春を騙る女

月井 忠

一話完結

 自宅のドアを思いっきり閉めた。

 こうすれば少しはうさが晴れるかと思ったけれど、逆に金属音がうるさくて心は荒れた。


 春は別れの季節だ。


 結局私は、また別れを選んでしまった。

 ゆっくりと目を閉じる。


 手を伸ばせば触れられる距離に、メガネをかけた彼の顔が浮かんだ。


 また迎えに来てくれないかな。

 そして私をこの退屈な日々から連れ出して欲しい。


 薄く目を開く。

 そこには代わり映えのない真っ暗な自分の部屋があった。


 私は幻影を振り払うように、そばのスイッチに手を伸ばし明かりをつける。

 なくした日々を思っても、日常は残酷に進んでいく。


 家事に終わりはなくて、サボればその分、ツケが回るだけだった。

 何も考えないようにして、夕食の用意を始める。


 冷凍庫を開けて、パンパンに詰まった中から袋を一つ取り出し、電子レンジに入れる。

 今日もコレ一択だ。


 早く冷凍庫を空にしないと、次が入れられない。

 まだまだ先は長そうだ。


 ガチャ。

 ドアが開いた。


「ただいまあ」

「おかえり」


 私は努めて無愛想な声で答える。

 少しでも私の気持ちを感じてほしかった。


「メシは?」

「いつもの」


「また肉?」

「不満? じゃあ、自分で作れば?」


「わかったよ~」

 夫は渋々といった感じで答えると、ジャケットをソファに投げて、ダイニングテーブルの椅子を引く。


 電子レンジからは蒸気の音がしている。

 冷凍肉に熱が入っていく。


 私は投げ捨てられた夫のジャケットを見ていた。


 シワになるから。

 もうそんな言葉も出てこない。


 私はキッチンに目を戻して料理を続ける。


「はい」

 短く言って、テーブルに皿を置く。


「あいかわらず、うまそうだなあ」


 それはそうだ。

 この肉は特別なもので、臭みを消すために色々と実験をしている。


 まずいわけがない。

 うまければ食も進んで、すぐに冷凍庫は空になるだろう。


「お前も食えよ」

「ええ」


 私は自分用に用意した質素な夕食に手を付ける。

 同じものは食べない。


 手間はかかっても、違う料理を作る。


「うまい! うまい!」

 夫は見境なくがっつく。


 ざまあみろ。

 心の奥底で毒づいた。


 暴飲暴食の果にいなくなってくれないかな。

 そう思っていた。




「じゃ、行ってくるから」

「は~い、いってらっしゃ~い」


 夫はソファで横になったまな、手をひらひらとさせる。

 土日だと普通の会社は休みだ。


 そしてパートの私は土日が稼ぎ時になる。

 つまり、夫は家でゴロゴロとしていて、私は外であくせくと働くことになる。


 いつからこんな形になってしまったのだろう。




 ヘトヘトに疲れて店を出た。

 この頃は、立ち仕事もきつい。


 別のパートを探したほうが良いかもしれない。

 今の職場を辞めることを考えてみる。


 シフトはギチギチで隙間なんてない。

 私が辞めたら、他の誰かが割りを食う。


「はあ」

 気づかぬうちに、ため息が出た。


 ふと、メガネをかけた彼の顔が浮かんだ。

 やっぱり別れなんて選ぶべきじゃなかった。


 新しい恋の一つでもしていないと私の心は平静を保っていられない。

 そう思いながら、とぼとぼ歩いていると、夜道の向こうから男が二人やってきた。


 前にいる男はスーツを着こなしていて、すらっと背が高い。

 細面で、清潔感のある姿。


 心の隙間に、すっと温かな風が入り込んできた。

 そんな気がした。


 男はまっすぐ私に向かって歩き、目の前まで来る。

「あの、すいません」


「は、はい!」

 思わず大きな声で返してしまう。


 まさか、向こうから話しかけられるなんて思ってなかったから。


「私、こういうものでして」


 えっ、そんな急に。

 私の心は準備もできないままに、慌てふためく。


 でも、直感でわかった。

 春は別れの季節だけど、出会いの季節でもあるんだ。


 彼はあたふたとする私を置いて、自己紹介を始める。

 声は低くて、聞いているだけでうっとりしてしまう。


「これから、お時間ありますか?」

「え? はい」


 まさか令和にナンパなんて。

 でも、心は初めから決まっていた。


 今までは自分から追ってばかりの恋だった。

 たまにはこうして追われてみたい。


 私は彼の後をついていき、車に乗る。

 彼は助手席に乗って、一緒にいた男が運転席に座った。


 なんだか、普通じゃない状況に心が踊った。




 彼と私はテーブルを挟んで向かい合って座る。

 これから、どんなことが起こるのだろう。


「こちらの方、ご存知ですか?」

 彼は一枚の写真をテーブルに置く。


「え?」

 そこにはメガネの彼、いや元彼の顔があった。


「はい、知ってますけど」

 私は上目遣いで彼を見る。


「では、こちらの方々もご存知ですか?」


 彼は次々に写真を置いていく。

 順番通りに置いていく。


 メガネの元彼の次は、ぱっちりした二重が特徴的な元彼、その次は背がとても高かった元彼、その次は少し悪そうで、でも優しかった元彼、最後は私にこんな世界があると教えてくれた同級生の元彼。


 みんなここ数年で付き合った元彼たちで、写真を逆に辿ると付き合った順番になる。


 えっ?

 この人、私のことをこんなに知ってくれているの?


 私は目を上げると彼の顔に釘付けになってしまう。

 胸の高鳴りを抑えられない。


「今日、お宅を調べさせていただきました。風呂場からルミノール反応が出たということです」


 そう!

 あの人、結婚する前は、風呂掃除は自分がやるからと言っていた。


 それなのに、今ではソファでゴロゴロしていて、風呂掃除はいつの間にか私の仕事になってしまった。

 脂の汚れを落とすのがすごく大変だったのを今でも覚えてる。


「冷凍庫にあった袋も調べさせてもらいました。ちょうど五人分だそうです」


 そう言えば、あの人、昔に比べて食が細くなったとか言って、食べる量が少し減った。

 そんなことだから、いつまで経っても冷凍庫が空にならない。


 でも、今はそんなこと、どうでもいいと思えてしまう。

 冷凍庫に空きがなくても、こうして新しい恋が私を導く。


 彼は私のことを全て知ってくれている。

 その上で、こうして目を合わせてくれる。


 今までの男とは違う。

 家でゴロゴロしている、あの人とも全然違う。


 私は刑事を名乗るこの人と一生付き合っていく。

 私の心に春が舞い降りた。

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