サクラナミキ
惣山沙樹
サクラナミキ
鬱病で休職したのがきっかけだった。服薬が安定し、眠れるようになったので、その頃隆盛を極めていたメタバース空間に散歩に出かけたのだ。ある時は海の中にピアノが置いてある幻想空間を。ある時は緻密に再現されたらしい一九五三年のローマを。
自分でも創ってみようと思うようになるまで、そんなに時間はかからなかった。僕が創ったのは「サクラナミキ」。僕が子供の頃に一本残らず枯れてしまった、サクラという木を並べただけのものだった。
最初の一ヶ月の来客者数はお粗末なもので、滞在時間を確認するとほんの数分ほどだった。それでも自分が創りあげた空間は愛着が持てて、時間とお金が許す限りの範囲で改良を重ねた。じわじわとお客は増えていった。実際にサクラが咲いていたという四月にはイベントを行ったのだが、これが評判になり、そこから常連客を掴むことができた。
僕は会社を辞めた。メタバース空間クリエイターとして生きることを決めたのだ。両親に頭を下げて田舎に帰り、そこで仕事を行った。十年間の間に、僕が関わったメタバース空間の数は百を超えた。他人が立ち上げたプロジェクトに参加することもあれば、僕が人を集めてやってみたこともあった。
それでも、僕が最も愛していたのは「サクラナミキ」だった。僕の原点。僕が帰る場所。それが「サクラナミキ」。一時の流行は去り、訪れるお客の数は減る一方だったのだが、ある時ログを見ていて気付いた。「桜」という名前のユーザーが、毎日夜八時になると入ってくるようになっていたのである。
「こんばんは」
桜が日本人であることはプロフィールを見てわかっていた。だからそういう挨拶をした。
「……こんばんは」
桜のアバターは、黒いロングヘアの女性の姿だった。プリセットで選べる白いワンピースを着ていた。特に凝ったメイキングはしていないようだ。それでかえって好感を持った。
「ここのクリエイターの
「あっ……わかるんですか、そういうの」
「はい。ログが残ります」
少し委縮させてしまったかな、と思った僕はこう言った。
「ベンチにかけて話しませんか。どうしてここを気に入っていただけたのかとか、聞かせて頂けると参考になります」
「では……」
僕のアバターはスーツ姿の男性だ。メタバース空間ではどんな姿を取るのも自由だけれど、僕は仕事での付き合いもあるし、実年齢に近い五十代程度のモデルを選択していた。桜と並んで座り、上を見た。
「……桜さん、というお名前だけに、サクラがお好きで?」
「ええ。本名なんです。本物は見たことがないんですけどね」
なるほど、桜はまだ若いらしい。僕は続けて尋ねた。
「どうですか、ここのサクラは」
「本物を知らないので、こう言っていいのかわからないんですけど。とても丁寧で、優しくて、あたたかくて。本物のサクラとそっくりなんだと思います」
ここのサクラはリアルだという評価を受けていた。なのでその辺りは自信があった。本物を知らない世代にまでそう言われるというのは光栄なことだ。
「ありがとうございます。楽しんでいってくださいね」
そうして、話を切り上げてしまおうとしたのだが、桜が言った。
「あ、あのっ……もう少し、お喋りしてもいいですか。わたし、ちょっと事情があって。滅多に他の人とお話できないものですから」
「……いいですよ」
職業柄、雑談は得意だ。現実の季節は冬だった。クリスマスに向けて、大規模なパーティーイベントの企画に携わっていること。日中はその作業に明け暮れていること。つい徹夜してしまい、翌朝寒くて中々ベッドから抜け出せないこと。
桜も自分のことを話してくれた。東京の高校生なのだという。学校生活について聞いてみようか、ということが一瞬頭によぎったが、事情という一言を思い出し踏みとどまった。察するに……病気で通学できていないのか、何か問題を抱えて不登校なのか。普段の生活でこんなに若い子と関わる機会がないため、僕は慎重になった。
それから、僕は毎晩桜と言葉を交わした。一方的に僕が話すのを桜が聞いている、という構図であり、果たしてそれでいいのかと彼女のアバターを伺うが、基本モーションにある微笑のままで。嫌になればそもそも入って来ないか、と割り切った僕は、仕事や暮らしについてのくだらないことを彼女に聞かせるのであった。
そして、三月になった。やはりこの季節は皆、サクラを見たくなるのだろう。昼の来客者数は増えていた。しかし、夜に居るのは僕と桜だけ。その日僕は珍しく酒を飲んでおり、浮ついた気分で桜の隣に腰かけた。
「正木さん、何だか今日は声が違いますね」
桜はそんなことまで即座にわかるようになっていた。
「ああ、父親に付き合ってね。日本酒を少々」
「お酒って、美味しいですか?」
「まあ……僕はちょっとだけでいいかな。美味しいけど、翌朝が辛いよ」
さて、今夜はどんな話をしようか。女子高生に日本酒の話を広げてみたところで仕方がないな。やはり仕事の話か、と切り出しかけたその時だった。
「正木さんって……どちらにお住まいなんですか?」
桜から尋ねられてしまった。
「どうしたの。まあ……田舎の方だけど」
「わたし、現実の正木さんとお会いしたいです。好きになっちゃったんです」
悪い冗談を言うような子ではない。それはわかっていた。だからこそ、僕はたじろいだ。
「……僕は実家暮らしの冴えないオジサンだよ。君のような若い子が恋する相手じゃない」
「それでも、好きになったんです。正木さんのこと、もっと知りたくなったんです。どんなに遠くても会いに行きます。だから……」
「ダメだよ。せっかくの若い時間をこんなオジサンに使っちゃいけない。実際に会えば、幻滅するだろうしね」
「そんなことありません。わたしは、わたしは、正木さんのお話を聞いていて、お人柄が好きになったんです」
らちがあかない。僕はベンチから立ち上がった。
「……もう、会わないでおこう。さよなら、桜」
そして、僕が行ったのは、桜の「サクラナミキ」からの追放処理だった。
あれから、また月日が流れた。僕の仕事は変わらず好調だ。桜も今頃、立派な女性になっている頃だろう。僕は僕の選択が正しかったと信じているし、後悔もしていない……そう、言い切ってしまえることができたら、どれだけよかったのかと思うけれど。
僕は時折「サクラナミキ」を訪れては、ベンチに座って花を見上げるのだ。
サクラナミキ 惣山沙樹 @saki-souyama
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