第11話 帰れない?
大粒の雨粒が、ポリエステル製の生地に当たって重低音を奏でている。
「……あ、あの~……冬川さん……。」
俺は情けなく声を出した。
しかし、傘を打つ雨の音ですぐにその声はかき消されてしまう。
……なぜ、こんなことに。
傘の中棒に添えた右手を、落ち着かなくて小さく開いたり閉じたりする。
肩に雨がかかるのも構わず出来るだけ右側に寄って、俺は数分前のことを思い出した。
「……冬川さん、俺、やっぱり帰れないかも……。」
傘を忘れたことに今更気が付き、俺は外に出ようとしている冬川さんに声をかけた。
外を見るが、やはり何度見ても雨はやむ気配がない。
靴箱の前に座り込み、天井を見上げてため息をついた。
「え?」
雨音を破って、素っ頓狂な声がして。
冬川さんに、顔を覗き込まれた。
「どうしたの、急に。」
少し驚いたような顔。
自分が情けなくなって、目をそらす。
「傘忘れた。」
靴箱に寄りかかって、脱力した。
何から何まで、ダメダメだ。
カッパを忘れて、電車が不安だからと冬川さんに頼って、外に出ようとしてようやく傘を忘れたことに気付いて。
「あ、あぁ~……なるほど。」
冬川さんが納得したように言う。
俺はポケットからスマホを取り出した。
天気予報アプリを開く。
現在時刻は6時半。
アプリによると、雨が降り止むのは9時となっている。
……仕方がない。
「冬川さんは先に帰りなよ。なんか、雨はもうすぐ止むらしいし。」
冬川さんを見上げて、小さな噓をつく。
やることなら、勉強でも読書でもなんでもある。
雨が完全にやむことには期待できないが、雨が小降りになる瞬間ならどこかできっとあるだろう。
その時を見計らって、駅までダッシュすればよい。
駅までは徒歩10分くらい。
走れば、まあ……何とかなるはずだ。
8時過ぎくらいまでに雨が弱まってくれないと校舎から締め出されることになるが、そうなったらそうなったで仕方がない。
バッグを抱えて全力ダッシュしようじゃないか。
そう、思ったのに。
冬川さんの目がジトッとしているのを見て、俺は頬が引きつるのを感じた。
「ちらっと見えたんだけど……雨が止むの、9時からになってなかった?」
……。
手元に目を落として、それから冬川さんが立っている場所を確認する。
確かに。
冬川さんが立っているところからだと、こちらの手元が丸見えだった。
「雨が止むのを待ってから帰るつもり?……っていうか8時過ぎに学校閉まっちゃうから無理じゃない?」
すぅ~っと目をそらす。
「……もしかして”雨が弱まったら帰ろう"とか思ってる?」
なんて言い訳しようか……そう思った矢先に図星を突かれてぐっと言葉に詰まる。
冬川さんが、何を思っているかは知らない。
しかし、気のせいかもしれないが俺を助けようとしてくれている気がして。
冬川さんにこれ以上迷惑をかけるのは、なんとなく気が引けた。
「い、いやいや。親が迎えに来てくれるんだ。」
ようやくまともな言い訳を思いついて、冬川さんに目を向けて笑顔で言った。
「夏野君の親、今旅行に行ってていないんじゃないの……?」
しかし、あえなく看破されて再び目をそらした。
そう。
俺の両親は今、俺と妹を家に残して一週間の旅行に行っている。
普段は優しくて相談をすれば親身になって考えてくれるいい親なのだが、その根はどうしようもなく自由人で。
時折、予想外なことをし始めるのだ。
楽しそうなのは良いことだが、子供を……しかも新しい環境に適応しようと頑張っている二人の子供を置いて一週間も家を空けるのはどうなのだろうか。
そう思うのだけれど毎日ビデオ通話で親バカを披露してくるので、両親のことがいまいちよく分からない。
……部活の時に、そう冬川さんに愚痴をこぼしたのだがどうやら覚えていたらしい。
「夏野君。何考えてるか知らないけど……自分の身を大切にしないのはどうかと思うよ。」
チクリと刺される。
何も言えない。
このまま学校に残れば、雨で濡れることは避けられない。
雨に濡れたまま電車に揺られて帰るとなれば、風邪をひく可能性はかなり高いだろう。
とはいえ、この学校に貸し出し用の傘など無い。
これが部活前だったら友達の傘に入れてもらうこともできたが、あいにくそんなことを頼めそうな友人は全員返ってしまっている。
だからどう転んでも俺は濡れるし、風邪もひくかもしれないのだが。
「……帰るよ、夏野君。」
言われて、顔を上げる。
冬川さんが、無表情でこちらを見ていた。
俺の顔まで引きつってくるのを感じる。
これまでの文脈的に、きっとそのつもりなのだろう。
……でも、でも。
「い、いや。無理にそんなことしないでも……。」
無表情なのが、怖い。
もしかしなくても無理をさせている気がして。
ここで断るのも、それはそれで失礼というか……往生際が悪いと思うが、それはそれとしてここまで無表情で見られると罪悪感が膨らんでしまう。
「……。別に無理してるわけじゃないよ。」
自分の顔が無表情なのに気付いたのか、表情を少し和らげて冬川さんが言った。
そのまま笑顔で手を差し出される。
その細く綺麗な指を見て、途方に暮れて冬川さんの目を見る。
しかしその目から決意が固いのが伝わってきて、俺は頭を振って余計な考えを脳の奥深くに沈めた。
ここまで来たら、断った方が失礼だ。
……それに、濡れずに済むのは非常にありがたい。
「よ、よろしくお願いします……。」
恐れ多いので差し出された冬川さんの手は使わず、立ち上がる。
緊張から声が震えていることを知られたら、もう生きていけない気がする。
そんなバカなことを考えて気を紛らわせつつ、俺は人生で初めて相合……女子と二人で一つの傘を使うこととなった。
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