第10話 雨

 もう、失恋してから1カ月以上が経つ。


 失恋して、でも応援しようと冬川さんと約束して。

 落ち込む暇もない目まぐるしい1カ月であった。


 俺は壁に寄りかかって外を眺めた。


 ショッピングモールで大輝たちに遭遇して、誤解されたあの事件ももう3週間以上前のことだ。


 大輝に何を言われるかとひやひやしていたのだが、結局今まで何も言われていない。

 冬川さんも今のところ、川井さんに何か聞かれたり変に気を回されたりはしていないみたいだった。


 もうすぐ目にかかりそうな前髪に触れる。


 ここ数日でようやく、俺は失恋前の平穏を取り戻しつつあった。

 

 ……やっぱり心は痛むし、醜い嫉妬をするときもあるけれど。


 完膚なきまでに……全てにおいて完璧に負けた状態で失恋したことが、むしろ良い方に働いたのか。


 それとも一人で溜め込む前に、冬川さんに本音を吐き出せたのが良かったのか。


 日々の学校生活も、大輝との関係も、次第に慣れたものに戻りつつあった。


 失恋前と同じような生活。

 

 ……とはいえ、変わったことも少しはある。


 例えば、冬川さんとの関係は少し変わっただろう。

 

 鍵を返す時に気まずくなることはもうない。

 教室で話すことはほとんどないが、部活で会った時にはよく話すようになった。


 笑顔も多少は見るようになったし、大きな進歩を遂げたといっていい。


 後は、川井さんを好意を含んだ目で見ることも無くなった。

 ……”見ないようにしている”と言った方が正しいかもしれないが、それはあまりにも未練がましいだろう。


 チキンすぎたのも、むしろ良い方向に働いたかもしれない。

 もともと接点など無かったから、川井さんとの関係性で悩む必要も無かったのだ。

 自虐するように思う。


 ……ともかく俺は、慣れた生活を取り戻しつつあった。


 だというのに。


 ザア……。

 校舎内響き渡る雨音に、小さくため息をつく。


 俺は今日、まだ経験したことの無かった事態に直面していた。


 靴箱から、外を眺める。


 灰色の厚い雲に覆われた空。

 そして、地肌を打つ無数の雨粒。


 雲で遮られていて詳しくは分からないが、もうすぐ日が沈むのだろうか。

 あたりが薄暗くなり始めていた。


 校門には、大きな水たまりができているのが見て取れる。


 さっき降り出したはずなのに。

 酷い土砂降りであることを示すそれを見て、心のなかまで雨模様になってしまう。


 ……どうしたものか。


 眉間を抑え、揉むように指を動かした。


 部活動の解散時刻は既に過ぎており、残っているのは先生と運動部の生徒くらいだ。

 静かな校舎に、雨が地面を打つ音が響いていた。


「凄い降ってるね。」


 雨音を破って、後ろで声がする。


 振り向くと、冬川さんが靴を履きながら外を眺めていた。


 いつの間に。

 絶え間なく響く雨音にかき消されて、足音すら聞こえなかった。


 職員室に用事があると言っていたが、もうその用事は終わらせたのだろうか。


 部活終わりに職員室に寄ると言っていたので、今日は俺が一人で鍵を返したのだ。


 冬川さんが、靴を履き終えて立ち上がる。

 やはり、俺が雨で足止めされているうちに冬川さんは用事を済ませてしまったらしい。


「土砂降りだよ。……どうしよう。」


 再び外に目をやり、俺は憂鬱な気分で言った。


 今日も、いつものように自転車で来た。

 だから自転車なら駐輪場にあるのだけれど。


 肝心な物が、無かった。


「カッパは?」


 冬川さんが、何かを察したように尋ねてくる。


「忘れた。」


 即答する。


 そう、カッパが無いのだ。


 冬川さんが来るまでに、何回もリュックの中を探した。

 絶対無いと思いながらも靴箱の中まで探した。


 しかし、何度探してもカッパは無かった。


 おそらく、数日前に使って干したまま忘れていたのだろう。


 朝見た天気予報は晴れだったから、完璧に油断していたのだ。


 渋い顔で外を眺める。


「帰れるのそれ……?」


 事情を把握した冬川さんが、外を見ながら顔を引きつらせた。


 カッパが無い今、この雨の中を自転車で帰るのは無謀といえる。


 特大のため息をつきたい気分だ。


 顔を曇らせつつ、俺は口を開いた。


「……いや、電車で帰れるんだけどさあ。」


 微妙に含みのある言い方。

 外を見て、迷うように口をつぐむ。


 こんなにも憂鬱な気分になっているのには、訳がある。


「……乗り換えが分からない。」


 迷った末に、俺は正直に打ち明けた。


 ザア……という雨音が一段と強まり、鼓膜を揺らす。


 隣の冬川さんを見る。


 冬川さんが、きょとんとした顔をこちらに向けて……そして、ああと頷いた。


「電車、あんまり乗ったことないの?」


 問われ、頭を掻く。


「うん……。」


 なんだかこの状況が情けなくて、冬川さんから目をそらした。


 ここは都会ではない。

 だから乗り換えと言っても大したことではない……らしいのだが、いかんせん経験したことがないのであまり乗る気になれなかった。


「でも、ショッピングモールに行ったときは普通に乗って……。」


 何かを思い出したように口をつぐむ冬川さん。


「そういえば挙動不審だったね……。切符の買い方すら怪しかったもん。」


 生暖かい目で見られている気がする。


 実際あの時は、あやふやな知識と冬川さんの背中を頼りにどうにか電車に乗れただけなので否定できない。

 帰りに至っては冬川さんもいなかったので、スマホと電光掲示板を何度も何度も確認する羽目になった。


「これまでの人生で電車に乗る機会がなかったんだよ。」


 ざあざあと雨が降っているのを見ながら、雨音でぎりぎり消えないくらいの小さな声で言い訳する。


「移動は基本車だし……。」


 東京などの都会では移動手段として電車が多く用いられると聞くが、ここはいわゆる車社会だ。


 人々に移動手段として用いられるのは大抵が車か徒歩で、電車の割合はかなり低かったはずだ。


 実際この高校は駅からそう離れていないが、通学に電車を使っている人はあまり多くない。

 自転車通学をしている人が軽く半数を超えているだろう。


 そんなこの都市において、俺のように”高校生になるまで電車に乗ったことが無かった”という人はさほど珍しい訳ではなかった。


「まぁ、あるあるだよね。私も高校に入ってから初めて一人で乗ったし。」


 冬川さんが苦笑いして外に目を移す。


 俺もつられて外を見るが、相変わらず雨が止む気配は無かった。


「人生初乗り換え、やるしかないかな。」


 諦めたように言う。


 電車の乗り換えは未知の世界。

 憂鬱な気分にもなってしまう。


 しかし、挑戦しない限り未知の世界はいつまでも未知の世界のままだ。


 大事なのは挑戦する心。


 頑張るぞ、俺。


「……なんか勇敢そうな顔してるけど、そんな難しくないでしょ。」


 気合を入れていたのだが、冬川さんに冷静にツッコまれる。


「どうせ向かいのホームに移動するくらいだよ。たぶん小学生でもできるやつ。」


 辛口な冬川さん。


 ……そんなこと言わないでほしい。

 それすらも、俺にとっては未知の世界なのだから。


 苦笑いしつつ、どこで乗り換えてどこで降りるのかを思い出す。

 入学する前に確認したきりだが、意外にもすんなりと思い出せた。


「冬川さんはどこで降りるの?」


 あくまでも、ついでという風に……もしかしたら冬川さんに頼れるかもしれないという淡い希望を抱いて尋ねる。


「私もたぶん同じところで乗り換えるよ。夏野君の家、あっち側だったよね。」


 冬川さんが、西と思われる方に指を向けた。


 これも都会にはない感覚かもしれないが、ここ地方において”乗り換えができる駅”……つまり、複数の路線が交わる駅など数えるほどしかない。

 そもそも路線数が圧倒的に少ないので当然だが。


 何が言いたいかというと、”この高校から西側に行き、かつ乗り換えるのであればあの駅で乗り換えあの方面に帰るのだろう”という予想が簡単に立ってしまうのだ。


「うん。○○駅で乗り換えて、○○駅で降りる……はず。」


 俺がそう答えると、冬川さんが頷いた。


「乗り換えは同じだね……それで、降りるのは私が降りる駅の2つ手前か。」


 ということは、つまり。


 あくまでついでという体を装って聞いたはずなのに、それも忘れて期待を込めた目で冬川さんを見つめた。


 目が合って、冬川さんが可笑しそうに笑う。


 冬川さんの軽やかな笑い声が、雨音と共に舞うように耳に届いた。


 ……いつも思うが、普段あまり笑わないとは思えないほど、冬川さんの笑い声は軽やかだ。

 聞いてて笑顔になってしまうような、そんな笑い方。


 絶対に、もっと笑った方が良いと思う。

 そう思ってしまうのは、余計なお世話なんだろうが。


「乗り換え、案内してあげよっか?」


 冬川さんが言う。


 俺は思考を現実に引き戻して……そしてほっと息を吐いた。


「ほんとにありがとう。」


 手を合わせて、冬川さんを拝む。


 正直一人で帰りつける気がしていなかったので、今は冬川さんがなによりも心強い味方に見えた。


「じゃ、帰ろうか。」


 そう言って、冬川さんが開け放たれたガラス製の扉に向かって歩き出した。


 俺も、付いていく。


 扉をくぐる前に、冬川さんが手を伸ばして傘立てから傘を……。


 傘。


 ……傘。


 立ち止まり、すぅ~っと息を吸い込み、吐いて肩を落とす。


 なぜ、失念していたのだろうか。

 自分が信じられない。

 

 自転車で来たというのに、傘を持っているはずがないじゃないか。

 当たり前のことに今更気付き、頭を抱えたくなった。


 天を見上げる。

 やっぱり、雨が降り病む気配はない。


 今日は、とことんついていないようだ。

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