第34話 彼の本心
冬華は二人と別れ、駅に向かった。
休日の夕方、駅のホームは混んでいた。歩き続けた足が痛む。どこかに座りたかったが、ベンチはすべて埋まっていた。現実とかけ離れた話を聞かされて、彼女の頭は混乱していた。この痛む足は紛れもなく私のモノだ。自分が他の誰かだったと言われても、にわかには信じられない。けれど、鷲に出逢ってからおかしな夢を見ていたのは事実だった。
それでも、と彼女は思う。
少し前の記憶――例えば一週間前に何を食べたかさえ曖昧なのに、数百年前の話をされて誰が信じるだろうか。ただ、興俄先輩は自分ではない誰かを見ていた。それだけは理解できた。告白されて、彼女になって舞い上がっていた自分が惨めだった。
電車に揺られ、痛む足を引きずりながら彼女はなんとか家路についた。
翌日の放課後、
冬華が学校から出ると、興俄が正門の壁にもたれかかり腕を組んでいた。どうやら彼女が通るの待っていたらしい。
「なぜ一人で帰ったんだ。酷いやつだなぁ」
そのまま通り過ぎようとする冬華に、興俄は低い声をぶつけて来た。彼女は立ち止まり彼の方を向く。
「どうせ、北川先生が迎えに来てくれたんでしょう」
冷ややかに言う彼女を見て、彼はにやりと笑った。
「よく知っているな」
冬華は小さく溜息をつき、歩を進めた。興俄は笑みを浮かべたまま彼女の後ろを歩く。
「先輩が見ていたのは、私じゃなかったんですよね」
しばらく歩いたところで、冬華は足を止めて振り向き言った。
「何を言っているんだ?」
「先輩は初めから一度も私を見ていなかった。見ていたのは私の中にいる誰かだった。必要としていたのは、私の力だけだった。先輩にも前世があるんですよね」
真っ直ぐに言う彼女を見て、興俄の表情が曇る。
「もしかして椎葉に何か聞いたのか。あれから、あいつに会ったのか? 余計なことを……。それで、お前は何か思い出したのか?」
「椎葉くんからいろいろと聞きました。私は前世なんて信じられません。今ここに存在しないものを信じろと言われても、無理です。ただ私は……今ここで生きている私自身を、ちゃんと見て欲しかった。私は私であって、他の誰かとして見られるのは嫌です。先輩と北川先生はずっと昔から恋人同士なんですよね。先輩の意志で自分の傍にいるって、北川先生からも聞きました。私はもう先輩とは会いません」
「俺から離れるのか」
「だって、無理でしょう。私と会う前から付き合っている人がいるなんて、どうやって納得しろって言うんですか。もう二度と話しかけないでください」
「俺から、離れられると思っているのか。こうやって、巡り会えたんだぞ。それで充分だ。他に何を望む。ほんの数百年前なら、多くの妾がいるくらい何の問題もなかったんだ」
興俄は歩き出そうとした冬華の右腕を掴んだ。
「離してください。だいたい、今は令和ですよ。それに、その言葉は私に言っているんじゃないんですよね。帰ります。離して」
「嫌だと言ったら?」
「大声を出します」
「お前が大声を出したところで、俺は人の記憶を変えられる。周囲にどれだけ人が集まろうとも、ここからお前を連れ去るくらい、容易なんだよ」
「そんなの卑怯ですよ」
冬華が興俄を睨み付けたその時。
「ここにいたの? 探したのよ」
北川麻沙美が二人に近づき、声を掛けた。
「さようなら」
一瞬油断した興俄の手を振りほどき、冬華は走り去った。彼は追わず、小さくなっていく背中を黙って見つめた。
「俺を監視して楽しいですか? ホント、変わりませんね」
冬華の姿が見えなくなってから、皮肉めいた口調で言った興俄は、ゆっくりと北川麻沙美の方を振り向いた。
「あなたが静に興味を持っていることくらい、すぐに分かった。あれだけの器量ですもの、放っておくはずがない」
「何が言いたいんです」
「私に内緒で情を交わしたあの女が住んでいたのは、伏見広綱の邸」
「ええ、貴女が破壊しましたよね」
「それだけじゃない。文治二年。私が三幡を産んだ年、貴方と常陸介藤原伊佐時長の娘の間には男子が産まれていた」
冷ややかな声で告げる麻沙美を見て、興俄は明らかに不機嫌な顔になる。
「さっきから俺は何を聞かされているんだ」
「安達新三郎の屋敷に行ったんでしょう? あなたはそこで、彼女を……」
「そうだとしたら、どうなんです」
「御家人でもない雑色の男を、あなたはたいそう重宝していた。私の知らないところでも色々と使っていたんでしょう。確かに静が産んだ子が男子ならば生かしてはおけない。信頼できる人間に、彼女の身柄を預ける必要があった。でも、それだけじゃない。あなたは鎌倉に呼んだ静を傍に置こうと企んだ。もしも静が産んだ子が女子なら母子ともに、自分の傍に留めおくつもりだったんでしょうね。そのために、絶対に自分を裏切らず、口が堅く、権力争いにも無縁なあの男に彼女を預けた」
彼は何も答えない。
「けれど、彼女の心は頑なでどうしても手に入らなかった。見かねて私が彼女を京に帰した。多くの褒美を与えてね」
小さく溜息をついて北川麻沙美は続けた。
「貴方には私しかいないのよ。結局ね。ほら、行くわよ。早く乗って」
少し離れた所に停めてある車を指さした。
「俺から離れるなど、絶対に許さない」
小さな声で呟いて、興俄は車に乗り込んだ。
「あ、そうだ。私以外の信頼できる人間って誰? 夢野冬華に言ったそうね。信頼できる人間が二人いるって。一体誰なの? どこの女?」
アクセルを踏みながら麻沙美が尋ねる。
「何か勘違いをしているようですね。その人間とは恋愛関係などないですから、時期が来たら紹介します。俺は忙しいんだ。嫉妬するのはほどほどにして、協力してください。だいたい貴女の所為で、夢野冬華はあの男の元に行きそうなんですよ」
興俄は怒りを含んだ声で答える。彼は続けた。
「いいか。時代の転換期は必ずやってくる。俺が作り上げた幕府は、空白期間もありながらなんとか続いたが、江戸時代で終わりを迎えた。今は身分関係なく自分の意見を簡単に発信できる世の中だ。その中から影響力のある人間が現れ、世の中を変えたいと言い出してもおかしくはない。今批判を浴びていることだって、来年になればどういう反応になるのかわからないだろう。世の中は刻一刻と変化しているんだぞ」
興俄の口調は、とても高校生とは思えないものだった。不機嫌な顔で真剣に語る彼とは対照的に、麻沙美は嬉しそうにほほ笑んだ。
「やっぱり貴方はそのほうがいいわ。私は信じてるわよ、貴方がもう一度この国を治めるって」
「だからこそ、あの女が必要なんだ」
「まぁ、それだけでもないんでしょうけど」
麻沙美の言葉に、興俄は何も答えなかった。
彼の脳裏には、一人の女の姿があった。
――最初は興味本位だった。京で一番の白拍子。あいつの想い人がどんな女か見たかっただけだ。取調べを行っても奴の居所を話さず、話も二転三転していると聞き腹立たしかった。身籠っているというので、男子であれば生かしてはおけないと思い、清経(安達新三郎)に監視するよう命じた。対面し確かに美しい女だと思ったが、所詮それだけだ。舞を奉納せよと命じても、なかなか承知しない。白拍子ふぜいがと憎らしくも思った。
だが、あの堂々とした態度を見た時、己の中で言いようもない気持ちが沸き上がった。屈強な鎌倉御家人の中、たった一人であっても全く物おじしない。
神さえも喜ぶような見事な舞を披露し、芯の強さと内に秘めたる凄みを見せつけられ、忌々しさと共に無性に手に入れたくなった。全てを奪い尽くしたい、我が物にしたいと思った。あの女に対して、狂暴な独占欲が湧いて来たのだ。時を経てやっと手に入れた。あいつにだけは、絶対に渡すわけにはいかなかった――
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