春眠痴漢を覚えず
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第1話
「ふあ~~」
欠伸をひとつ。
春は心地いいなあと健太はしみじみ思った。いつもの超満員通勤快速のつり革につかまりながら眠い眼で窓の外を眺めると、青空の下、川沿いに並ぶ満開の桜と菜の花がよく映えていた。
そういえば、天気予報で今日から本格的に暖かくなると言っていたっけ。本当にいい天気で、ポカポカしていて気持ちがいい。
眠い目をこすりながら、健太はまたひとつ大きな欠伸をした。
あ、そうだ。今日の予定を確認しておかなくては。狭い中、体をねじってスマホをポケットから取り出す。毎朝、通勤の電車で一日のスケジュールに目を通すのが健太の日課だった。
スマホの電源をつけ、きれいに並べられたアプリの一つを開く。何事もきれいに整頓しなければ気が済まない健太は、スマホのアプリもすべてラベリングし、並び替えている。そのとき、ふと違和感を覚えた。
『あれ、俺のスマホってこんな色だったっけ…?』
なんだか少しだけ色が違うような気がする。どう違うのかはわからないが、確かにいつもとは違うのだ。そういえば、なんとなく今日はずっと変な気分だ。なんだか宙に浮いているような、ふわふわしたような…。
しかし、そんな健太の疑念はすぐに何処かへ行ってしまった。
ふと顔を上げたその横に、女が立っていた。それだけならどうということもないのだが、その女はつい目を逸らしてしまうほどの、健太が今まで見たことのないくらいの美人だったのだ。
黒い長い髪。整った目鼻立ち。しかしそこに確かにある人を引き付ける愛嬌。すべてが魅力的だった。なにか別世界の住人のように、健太には思えた。
一目惚れなんてありえないと思っていたのに、簡単に心を奪われた。
突然のことに驚いた健太は、いったん落ち着こうと呼吸を整えた。そして気づかれないようにこっそりと、スマホを見ているふりをしながら、女のほうをもう一度見る。やはり、まごうことなき美女だった。芸能人か何かなのかと健太は思った。
それから健太は何度も女のほうに目をやった。何度見てもそこには健太の理想があり、健太の思考のすべてはその女に奪われていた。
何度か、声をかけてみようか、バランスを崩したふりをして女に触れてみようか、などと普段はありえないことを考えたりもした。健太は、女に自分の存在を感じてほしかった。しかし、そんなことが不可能なのは誰よりも自分が一番わかっていた。
だからこそ、健太はすべてを想像のうちに留めておいた。それでも健太は、こんな美女が隣にいるだけで幸せに感じた。
その時、不意に電車が揺れた。カーブに差し掛かったのだろう。乗客が一斉に傾く。そこで健太は、自分がかなり女のほうに傾いていることに気づいた。
一瞬、このまま触れることができるんじゃないかという思考が頭をよぎる。手が無意識に伸びていく。
しかし、すんでのところで健太は思いとどまった。なけなしの理性を働かせた。そうしたつもりだったのだが。
気づいたときには、健太の手は女に触れていた。
頭が真っ白になった。早く手をどかさなくては。いや、謝ったほうがいいのか。ぐるぐると思考が回って答えが出ない。
「キャーー!」
突然女の声が響いた。びっくりして手を引っ込める。しかしそれは目の前の女の声ではなかった。
訳が分からないのと、自分がやってしまったことへの衝撃で一瞬放心状態になる。すると、
「ふふっ。真面目なんですね」
女がいきなりこちらを振り返って言った。
その瞬間世界がゆがむ。世界が遠くなっていくような感覚を覚える。女は怪しい笑みを浮かべていた。
そのとき健太はなぜか唐突に今朝のテレビを思い出した。
春は不審者が増えます。特に痴漢、ストーカー、暴行などには注意してください――
はっ。夢だったのか、良かった。健太はとりあえず一安心した。
それにしても、いつから眠っていたのか。顔を上げると知らない女の顔が真っ先に視界に入ってきた。その夢とのあまりのギャップに健太はつい驚いてしまったが、本当に驚いたのはこの後だった。
「痴漢です!」
その女は怯えたような目で、しかし健太をまっすぐに見据えて叫んだ。
何を言っているんだ――。瞬間、体に鈍い痛みが走り視界が90度回転した。自分が押し倒されたのだということに遅れて気づいた。
「暴れるな、おとなしくしろ!」
健太を押さえつけた男が高らかに叫ぶ。横にはスマホを縦に構え、動画を撮っているような男が見えた。
「ちょっと待ってくれ!どういうことだ!?」
必死に体をよじって叫ぶ。しかし健太の周りには既に空間ができており、取り囲む人々は皆興味と侮蔑の視線を注いでいる。この状況で健太に味方するような者がいないことは明白だった。
「間もなく到着いたします。お出口は右側です」
車内アナウンスが流れる。押さえつけてくる男に必死に抵抗して体が痛い。
すぐに電車は駅に到着した。健太は男数人に捕まって連れ出される。なんでこんなことになっているのか、訳が分からない。
ホームに出ると、遠くに、きれいに晴れ渡った空が見えた。名も知らない鳥の平和なさえずりが場違いに響いていた。
春眠痴漢を覚えず R @rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
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