第41話 壊れゆく過去と現在

「いきなり何ですか」

「さぁ、静を差しだすのだ。そなたが、昔、静の子を差しだしたように」

 低い声で興俄が言うと、先ほどまで聞こえていた虫の声が消えた。


『文治二年(一一八六)閏七月小廿九日庚戌 靜産生男子 是豫州息男也 中略

仍今日仰安逹新三郎 令弃由比浦 先之 新三郎御使欲請取彼赤子 靜敢不出之 纏衣抱臥叫喚及數剋之間 安逹頻譴責 礒禪師殊恐申 押取赤子与御使  以下省略 

吾妻鏡 第六巻より』


 静御前は男子を出産した。頼朝は安達新三郎に赤子を由比ヶ浜に遺棄するよう命じる。安達が赤子を差し出すよう静御前を責め立てるが、彼女は数刻泣き喚いてこれを拒否した。恐れた母の磯禅師は赤子を横取りして、安達に差しだしたのである。


「この人と話をするから、冬華は先に入っていなさい」

 震えた声で母が告げると

「お母さん、私が話すよ。先輩、とりあえず入ってください」

 硬い表情で、冬華は家のドアを開けた。


 部屋に入った三人は立ったまま向かい合っていた。

「先輩、私は全てを思い出しました。貴方のことは今でも憎んでいます。今すぐ私の前から消えて。もう二度と姿を現さないで」

 明らかな拒絶の態度を取られ、興俄は眉を顰めた。

「思い出したからどうしたと言うのだ。わざわざ迎えに来てやったんだ。俺と共に来い。断れば、あの男を殺すだけだ。お前に拒否権はない」

「そんな……」

「お願いです。もう、娘を解放してください。この子は充分に苦しんだ。今生こそは、愛する人と添い遂げさせてください」

 母は縋るように言うが、彼は表情を変えない。母は意を決したように台所に向かった。戻って来た手には包丁が握られている。

「お、お母さん、何をするつもり?」

「今度こそは全力で貴女を守ると決めたの。貴女のためならこの人を殺したってかまわない。冬華、逃げて。お母さんのことはいいから。そして今度こそは幸せになりなさい」

「でも、お母さん……」

「早く行きなさい!」

「邪魔立てすると容赦はしない」

「もう充分でしょう! 冬華を解放して!」

 母はそう叫びながら興俄に飛び掛かった。二人はもみ合いになりっている。数10秒後、母が崩れ落ちるように倒れ、興俄は血だらけの包丁を投げ飛ばした。母の腹部から血が流れていた。


「お母さん、お母さん!」

 冬華は泣き叫びながら母に駆け寄った。

「冬華……早く……逃げて……今度こそ、幸せになるのよ……」

「お母さん! しっかりして。ねぇ、早く救急車を呼んで! お母さんが死んじゃう」

 冬華の声を聞いた興俄はゆっくりと彼女に近づいた。彼の手や顔には血が飛び散っている。


「さぁ、俺と共に来い」

「嫌……こっちに来ないで」

 冬華は震えながらも彼と距離を取るように後退りした。興俄はその距離を少しづつ縮め、彼女の前に右手を差し出した。

「俺を裏切れば許さないと言っただろう。逃げれば犠牲が増えるだけ、邪魔する者は皆殺しだ。お前が来なければあいつを殺す。どんな手を使ってもな」

 冬華は首を左右に振った。

「そんなことさせない……それに、私はもう二度と貴方の思い通りにはならない」

「俺から逃げるつもりか? いや、違うな。俺から逃げられるとでも思ってるのか?」


 興俄は逃げようとする彼女の腕を掴み、己の方へ引き寄せた。


「無駄だ、逃げようとしても」

「やめ……」

 必死で身を捩ろうとするが、しっかりと押さえつけられて身動きが出来ない。

「やっと逢えたのだ。逃がしはせぬぞ」


 低い声で囁かれ、冬華の背中がぞくりとする。拘束される痛み。彼女の五感で感じる全てが絶望の淵へと落としていく。必死に抵抗を試みるものの思うように力が入らず、とても彼の力には敵わない。誰か気がついてと心の中で祈るが、助けは来ない。その間にも横たわる母の身体からはおびただしい量の血が流れていた。


 こうなったら力を使うしかない。人を傷つけるために力を使った事は一度もなかった。しかし今、目の前の男を倒さなければ母を助けられない。冬華は目を瞑り全身に力を籠める。

『お願い、この人を倒したい。彼を傷つけて。彼の動きを止めて』

 必死にそう願った。すると身体がバラバラになる感覚がやって来た。これは行けると思った次の瞬間、自分自身が吹っ飛んだ。身体が壁と床に叩きつけられる。何が起こったのか彼女には理解できない。腕が、足が、背中が痛む。倒れたまま目を開け視線を動かすと、興俄は無傷で立っていた。彼はゆっくりと仰向けに倒れている冬華に近づいた。


「ほう、その力で俺を殺そうとしたのか。だが、お前の力は他人を傷つけることはできないようだな。諦めろ、お前は俺に従うしかないんだ」

 倒れたままの彼女の唇が微かに動く。呼吸と共に吐き出した声は彼の名前を呼んだ。

「……鷲く…ん」

 その名を聞いた興俄の顔が顰められる。

「おまえは、俺のことだけを考えていればいい」

 興俄はしゃがみ込み掌で冬華の口を塞いだ。呼吸を制限され、身体中の痛みと息苦しさがいっそう彼女の恐怖を煽る。倒れた体制のまま、冬華の意識は薄れていった。

 

 その時、玄関のチャイムが鳴った。興俄は舌打ちをして立ち上がり、玄関に向かい渋々ドアを開けた。


 訪ねてきた鷲は目を見開いてたじろいだ。ドアを開けたのは、冬華でも彼女の母でもなくあの人。嫌な予感がする。


「どうして貴方が……ここで何をしているんだ」


「お前こそ、こんな時間に何の用だ」

 鷲は、冷たく言い放つ興俄を無視して家の中に押入った。かすかに血の匂いがする。視線の先、和室では冬華と母親が倒れていた。


「冬華!」

 名を呼んで彼女に駆け寄った。息はある。気を失っているようだ。ふと視線を動かすと彼女の母親は血を流して倒れていた。そばに血の付いた包丁が転がっていた。


「これはどういうことだ。彼女に何をした」

 鷲は立ち上がり、低く冷たい声で目の前の男を睨んだ。

「邪魔をするな、九郎。この女は俺のものだぞ」

 興俄は不敵な笑みを浮かべ、横たわる冬華を見遣る。その顔を見て鷲の表情は険しさを増した。

「俺のもの? ああ、やはりそうか。そうだったのか」

「何の話だ」


 興俄が怪訝な顔で言うと、鷲は彼に一歩近づいた。


「貴方の和歌はいくつも入集して、後世にも残っている。慈円と詠み交わしていたくらいだ。それなりの歌人だったのでしょう。僕は最近、あるパンフレットにあった句を見つけたんです。『この上に いかなる姫や おわすらん おだまき流す 白糸の滝』これは貴方が詠んだ句ですよね。仮託だとも言われていますが」


「それがどうした」


「僕はこれを見た時に違和感を感じた。おだまきは布を織る道具。麻糸を巻いたもの。あの時代、珍しいものではなかったかもしれない。しかし、この句を詠んだ七年前、彼女は貴方の前でこう歌いました。『しづやしづ しづのを(お)だまきくりかえし 昔を今になすよしもかな』と。もちろん知っていますよね。敵である僕を慕う歌など聞かされて、たいそう気分が悪かったでしょう。おまけに貴方への皮肉も込められている。本来なら二度と思い出したくもないはずだ。先の句を詠んだ富士の巻狩りの時、折角妻に送った使者を追い返されたそうですね。使者に事の顛末を聞かされて、妻を無粋な東女だと言ったとか言わないとか。貴方は強い女が嫌いではない。貴方の心には七年前に出逢った、凛として美しい日の本一の白拍子、静の姿がずっと残っていたのではないですか。富士の巻狩りの途中、美しい滝を見て情緒纏綿じょうしょてんめんとした気分になり、彼女の姿が浮かんだ。だから、あの忌々しい歌にあった『おだまき』を持ち出した。貴方は冷酷な人間だ。冷酷でありながら、情緒的な一面もある。一度出逢った聡明で美しい彼女を忘れるはずがない。貴方は昔、彼女を我が物にしようと傷つけ苦しめた。そうですよね」


「だったらどうなんだ。だいたい、お前が彼女を手放したのだろう」

「手放してはいない。また逢おうと誓い合っていたんだ」

「言いたいことはそれだけか。くだらんな。だいたい彼女の力は、お前のような人間では扱いきれん。さっさと帰れ」


 突き放すように言った興俄を睨み、鷲は黙って背負っていた長細い鞄を肩から降ろした。鞄を開け、中から長さ八十センチほどの刀を取りだす。鯉口を切り、鞘から一気に引き抜きいた。

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