霧雨と鹿 —王姫雷歌

筑駒文藝部

本文

霧雨と鹿

王姫雷歌


 雨が、霧雨がさらさらと舞う中で、少年が歩いていた。

 半月が朧げに雲を透かす寒い真夜、人家も疎な一本道を、冷たいアスファルトの上を歩いていた。

 少年は影を見ていた。たまにふらりと現れる街灯。ちりちりと雨粒を照らし出す。下手な月の真似事みたいだな、そう呟いて、少年は立ち止まった。

 明かりの少し手前から再び、ゆっくり歩き出す。後ろを見ながら、彼の影が、彼が圧縮され、削りとられていくのを濡れた眼で楽しむのだ。街灯を通り過ぎると、また影が成長し始める。十歩ほど足を進めたところで、立ち上がった少年の分身は、影写された身代わりは巨大に、また見えないくらい薄くなった。

 少年ははっと目を逸らした。次いで自分の手足が正しく動くか確かめた。そうやって実在感をいちいち確かめていないと、黒々しいものが溢れ出してしゃがみこんでしまいそうだった。

 影は光なくして成り立たない。影の自分が何か言いたそうにしている。途方もなく希釈された自分をこのまま懐中電灯で照らしてしまったらどうなるだろう。そんなことばかり考えては目を閉じていた。

 この夜も、長雨に染み出して、何も映さない昏い水溜りになりたいなんて、思っていたのだ。

 しとしとと、雨になって、横たわろうとした時に、音がした。

 見れば鹿がいた。小ぶりな雄鹿だ。角もどこか変な形をしている。何かを間違えて歪んでしまったようなミルク色の角が照らし出された。どこかから逃げ出してきたのだろうか。少年の寂しげな目は鹿に共鳴した。凍てる紫に染まった少年の心と同じ色を感じた。

 ふと背を撫でてみる。毛並みは触り心地が良かった。鹿は黙っていた。自分の角の醜さを恥じているような表情だったが、少年は気にもしていなかった。代わりに湿った冷たい背中をさすった。

 少年は思う。この鹿に会うことは、前からずっと、この世で漂流を始めた時から知っていた気がする。彼はゆっくりと鹿の顔を覗き込んで、歩こうか、と言った。

 

 一本道を少年と小さな雄鹿が歩いていた。彼らは何も喋らないが、お互いの心を共有していた。少年はもはや、雄鹿に愛まで感じていた。人間に感じるような、愛を。人間に感じたことのない、愛を。たった数分前に出逢った一匹の鹿に感じていた。鹿も、その感情を全身で受け止めていた。

 進めば進むほど見通しは悪く、震える寒さがあった。柔らかな霧は氷雨にもならず、ずっと同じ調子で降り続く。

 もう明日になっただろうね。この細かい雨が止んで、あの山の奥から光がこっちに飛んでくる頃には、何処にいるだろうね。少年は鹿に、心の中で問いかけた。


 鹿は何も言わない。少年も何も言わない。

 

 彼らは口を開きたくはない。

 

 静かさの中、凍てつく酷寒の中。

 

 ずぶぬれの鹿は俯き加減に少年を見、顔に陰を作った。

 

 同じような街灯が、同じような景色に並び、

 

 寒さと光の残酷な針をあたり一面に突き刺した。

 

 柔らかな霧雨が怯える。朧月は疾うに地の底に沈んでいた。

 

 だめだ、寒いや。君は寒くないのかい。少年は鹿に思った。鹿は少年を見つめた。別にこれくらい、なんともないよと、目が語っていた。

 霧雨が遂に弱まってきて、気温はさらに下がっていた。少年はとうとう、座り込んだ。

 もう、いいかな。歩みを止めた雄鹿に向けて、彼は独り言を浮かした。光の矢が言葉の泡を無惨に破る。空笑いで、いくら光に抵抗を試みても、鹿がいくら沈黙で抗っても意味はなかった。

 そして、冷たく濡れた少年は水溜りに降り注いだ。彼の成分は水に溶け出した。後には彼の薄い上着が残った。水面には彼の諦めたような微笑みの残像が微かに揺れていた。

 やがて遥か遠くから、日の出の光がやってきて水溜りを照らした。光は反射して一斉にきらめいた。夜明けと同時に雨は止み。雄鹿は水溜りに自分の顔を映した後、森へ音を立てて走り去って行った。


(終)

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