愛しい人よ。汝の手を取り、再びかの地に舞い戻らん。

第86話 愛しい人よ、目覚め給う

 数ヶ月が過ぎた。


 その間、世の中は大きく変わった。応援に駆けつけてくれた国連軍の協力もあり、日本は何とか持ちこたえた。だが、その後が大変だった。多くの人が亡くなり、至る所で被害が生じていたため人々は疲弊しきっていた。

 通信環境は復活したが、憶測と現実、真実と虚構が入り混じって、誰もが疑心暗鬼になっていた。生活物資は不足し、日本中は混沌としていた。


 その中でも人々は懸命に生きようと必死だった。


 夏はとうに過ぎ、秋の気配が深まる頃。冬華の命は助かったが、彼女は未だ眠ったままだ。脳波計のモニターは緩やかなリズムを刻んでいる。入院した当初、身体中に繋がれていたコード類は最近やっと数が少なくなった。


 鷲は窓から外を眺めていた。彼は海外から戻ってきた両親に冬華の話をし、一緒にいたいと告げた。鷲の両親は身寄りのない冬華を案じて、息子の申出を快く引き受けてくれた。


 病室の窓からは中庭が見える。あの惨劇などなかったかのように、レンガ造りの花壇には小さな花が色づいていた。今日は天気がいい事もあり、散歩をしている人の姿も見える。


 ゆかりんは御堂と会話をしながら時折、冬華の顔を覗き込んでいた。

「冬華、今日はこんなに天気が良いよ。ほら、雲が流れている」

 ゆかりんがいつものように声をかけると、今まで一度も動かなかった彼女の瞼がゆっくりと開かれた。

「え? え? 冬華?」

「お、おい鷲。気が付いたぞ」

 御堂が慌てて鷲を呼ぶ。

「私、先生を呼んでくる」

 ゆかりんが、慌てて廊下に飛び出した。

「えっと……ここは?」

 ゆっくりと起き上がり、冬華は首を傾げた。

「ここは病院だよ、冬華、良かった。本当に良かった」

 鷲は冬華の両手を握りしめた。

 だが、冬華は不安そうに握られた手に視線を落とす。そして鷲を見た。

「あの……すみません。あなた、誰です?」


 冬華を診察した医師が鷲に告げる。

「おそらく逆行性健忘だと思われます。外傷により脳が損傷した際に、記憶を司る海馬がダメージを受けているようです。診察したところ、これからの生活で新しい記憶を造るのは可能でしょう。しかし、過去を思い出すのは不可能かもしれません。日常生活に必要な動作は行えますので、記憶が戻るのを気長に待ちましょう」

 彼女の記憶からは、鷲との思い出すべてが消し去られていた。


 冬華のことはゆかりんに任せ、鷲と御堂は病室があるフロアのロビーに向かった。 ロビーと言っても楕円形をしたテーブルが一つ置かれ、周囲には椅子が五脚ほど並べられているだけ。他には自動販売機や給湯設備がある簡単なものだ。

 御堂は自動販売機でコーラを二本買い、一つを鷲に差しだした。


「ほら、前に飲みたいって言ってただろ」

 差しだされたコーラを受け取りながら鷲は少し考える。

「ああ。ずいぶんと前の話だね。あれは、まだ冬華が覚醒する前だった」

 そう言って力なく笑った。

「それで、医者は何て言ってるんだ?」

 鷲は医師から聞いた話を御堂に伝えた。

「冬華は前世はおろか、今の自分自身も分からないんだ。勿論、僕のことも」

 全てを聞いた御堂は、悲しいような憐れんでいるような顔で鷲を見た。

「そうか……せっかく意識が戻ったのに、あんまりだな」



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