラウマを抱えるに違いない光景である。


 凛子がベランダに出るために離れ次第、転がるように床に落ち、唾液塗れになった乱れた服をいそいそと整え、深呼吸を数度行って立ち上がった。


 涙目の凛子の下へ歩み寄ってみれば、流血しながらも幸せそうな顔をしている凛子ママ。


 その頭上に表示された遺言染みたモニターに目をやる。


『きっと叶わぬ願いだけれど、私も、混ざ……親子ど――』


 最後まで読んでたまるかと、モニターを消し飛ばす。


 殺気を混ぜた冷徹な視線を向けるものの、心配顔の凛子が目に入ってしまったので、溜息を吐き、凛子と一緒に、凛子ママを引き摺りながら家の中へ引き入れ、ティッシュで色々拭き取った。


 一仕事を終え、茜色の夕陽が輝く帰路に着きながら考えた。


「こんな調子で……俺、生きていけるのかな? 魔法はめったやたら使わなきゃあんまり問題なくなってきたけど、とりあえず凛子と瑠奈はもう少し健全に教育しないと。このままじゃ命がいくつあっても足らん。将来が心配だよ、はぁ」


 未来の自分を案じて、一番星に溜息を贈る。


 しかし、俺の顔は笑っていた。


 楽しいのだ。


 苦労が絶えないけれど、実に愉快。そして爽快。


 命が懸かる困難はあった。


 しかし、乗り越えるには容易い困難。


 他人にとっては決して容易くない難題を、俺は魔法の力で乗り越えた。


 これが魔法。


 これが俺に宿る魔法。


 悲惨な死と一部の記憶を代償に手に入れた力。


 俺は拳を握り、拳を見つめ、そして開く。


 小さな子供の手だった。


 しかし、無限の可能性が広がる希望の手。


 この手があれば、どんな逆風に吹かれても、乗り越えていける自信が湧いてくる。


「もう、何も怖くない。俺は生きる。そして、負けない」


 しかし、転生した身とは言え、未だ子供である。


 光と闇は表裏一体で、光が強ければ強い程、闇もまた凶悪に色付くことを、この時の俺は知る由もなかったんだ。

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