虹の作り方

うみべひろた

虹の作り方

 私が虹を見るときは、いつもオレンジの香りの中。

 近いけれど触れない虹を見ながら、少しでも長く見えるようにって願うんだ。


 夏休み前最後の一日は大掃除をやって終わり。もう少しだけ終わりの時間を惜しみたいのに、いつも、あまりにもあっけなく終わってしまう。

 中学に入って6回目の大掃除。私とキョウカはいつも二人で玄関掃除をやることにしている。そこら中で撒かれているオレンジクリーナーの香りに包まれながら。

 水洗いする部分が多い。泥だらけで汚い。掃除する場所が無駄に広い。いつも希望者が居なくて最後まで余っている。だから二人で一緒にできる。

 でも別に、嫌なことばかりじゃないんだ。

 学校に来るときいつも息を切らせながら登る坂。玄関から見下ろせばその向こうには海が見える。ベイブリッジ、大きなタンカー、もくもく湧いてる入道雲。

 そして大掃除の日にいつも、キョウカが海に向かって架けてくれる大きな虹。


 蛇口にはめたホースをいっぱいに伸ばす。玄関わきの植え込みに向かって水を飛ばす。夏休み前のうるさいくらい眩しい空の下、できるだけ美しいアーチを描くように。

 だけど私が作る虹はいつも小さな欠片みたい。きれいな曲線になってくれない。息を吹きかけたら消えてしまうような弱々しい光。

 それに引き替え、キョウカの作る虹はいつも強くて明るい。

 虹の材料なんて水と太陽だけ。なのになんでこうまで差ができるのか。ずっと不思議。

 キョウカの手もとをじっと見つめて真似をする。もっと高く飛ばせばいいのかなってやってみても、しぶきがブラウスの袖にかかっただけ。全然虹は大きくなってくれなかった。

 そんな私をちらりと見て、キョウカは声をあげて笑う。

「それじゃダメだよ。アヤは全然、虹の作り方を分かってない」


 キョウカの架ける虹は海に向かって伸びていく。渡ればどこまでだって行けそう。ベイブリッジ、大黒埠頭、水平線の向こう。

「なんでこんなに違うの」

 角度をつけすぎたから、水しぶきがブラウスの袖を濡らして気持ち悪い。そこまでやって頑張って作ろうとしてるのに。キョウカと同じように作りたいのに。

「ねえ、アヤ」

 キョウカは私との距離を3歩分、簡単に詰めてくる。

 やめてよ。そんなに近づかないで。ホースからまだ虹が出てる。かかったら濡れちゃうから。

「アヤはさ、虹を作るのにいちばん大切なものって何だと思う?」

 キョウカの声がさっきよりも近い。濡れたブラウスを直接震わせてるみたいで、そういえば音は波なんだって理科で言ってたな、って思う。

「そんなの決まってるでしょ」たった3歩分。それだけで私はキョウカのほうを見ることが出来なくなる。「雨だよ。雨が降るから、その後に虹ができる」

 虹には雨が必要だ。そんなのキョウカに聞かれなくたって。

 こんな晴れの日に私たち二人、ホースの水で作りあってる虹なんてどうせ偽物。キョウカの作る大きなやつだってそう。


 昔、ここで二人で見たじゃん。入学式の帰りに。ベイブリッジにかかる大きな虹を。きれいだねってあなたが笑って、ぎゅっと握った手の暖かさ、あなたのスカートがふくらはぎを撫でるくすぐったさ。

『虹の根元に行けば願いが叶うんだって』あの時あなたが私に言ったこと。

『いつか行ってみたいね』私があなたに散々迷って返したこと。

『行きたいなぁ』あなたが頷いたこと。

 覚えてる?

 あなたは知らないでしょ。私が大掃除のたび、こんな小学生みたいな遊びにあなたを付き合わせてる理由を。あの大きな虹をもう一度見たいからなんだよ。

 海の向こうまで続く大きな虹を見れば、きっとあなたはもう一度、私だけを見て笑いかけてくれる。約束を思い出してくれる。

 虹は。私とあなたを繋ぎとめる唯一の糸なんだよ。いつの間にか違うグループ、違う部活。こんなに遠い私とあなた。

 いったいいつまで、あなたは私のこんな遊びに付き合ってくれるんだろう。


「違うよ」

 キョウカは呟いた。また震える私のブラウス。肌にぴったりとくっついている。

「何が違うの」

 キョウカはホースの水の行方を追ったまま、顔色ひとつ、声色ひとつ変えずに言う。空を見上げるその大きな目がなんだか妙に腹立たしくて。

「虹を作るのに一番必要なのは、太陽の光だよ」

「何言ってるの、だって雨が降ったから虹が」

「ねえアヤ、夏休みって楽しみ?」

 キョウカは投げつけるような私の言葉を遮って問う。意味が分からない。私はどう答えればいいの。


「私は、」

 キョウカ、1か月半って長いよ、あなたがいないとつまらないよ。「私は、楽しみだよ。夏休み」


「そう」

 なんだかつまらなさそうに言って、ホースの先の海を見つめる。「別に。それならいいけど」


 そして突然、キョウカは私に肩からぶつかってくる。

「え? なに、ちょっと、危ない」

「太陽だよ」

 あなたのブラウスまで濡れちゃうでしょ。ホースから水を出しっぱなしだから危ないよ。いきなりショルダータックルって何。言いたいことはたくさんあったけれど。

 半袖のブラウスから覗くキョウカの腕のやわらかさ。滑らかさ。そのせいで何も言えない。


「虹を作るのに一番必要なのは太陽の光だよ。何よりも強くてきらきらしたエネルギー。太陽が無ければ、何をやっても虹は出ないんだ」

 ほら、太陽はあっちだよ。私と同じ方向を見てよ。

 私の胸の中、私の視線を束ねるみたいに。キョウカは海のほうを指さす。

「アヤはね、もっと太陽の大切さを知ったほうがいいよ。太陽を見つけて。そうすれば、大きくてきれいな虹ができるから」


 夏の始まりの太陽の下で、キョウカの髪はオレンジ色に染まっている。明るくて熱くて。校舎の中に充満していたオレンジの香りが突然私に向かって吹き付けてきたみたい。

「ね、アヤ。私は知ってるよ。太陽がどんなに大切なのかを」

 濡れたブラウスがキョウカの体温を吸い取って熱くなる。どんどん上昇していく夏の温度、むせかえるような濃密なオレンジ。

 まるで太陽みたいだ。

 眩しくて、熱すぎて。直接見ることが出来ない。ただその温度を身体全部で感じながら、私はキョウカと同じほうへホースを向ける。


 見下ろした海の向こうへ、二人分の虹がかかる。

 こんなに大きい虹を見たのは初めて。キョウカが私に見せてくれた虹よりずっと大きい。

「こんなに大きな虹になるんだね、ふたりなら」

 ってキョウカが海の向こうをじっと見つめてるから、私はその横顔に、

「太陽の場所が、やっと分かったから」

 って言ってやった。

 

「意味わかんない」

 キョウカは私の胸に体重を預けたまま、ぐいぐいと体重をかけて腕を押し付けてくる。「もっと分かりやすく言ってくれないと、全然、わかんない」


「いいよ別に、分からなくても」

 だから。そんなに近づかないで。

「教えてよ」私の胸に押し当てられる耳。「アヤの心臓が、こんなにどきどきしてる理由を」

「だから言ってるじゃん、分からなくていいって」

 音は波だ。ちゃぷちゃぷと、私の胸に当たるたびに大きく揺らぐ。

「アヤはさ、覚えてる? 虹の根元に行けば、」

「願いが叶うってやつでしょ」


 まだ耳を当てられたままの胸が熱くて、続けて言ってやる。

「私の願いは、多分もう叶ったのかも」せめてもの仕返し。

「意味わかんない」キョウカは顔の向きを変えて、私の胸に顔をうずめる。「じゃあ私の願いなんて、ずっと前から叶ってたもん」

 ホースの向きがずれて、地面に跳ねた水が私たちの足下を濡らす。

 あぁ。まるで二人、海と繋がってるみたい。

 波にさらわれる。


 ここは虹の根元の片側。虹を作った瞬間に願いが叶う場所。

 虹はここから眼下の海まで続いている。

 ベイブリッジ、大黒埠頭、水平線の向こう。

 いつか行ってみたいね。

 って思うだけで言葉には出してあげない。


「ね、キョウカ、夏休みだけどさ」

 太陽の場所を知った私は何度だって虹を架けることが出来るから。

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