第5話 記憶にありません。

 放課後、約束通り神冷興俄は靴箱の前にいた。彼は冬華を見つけると、微笑んで右手を上げた。


「すみません、お待たせしてしまって」

 冬華は申しわけなさそうに、頭を下げる。

「いや、待ってないよ。そう硬くならないで。じゃあ帰ろうか」


 爽やかに微笑まれて、冬華はぎこちない笑みを返した。鞄を持ちなおして、彼の隣に並んだ。他の生徒達は有名人である神冷興俄と、昨日まで全く目立たなかった冬華との組み合わせを好奇な目で見ている。

 正門前まで行くと、背後から『冬華、頑張れ』と声が聞こえた。

 振り向くと、ともちゃんとゆかりんがガッツポーズをしている。冬華は二人に小さく手を振り、溜息をついた。


「時間はある? どこかでちょっと話そうか」

 正門を出て、しばらく歩くと神冷先輩が言った。

「は、はい」


 二人はこぢんまりとしたカフェに入った。裏通りにあり、あまり人目につかない店だ。店内に入るとほんのわずかなスペースに、カウンター席がいくつかと三つのソファー席があるだけだった。ソファー席に向かい合って座ると、先輩がメニューを開いて見せる。


「何でも注文して。俺の奢りだから」

「あ、ありがとうございます」


 先輩はアイスコーヒー、冬華はオレンジジュースを注文した。

「俺について何も知らないって言っていたからさ。何か知りたいことはある? ここなら学校の人間は来ないと思うよ」


 そう言って彼は、ゆっくりとアイスコーヒーに口をつける。一挙手一投足が素敵ではあるが、冬華はどうも落ち着かない。


「神冷先輩って、モテますよね」

「まぁ、否定はしないけど」

 

 ストレートな問いに、先輩は苦笑いをする。


「どうして私なんですか? 今までの彼女だって綺麗な人ばっかりで……」 

「彼女達から言ってきたんだよね。付き合いたいって」

「はぁ」

「でも、やっぱり別れてくれって彼女達から言われた」

「はぁ」

「俺から告白したのはキミだけなんだけど」


 にやりと笑う先輩を見て、冬華はオレンジジュースに刺さっているストローに口をつけた。一気に吸い込むとズッと鈍い音がして、慌てて口から離すと今度はむせて咳き込んでしまった。


「おい、大丈夫か」

「神冷先輩、私をからかってますよね。一体、何がしたいんですか」

「興俄で良いよ。俺の苗字って言いにくいでしょ。それにしても、まだ疑っているんだ。ああ、俺も冬華って呼んでいいかな」


『シズカ……』


 その時、冬華の脳裏に自分とは違う名前が浮かんだ。浮かんだというか、誰かに呼ばれた気がしたのだ。勢い良く左右を見るが、誰もいない。勿論、呼んだのは目の前の彼ではなかった。


「ん? どうした?」

 不思議そうな顔で先輩が聞いた。

「え。その、ええと」


 冬華は気になっていた。


 自分の名は『とうか』なのにも関わらず、昨日、ファーストフード店で出逢った彼が口にした『しずか』という名前。最初は人違いだろうと思った。けれど、何だか分からないけれど何かが心に引っかかっていたのだ。


「あの……シズカって名前の人、誰かいましたか? アニメとかタレントとかじゃなくて、有名人で、ええと……すみません。いきなり変な話をして」

「源義経の妾、静御前とか」

 先輩は真っ直ぐな瞳を彼女に向けた。


「よしつねって誰でしたっけ?」

 冬華が首を傾げると、

「おいおい、覚えていないのか」

 

 先輩は声をあげて笑いだした。

 あまりにも嬉しそうに笑うので、馬鹿にされていると思った冬華はムッとする。

「日本史は苦手なんです。特に日本史B。あれって、登場人物や、年代、出来事、政治の仕組みとか、古代から現代までって覚える事柄が多すぎですよ」


 ムキになって反論する冬華に苦笑いしながら、先輩は鞄から参考書を取り出した。テーブルに広げ、歴史のページを開く。

「ここ、読んで」

 彼が指さした先には源義経の愛妾、静御前、白拍子と短く記されていた。

「妾って、シズカって人は義経の奥さんじゃないんですね」

「そうだよ。じゃあ、こっちは知ってる?」

 先輩は、同じページにある違う人物を指さした。


「ええと、源頼朝。この人は知っています。鎌倉幕府を開いた人ですよね。小学生で習いました。先輩、私のコトを馬鹿にしていますよね」

「いや、良かった」

 先輩はまた嬉しそうに笑った。


「何が良いんですか」

「それより、静がどうしたんだ」

「それが昨日、変な男の人がいて。私に向かって『シズカ』って言ったんです。その後、先輩に会ったんですけど」


「危なかったな」

 興俄先輩の顔から笑顔が消える。


「はい?」

「気を付けた方がいい。一人で帰る時は俺に連絡しろ。スマホを出して」

「え?」

「ほら、早く」

 半ば強引に連絡先を交換させられた。

「それで、冬華は他に質問ある?」

 身を乗り出して先輩が聞く。冬華は呼び捨てになっている、と思ったが何も言えなかった。


「あの、私やっぱり先輩とお付き合いできません」

 意を決して声に出すと、先輩は穏やかな顔で冬華を見つめた。

「俺のどこが嫌? 他に気になる奴がいるのかな」

「そんな人いませんよ。先輩は素敵で、私には勿体ないくらいです」

「じゃあどうして」

「見知らぬ人からいろいろ言われるし……私は毎日を穏やかに暮らしたいんです。先輩の彼女なんて目立つポジション、絶対に無理です。それに、私と先輩じゃ、どう見ても釣り合わないと思います」


 昼休み、自分に向けられた心無い言葉を思い出して俯いた。


「そんなことないよ。俺には冬華しかいない。誰にも文句は言わせない。誰にも文句は言われなければ、付き合ってくれる?」

 先輩は優しい口調で言って、微笑んだ。

「でも……」

「俺たちはお似合いだと思うんだけど。冬華はもっと自分に自信を持った方が良いよ。それで、他に断る理由があるならどうぞ」

 彼は断れないように話を進めていった。


「他には……ええと、ない……ですけど」

「良かった。じゃあ付き合ってくれるよね」

 身を乗り出して微笑まれると何も言い返せなくなる。断る理由を考えるが、何も思いつかなかった。

「わかりました……宜しくお願いします」

 冬華はゆっくりと頷いた。


 彼の言う通り、翌日からは嫌がらせも陰口もなくなっていた。そして気がつけば冬華は、誰もが公認する神冷興俄の彼女になっていた。

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