第40話 母の想い、そして……
「ただいまぁ」
冬華が家に帰ると母はすでに帰宅していた。玄関先で鼻歌を歌う娘を見て
「何か良いことでもあったの?」と聞く。
「うん、ちょっとね」
「冬華、久しぶりに散歩でもしない? 明日から夏休みなんでしょ」
「え、散歩? 分かった、着替えてくるね」
着替えをを済ませて、母と二人で家を出た。遠くでヒグラシが鳴き始めている。夏の夜の始まりだと告げているようだった。
小さい頃から時々、母と近所を散歩をしていた。あれは月に一度くらいだろうか。散歩の途中、国道沿いにあるファミリーレストランで食事をした記憶がある。それが幼い頃の一番の楽しみだった。小学生低学年の頃、ドリンクバーでジュースばかり飲んでいたら食事が入らなくなると母が呆れ顔で笑っていた。明るい店内と、心地よい空気、響く笑い声、彼女にとってはどれも幸せな思い出だ。
「最後に散歩したのはいつだっけ?」
冬華が聞くと、
「中学校の卒業式の日よ。お母さんが誘ったら貴女はかなり嫌そうだったけれど。あの日の事は覚えているでしょう」
穏やかな口調で母は言った。
冬華は、ああそうだったと思い出した。楽しみだった散歩も、小学生の高学年になった頃から億劫になっていったのだ。確か中学生になった時から高校生入学までの3年間は一度も行っていない。
冬華は母と泊りがけの旅行に出かけた記憶がない。長期の休み中も母は仕事だったし、母の両親は冬華が生まれた時にはすでに亡くなっていた。父方の祖父母とも音信不通で一度も行き来したことがない。
夏休み明けの二学期初日、同級生が有名なテーマパークや、祖父母の家に行ったと話す姿が羨ましくないと言えば嘘になる。彼女の夏休みは、日帰りで行ける動物園や水族館、近所の夏祭りで、元々海が苦手な彼女はどこにも行かない年もあった。
中学生になると部活に加えて勉強が急に難しくなり、母との関係もぎくしゃくして、意図的に母を避けていた。
進路に悩み始めた頃、高校へ進学したいのなら、家から一番近い公立高校へ進学してねと言われていた。周囲の友人がいろんな高校のパンフレットを見比べていたり、県外の高校に通うため塾へ通っていたりする姿を見て、選択肢のない自分が悲しかった。何においても自分と友人とを比べてしまっていた。スマホは買ってもらえない、学習塾には通えない、欲しい服、可愛い文房具、家族旅行、ないモノばかりの自分に強い劣等感を抱えていた。なぜ自分が家事をしなければいけないのか。なぜ、制服が可愛い私立高校へ通えないのか。冬華が受験した(現在通っている)高校は、自分の成績で自宅から徒歩で通える唯一の公立高校だった。
そんな毎日が続いた中学の卒業式の日、家に帰った母が突然散歩に行こうと言い出した。冬華は行かないと突っぱねたが、卒業祝いにスマホを買ってくれると言うので、渋々ついて行くことにした。中学校のクラスでスマホを持っていないのは冬華だけだった。
先にファミリーレストランで食事をしようと言うので、仕方なく店に入る。
「冬華、卒業おめでとう。高校生活も頑張ってね」
席に着くなり出た母の言葉に黙って頷いた。早くスマホを買いに行きたいなと、頭の片隅でずっと思っていた。
「ドリンクバーはいいの? 子供の頃はあんなに飲んでいたのに」
「いらない」
さっさと注文し、黙々と食べた。母の問いかけにも『うん』『そう』と素っ気なく返した。
食事を済ませ、ファミリーレストランを出て少し先にある、スマホを取り扱う店へ向かう。店内に並べられた機種の値段に母は驚いていた。そういえば母は、画面の割れた同じものをずっと使っているなと思った。母に高価な機種は買えないと言われ、店にある一番安い機種を選んだ。
「やっとこれで普通の生活に近づけた」
スマホを手にした帰り道、彼女の口から本音が飛びだした。
「え? 普通ってなに?」
穏やかな口調で聞かれ、冬華はカチンときた。今まで自分がどれだけ惨めな思いをしていたのか知らないのだろうか。冬華は生まれて初めて母に対して声を荒げた。
「そんなことも分かんないの? 普通って言うのはね、私と正反対の生活だよ。賑やかな家族がいて、夏休みにはホテルに連泊して、美味しいもの食べて、誕生日やクリスマスには欲しいものを買ってもらって、やりたいと言えば習い事にも行かせてくれて、子供が家事もしなくていい普通の家庭のことだよ。私はどれも叶わなかった。好きで貧乏な家に生まれたわけじゃないのに」
頭では分かっていた。母を責めたところで、自分を卑下したところで、人と比べたところで現実は何も変わらないということを。それでも、声に出して言いたかった。
「ごめんね。子供は親を選べないからね。本当にごめん。何もしてあげられなくて」
母はそれだけ言うと黙った。
一切の言い訳をしない母を見て、冬華には虚しさだけが残った。母がどれだけ頑張って働いているかなんて知っていたはずだ。誰の所為でもない。それなのに母を責めてしまった。けれども発した言葉は戻らない。
「ゴメン……なさい。言い過ぎた」
冬華の言葉に、母は首を横に振った。
「全てお母さんが悪いの。冬華は今まで何一つわがままを言わなかった。ずっと辛かったんだよね。気づいてあげられなくてごめんね」
母の目には涙が浮かんでいた。とてつもなく、酷く母を傷つけた。そう思ったが、どうすることもできなかった。
「おかあ、さん」
冬華も泣きながら、母に近づいた。ずっと貯め込んでいた数年間の思いが涙に変わり、堰を切ったように溢れ出した。母がそっと冬華を抱きしめる。もうすぐ高校生になる娘は母の背丈を追い越していた。
道行く人が、不思議そうに二人を見ている。けれども親子はそれにも構わず抱き合って、声をあげて泣いていた。
その日から散歩には行っていない。けれども家では笑い声が絶えない、穏やかな毎日が過ぎていった。
二人は久しぶりに国道沿いのファミリーレストランへ行った。ここへ来るのは中学の卒業式の日以来だ。
「ドリンクバー頼もうかな」
冬華がはにかんで言うと
「じゃあ、お母さんも」
二人は顔を見合わせて笑った。
ファミリーレストランを出ると、日はすっかり沈んで空には月が浮かんでいた。
「お母さん見て。満月だよ」
「本当。こんなに綺麗な月を見たのは久しぶりよ」
国道をしばらく歩くと、川沿いの土手に出た。
「それで、良いことがあったんでしょう?」
母が尋ねると冬華は「うん、でもどうして分かるの?」と聞き返した。
「今の冬華ね。すごく幸せそう。お母さんだもの、そのくらい分かるわよ」
夜の闇に紛れて虫の声が聞こえた。キリギリスだろうか、月明かりに照らされた川面の付近から聞こえてくる。
「冬華の名前はお父さんがつけたのよ。貴女が産まれたのは雪の降る冷たい夜。お父さんはある絵画を見て貴女の名前を付けたの。霧に包まれた太陽がぼんやりと浮かぶ深く冷たい世界で、霧氷をつけた巨木が凛として立っていている絵よ。どんなに冷たい世界でも、折れることなく凛として欲しいってお父さんは言っていた」
「そうだったんだ。私、好きだよ自分の名前」
冬華が微笑むと母は続けた。
「貴女が3歳になった時にお父さんが突然、交通事故で亡くなって。相手の人は飲酒運転の上、無免許で保険にも入っていなかった。謝罪も保証もなくて、お母さんはただ途方にくれた。私とお父さんは半ば駆け落ちのように一緒になったから、頼れる親戚もなかったの」
「うん……。お母さん大変だったね」
「実はね、お母さんは一度、幼い貴女を連れて死のうと思ったのよ。全てに絶望して、先も見えなくて、どう生きたら良いかも分からなくて、思考すらできなくなった。ある夜、あなたに添い寝しながら『ふたりで死のうか。お父さんに会いに行こうか』って言ったの。そうしたらね、冬華は『うん、いいよ。私、お母さんが大好きだから。ずっと一緒にいたいから』って、屈託のない笑顔で微笑んだの。冬華の純粋な笑顔を見て、お母さんはなんて恐ろしい考えをしたんだろうって、涙が止まらなかった」
母の目には涙が浮かんでいる。
「そしてその夜、明け方だったかな。とても不思議な夢を見た。遠い昔だけれど、私はやっぱりあなたのお母さんだった。磯禅師というちゃんとした名前もあった。時代とか名前とかあまりにも鮮明に覚えていたから、翌日図書館で調べたの。そこで、私達は前世でも親子だって気がついた。今度こそは、この子の幸せを守らなければと思った。貴女が愛する人と巡り会えたのならば、今度こそは幸せになって欲しい。お母さんが願うのはそれだけ」
「お母さんは昔も私のお母さんだったんだ。だから、初めて興俄先輩を見て怯えていたんだ。あの人が誰か、知っていたから」
母は何も言わず、曖昧な笑みを浮かべている。
「私ね、漠然だけど思い出したんだ。あれが前世かどうかはまだ分からない。けれど、私じゃない誰かの記憶が、ぼんやりとだけど私の中にあった。辛くて悲しくて、とても愛おしく思う人がいて……」
「お母さんはね、相手が誰であれ今の冬華が幸せならそれでいいと思っていた。大切なのは過去じゃないからね。でも、やっと大切な人に逢えたんでしょう?」
「うん」
「今度、紹介してね。その素敵な彼を」
家の前に着き、母が微笑んだその時。
「そうはさせるか」
二人の前に男が立ちはだかる。
「興俄……先輩」
冬華が震える声で呟くと同時に、母は娘を庇うように興俄の前に立ちはだかった。
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