アムネジアのフィニアンと呪われた黒豹

紬 蒼

第1話 旅のはじまり

 目を覚ますとどこまでも高い空が青く遠く広がっていた。

 雲一つない澄んだ青い空に心地良い風が吹き抜ける。


 その鼻に不穏な臭いが漂って来て、少女はゆっくりと起き上がった。

 そして眼前に広がる光景に言葉を失った。


 焼け焦げた大地、そこに点在する炭と化した建物の残骸や瓦礫。

 大規模な火事があったようだが既に鎮火し、辺りは静寂に包まれている。


 その中心部に自分が立っているのだということは分かったが、一体ここで何が起こったのか思い出せなかった。

 それだけでなく、この場所が何だったのか、自分が何者なのか、自分の名前さえも思い出せないことに気づき、愕然としてしばしその場に立ち尽くす。

 ゆっくりと何度も周囲を見渡し、恐る恐る歩き回っても見た。

 だが、何も思い出せず、ただ何か怖いことがあったような気がして手が震え始めた。


 そして初めて自分の手が煤と土で汚れていることに気づき、自分の状態を確かめてみた。

 手足にかすり傷はあったが大きな怪我はなく、手だけでなく着ている服や足も汚れており、恐らく顔も汚れているのだと感じた。


 ここから逃げなきゃ。


 ふとそう思い、その場を離れ、しばらくは平原の道を歩いていたがいつしか森の中を歩いていた。


 どこに行けばいいんだろう?

 家は……さっきの場所にあったのかな?

 だとしたら……私の家族は……


 そんなことを俯きながらぐるぐると考えていると近くで何かが動く音がした。


 人がいる?

 あそこで何があったか知ってるかもしれない。

 知らなくても人がいる場所へ連れてってくれるかもしれない。


 そう思い、音がした方へ踏み出した瞬間、そこから現れたのは狼だった。

 反射的に半歩後退するが、鋭い眼光に睨まれ、足が震えて思うように動かない。


 逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。


 そう自分に言い聞かせていると口から何か言葉が出た。

 その瞬間、足が動き、風のように走り出した。

 狼の走る足音、吠える声がすぐ近くでする。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 誰か助けて、助けて、助けて。


 心の中で叫びながら無我夢中で走っていたが道無き森の中は至る所に樹の根が張っており、苔や落ち葉、雑草などで足元はかなり悪い。

 しばらくはそれでも上手く走れていたが何かにつまずいて転んでしまった。

 そこに飛び掛かって来た狼に思わず目をつむる。


 直後、子犬のような短い鳴き声がして、そっと目を開けると大きな黒豹が狼の喉元を前足で踏みつけていた。

 この隙に逃げないと、と立ち上がろうとしたが足が震えて上手く起き上がれない。

 焦れば焦るほど震えは酷くなり、手にも力が入らず、這うようにしてその場から逃れようとしたがその背に人の声が降りかかる。


「助けてやったのに礼も言えないのか?」


 驚いて振り返るが周囲に人の姿はない。

「やっぱり人の子供など助けるんじゃなかった」

 再度発せられた声は目の前の黒豹からした。


 動物って言葉を話せるんだっけ?

 言葉が通じるんだっけ?


 混乱していると黒豹は苦しそうに藻掻く狼に咬みつこうとした。

 それを見て反射的に「ダメッ」と声を上げ、次いで何か別の言葉が口から滑り出た。

 すると黒豹は何かに弾かれたように後方に吹き飛び、地面に転がった。

 その隙に狼は慌ててその場を逃げ出し、どこかへと走り去った。


「お、お前……何しやがった?」

 黒豹が驚いた様子で身を起こしながら吠える。

「チビの癖に一丁前に魔法が使えるのかよ? お前のせいで昼飯が逃げたじゃねぇか。助けてやったのに礼を言わねぇどころか昼飯の邪魔までしやがって。代わりにお前を昼飯にしてやるっ」

 そう言って飛び掛かろうとした途端、黒豹の姿は小さく縮み、黒猫の姿に変わってしまった。

「なっ、何だよっ。またこれかよっ。せっかく元に戻れたと思ったのにっ」

 黒猫になった黒豹は苛立った様子で少女の目の前に着地し、小さくなった自身の手を見つめて「クソッ」と舌打ちをした。


「猫ちゃん?」

 少女が首を傾げると黒豹は「あっ?」と不機嫌そうに睨みつけた。

「猫じゃねぇ。豹だよ。さっき見ただろうが」

「でも……」と少女が黒豹を指差すと「クソッ」と黒豹は再度舌打ちをした。


「人間の子供を助けたら呪いが解けるって言うから助けてやったのに。狼を仕留め損なったからか? お前が礼を言わなかったからか? それともそもそも助ける子供ヤツを間違えたのか? チッ、あの嘘吐き魔女ババアめ。オレ様を騙しやがったな」

 ブツブツ毒吐く黒豹改め黒猫に少女は再度首を傾げた。


 姿が変わる動物は多分普通じゃない。

 言葉が話せるのも多分普通じゃない。

 何か不思議な力でこうなってるだけなんだ。

 もしかして本当は人間なのかな?


 そう納得するとさっきまで怖いと思っていた豹がなんだか可哀想に思えて来た。

 見た目が豹から猫に変わったせいもあるかもしれない。

 事情は良く分からないけれど困っているのは分かった。


「あ、あの……あのね、さっきは助けてくれて、その、ありがとう」

 おずおずと礼を言うと黒猫は豹の時と変わらず鋭い眼で少女を見据えた。

「なんだよ、今更礼を言っても昼飯には変わりないからな?」

「だ、ダメだよぉ。私なんかチビだからお腹いっぱいにならないし、多分おいしくないよ」

「じゃあお前がさっきの狼捕まえてくれるのかよ?」

「無理だよぉ」

「猪か鹿でもいいぜ? でも、ま、鈍臭そうなお前には兎くらいしか捕まえられないか。それで勘弁してやってもいいけど?」

「ダメだよぉ」

「あ? なんでだよ? オレは豹だからな。肉喰わないと死ぬんだよ。草喰えねぇし」

「猫ちゃんは何でも食べるよ?」

「だからオレは猫じゃねぇっ。豹だ、豹っ。何回言わせるんだ。バカなのか?」

 くし立てると少女はしゅん、と俯いた。


「うん……私、何にも覚えてないの。自分の名前も分からないの」


 黒猫は改めて少女を見た。

 泥だらけの服、手足も汚れて擦り傷だらけ。

 そして何より薄汚れているが珍しい真っ白な長い髪。


 その髪の色は死ぬほど怖い目に遭ったことを意味する。

 髪の色が抜けるほどの恐怖。

 さらにこの子供は記憶まで失うほどの恐怖を経験している。


 黒猫は確信した。

 元の姿に戻るにはこの子供が鍵になる。


「オレはレオ。呪いのせいでこんな姿だがお前の記憶を取り戻すのを手伝ってやる」

「本当? じゃあ私のこと食べない?」

「ああ。食べない。それどころかまた狼に襲われたら守ってやる」

 黒猫がそう胸を張ると少女は嬉しそうに目を輝かせた。

「んで、お前の名前は?」

 レオに問いに少女の表情は再び暗くなる。

「私……名前、ない」

「あ、そっか。覚えてないんだっけ? んじゃ、髪が白いからフィニアンだな。略してフィンだ」

「フィン!」

 少女はパッと顔を輝かせ、嬉しそうに笑った。


 無邪気な少女、フィンの笑顔にレオもニヤリと密かに笑んだ。

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